感情その1.5
※流血表現があります。
私が出した答えは、【スイと会う】ということだった。
会えばいつもと変わらない笑顔で、会えなかった理由を話してくれるんじゃないかって何が何でも期待してしまう。
例えその理由が言い訳だとしても、嬉しくて気にしないふりをするだろうな。
馬鹿な選択だと理解はしている。
「それでも」の可能性を希望がないと分かっていながら掴み取ろうと足掻いている。
まるでこの世界での私みたいで、滑稽だ。
理解しているのに止められない。
ーいつの間にか、この世界に囚われていた。
* * *
スイに会うというだけで中学以来の胃痛が再発する。
キリキリと内臓を、全身を縛って砕いてしまうかのような痛みが私を襲って、気を張り詰めてないと倒れてしまいそうだ。
前ならクズミに会うだけで常に胃痛がしていたのに、今はスイに会うことでさえ私にとってはストレスと同類らしい。
彼の言動ひとつで殺されそうなほど、恐怖している。
頭まで被った毛布で恐怖を隠すようにぎゅうっと身体を縮こませた。
《不変なんて、この世には無いのよ!!!》
朝から付けっ放しのテレビから女優さんの声が流れてくる。
緊迫した空気に浮かぶフレーズは、いまの私にとって恐怖を促進させるだけでしかなくて、すぐさまスイッチを切った。
このちっぽけな部屋が侵食されて行く、見知らぬ誰かの手によってまた私は独りになってしまう。
外は、怖い。
だけど今は自分の小さな部屋も怖い。
震える私を嘲笑うかのように、チャイムが静まり返った部屋に響く。
柔らかい音だと分かっているのに何だか不気味な機械音に思えてしまう。
「……」
毛布を被ったままゆっくりとその場で立ち上がる。
部屋全体を見渡すと少し薄暗くて、何処か寂しい。
分かっているのだ、こんなことをしていても意味がないということくらい。
毛布を身体に巻きつけ、ずるずると引きずりながら玄関へと歩く。
まるで悪夢のような選択肢だ、なんて思いながらドアの鍵を回した。
「ミヤ、部屋、おるの?」
壁越しに彼の声が聞こえる。
静かな部屋に自分の心臓がドクン、と小さく脈打った音がやけにリアルに耳に入ってきた。
気分を落ち着かせるために一先ず深呼吸をして、それからそろそろとドアへ視線を向ける。
胃が、痛い。
またキリキリと痛み出した。
こんなことしたって変わり様がないのだから腹をくくってしまえばいいのに、理解しようとしない身体は尚も痛みで蝕んでいく。
震える手をぎゅっと握って、自分自身を覆い隠す毛布をもう一度キツく纏う。
「…ミヤ?」
自分からドアを開けるのことも声を出すことも嫌だったから、少し大きめにドアを叩いて「開いてますよ」のアピールをする。
するとこちらの様子を伺うかのようにキィ、と音を立ててゆっくりとドアが開いた。
ドアの隙間から戸惑いがちに顔を見せた彼は、ぎこちない笑みで私に話しかける。
「…元気やったか?」
「……」
「あ、…悪い、ちゃうから部屋におるんよな」
再度「悪い」と言って顔を俯かせた彼をじっくりと見つめる。
数ヶ月見ない内に、また一段と大人びた容姿に変化していたみたいだ。
少し長めだった黒髪は現実でもゲームでも見たことがないくらい短く切られているし、背も少し、高くなったかもしれない。
私だけ、置いていかれる。
それだけがとてつもなく怖いと感じる。
「スイ」
久々に彼に投げかけた声は想像していたよりも哀しい色をしていた。
私の言葉を切っ掛けに堰を切ったかのように彼の口からボロボロと言葉が流れ落ちる。
先ほどからたびたび伺う、普段なら有り得ない不安定な彼を止めるだけの正気も、肉体的な元気さえ残っていなかった。
もう少しマシな状態なら、こんな展開にならなかったのかもしれないというのに。
変えようのない事実を否定する私は愚かだ。
「…ミヤ、俺な、気づいてしもうたんよ。そしたら怖くなって離れたくなったんや。こんなん、バ苅田のこと言えへんわ。理解しとうもなかった」
眈々と言い放って悲痛な顔で俯く彼を見ていられなかった。
何を言われているのか分からない。
離れたくなったって、私のこと?
怖くなったって、何が?
私を、嫌いになったってこと?
訳の分からない感情が胸の中でぐるぐると渦巻いて、脳内で同じような自問自答を繰り返し続けている。
ねぇ、誰か助けて。
スイが【知らない人】の顔をしている。
こんな人は知らない。
何処か赤くて仄暗い色をした瞳も、少し大きくなった手で私の肩を掴む強さも、彼の不気味な雰囲気も、全部全部私は知らない人だ。
ほらまた、そうやって黙っているうちに彼が指先に力を込めて、私の肌に彼の手の爪を刺すかのように────────。
え?
さ、す…?
「ミヤ、俺ら親友だよな」
「なぁミヤ、そうだよな。そうだって言ってや」
「家族だよな、前言ってたやろ。俺らはずっとそうだって。ずっと一緒やろ?」
「ミヤ、ミヤ、ミヤ」
「何で何も言わんの?放ったらかしにした俺のことなんてどうでもええって言いたいん?なぁ、何か言えよ」
「…ごめん、怒って悪い。俺不安で…ミヤの体調が悪いの分かってんのに、ホンマごめん」
「ああ、わかった」
先ほどの暗さは嘘かのようにペラペラと喋り出して質問を投げつけられる。
あまりの豹変ぶりにその場で対応することはおろか、相槌すら打てなくてついていけそうにない。
その姿が何処となく不気味で一瞬後ずさりをしてしまいそうになるくらい、異常な光景をしていた。
ひとりでに何かを理解した彼は、難関の問題が解けたときによくしていた、首の裏を軽く掻く仕草をしている。
数ヶ月前まで見慣れていたそれが分からない。
今だって見たことのないくらい本当に嬉しそうに笑って、顔を近づけて…。
「首輪、付ければいいのか」
「ぇ、あ、」
頭まで被っていた毛布を剥ぎ取られて、ひんやりとした空気を肌で感じた途端に頬から首へ、暖かな手がするりと落ちてくる。
撫でるように、一瞬だけ愛おしげに細められた瞳がどうしても粘着に感じられて気味悪く思え、離れようと身を捩る。
そのときに見えた口元の笑みが、彼が本当に知らない人になったのだと告げる合図だった。
「ひっ!」
玄関へと逃げようとした私の身体をダンっと後ろの壁へ強い力で押さえつけ、距離が近づくにつれて肩へ込める手の強さで完全に動きを抑え込まれる。
視線が合った瞬間、強烈な痛みがびりびりと電流のように脳裏に走った。
「いっ、痛ぁ…っやだ!!す、すい、彗劉!痛い痛い痛い痛い、やめて、やめてよぉ…っ痛いよ、痛いぃいいいい」
悲鳴が部屋の中に溢れかえる。
少し前に閉じられたドアのせいで私の声はスイ以外には誰にも気づかれない。
意識が飛びそうなほど力強く首を噛まれる。
首の肉を噛み切ってしまうかのように、押さえつけられた彼の歯が離れない。
強烈な痛みで視界が真っ白になりそうだ。
しばらく叫びながら痛みに耐えていると一通り噛み終わったのか、首から顔を離して満足げに笑う。
もうこれで終わったのかと安堵していると、湿った感覚とぴりっとした痛みが私を襲った。
異常に痛む首を震わせながら視線を下げると、首に顔を埋めている彼の姿が見える。
…首、舐められてる。
噛まれたことに驚愕して思考停止していたからか、湿った感覚がしたのは彼が舐めていたから、という事実を飲み込むまでに数分かかった。
もしかして、また噛む気…?
まだ鈍っている思考のせいで冷静な判断を取れず、酷くされると分かったはずなのにまた腕の中で踠く。
それに比例するように、噛み跡を舌で抉って再度同じ場所を噛む作業が繰り返される。
徐々に身体が焼け付くような痛みに変わり、全体的に熱を放っているかのように熱くて仕方が無い。
この行為を繰り返してスイは一体、何がしたいのだろうか。
「綺麗に付いた。な、ミヤ」
やっと私が暴れなくなったとき、彼の腕とあの行為から解放された。
さっきから腰が抜けていたようでその反動で、ふらりと床へ崩れ落ちる私の身体をスイが支える。
ふ、と視線を合わせるようにして顔を上げた彼の口元は、私の血で真っ赤になっていた。
傷口がじくじくと膿んでいくみたいで痛い。
焦点を合わせた先にあった赤色のせいで、私の視界も赤に染まる。
グラグラと足場のない場所へ沈んでいくような気がして、どうしようもなく不安になってしまう。
頭が煮えるように熱い、溶けて融けて消えてしまいそう。
同時に赤信号と青信号が脳内で点滅する。
チカ、チカ、チカ、音を立てて催眠をかけるかのように意識ごと無理矢理奪っていく。
「…す、い」
今の彼には、私の小さな呼びかけにすら気づくことはない。
だってもう彼に私なんて、見えていないのだから。
立ち上がろうとする服の裾を掴んでその場へ留まらせようと腕を動かすも、力の抜け切った身体は指一本すら動かず、逆に眩暈がしただけで終わる。
もしかしたら私は、変わらないあの日の彼だけを留めたかったのかもしれない。
「消える頃に会いに来るなぁ」
支えのなくなった身体はだらりと崩れ落ちる。
完全に床へ落ちた私を見て、「まるで人形みたいだ」と言って笑うこの人は、もう私の知る“三橋彗劉”じゃない。
その口角の上げ方はまるで、──────。
パタン、とドアの閉じる音が何処か遠くで聞こえていた気がした。
何も考えたくなくてぼーっとしていると、いつの間にかあれから30分経っていたみたいだ。
何だか胃がムカムカする。
ずっと痛みを持っていたからか、痛みから解放された胃腸の動きが緩い。
お水でも、飲もうかな…。
ゆっくりと立ち上がろうとしたその瞬間、鋭い痛みに膝をついた。
困惑していると続いて喉からせり上がってきた“ナニカ”が引っかかって、ゴホゴホと咳き込んでしまう。
何故だろう、口内から鉄の味がする。
スイは言った、「噛み跡を消すな」と。
その言葉は昔のクズミの台詞に類似していて、首のペリドットと競うかのように付けられた傷は、あの日クズミが大嫌いになったときの出来事によく似ている。
私には、まるでスイが『罪の果実』の三橋彗劉になってしまったように思えた。
「…え?」
再び咳き込んだとき、掌で口元を覆った瞬間に先ほど見た赤黒い何かがべっとりと付着していて、動揺が激しくなる。
どうして、なんで。
そんな簡素な言葉しか浮かばない。
様々な出来事が巡り巡った頭の中は整理がつかなくて、煮え続ける頭はオーバーヒートしてしまったらしい。
視界が真っ白になったと思えば、暗転して沈んでいく。
記憶が戻った日のように、私はまた気を失った。
あの頃の大好きだった君に会えない