009話 サラス商業都市
そこには異世界だとしか思えない光景が広がっていた。
扉の向こうには、おとぎ話の世界が広がっていた。
真正面には白い壁の城が見える。世界一有名なネズミの住む夢の国のお城よりも大きいであろうその建物は、この町のシンボルなのだろう。
街の南端であるこの通用口から、恐らく北の端であろう城まではざっと5㎞ほどはあるだろう。遠目から見た時はぐるりと円形に囲まれた町のように見えたから、この町は半径2.5kmの円に守られているということだ。
その城まで続く道は、最後まで石で舗装されている。灰色の道はコンクリートで舗装されている現代の道路よりもよっぽど美しく見える。道の幅は4~5m幅といったところだろう。大きめの馬車が互いにすれ違っていく様子が見える。
道の両側には乳白色や灰色の壁の家々が立ち並んでいる。どの建物も、高くて3階建て程度なのだろう。石造りかレンガ造りと思われる町並みは、統一感のある規律を見せつけてくる。
何軒かおきに間が空いて路地が出来ているものの、その間隔も一定で、きちんとした町作りの計画が立てられていたことを伺わせる。
道の両側には、商魂たくましい人々の露店が見える。道の両側に一列にならんで続いている様子は、この町が豊かで物流も活発である証なのだろう。
大きな布を地面に敷いてその上に商品を並べている露店や、木組みで屋台のようなものを組み上げて物を売っている露店やら、縁日のようなバラエティが見て取れる。
木組みの屋台からは肉の料理であろう香りが漂ってくる。嗅ぐだけで、お腹が減ってくる匂いだ。否応なく、自分がほとんど空腹の状態であることを自覚する。
ぐ~
僕の胃袋が、大きな音で自己主張してきた。恥ずかしい。
周りの露店や街並みに目移りしながら、冒険者ギルドに向かって歩き出す。
何よりも町を彩り鮮やかに見せているのは、道行く人々の色とりどりの服装だろう。皆どちらかと言えば原色に近い、赤や黄色、紺色や白などの服を着ている。そしてこれまた色鮮やかに黒や白や藍色などのマントを羽織っている人々がちらほら居る。
キョロキョロとしながら歩く僕は、離れてみれば不審者か田舎者に見えるだろう。
露店を見る人、剣を腰に佩いて颯爽と歩く人、道行く通行人を呼び止める人、皆がそれぞれ活気を感じさせる。
始業前の教室を思わせる様な、ざわついた喧騒が心地いい。人が居る実感を覚える。
「おぉ、エルフだ」
思わず声を挙げてしまい、自分の発した音にびっくりしてしまう。
慌てて周りを気にしてみるが、どうやら皆気にするほどでも無かったらしい。よかったと胸をなでおろす。
そう、町を歩く人は服装も行動も様々だが、何より人種が様々だ。
日本の都会なら大抵が日本人で、たまに白人や黒人が目に留まる程度だろう。つまりは歩く人が全員人間・ホモサピエンスだ。
しかし、今僕の周りや目の前には、異世界に居るのだと否応なく実感させる人種のサラダボウルがある。
エルフらしい耳の長い、透き通るような肌をした美形が露店のアクセサリーを物色していたり、マーマン(魚人)と思わしき人が露店の屋台でクレープらしきものに焼いた肉を入れて売っていたり、ドワーフらしい小柄なひげもじゃが、人と人の間を抜けて行ったりしている。
老若男女も入り乱れている。美しく若い女性が男性の視線を浴びながら歩いていたり、皺枯れた声で値引き交渉をしている老婆が居たり、目線が女性の胸ばかりにいっているおじさんが居たり、騒いでいる子どもが居たり。
主に男性陣の気持ちはよく分かる。そりゃあ綺麗な人には目が行くだろうし、目が行くにしても行く場所が身体の一部に偏ってしまうのは分かる。
はしゃぐ子ども達も、実に微笑ましい。エルフだろうと思わしき子どもと、茶髪の坊やが仲良くしているところを見れば、種族に貴賤は無いと言っているようにも見える。
ぶつかりそうになった子どもを避けつつ、人の波を躱しながら30分ほど歩いただろうか。
大きな通りとの交差点まで来た。
交差している道路は、さっきまで歩いて来ていた道よりも道幅が広い道路で、露店も布敷きより木組み屋台の方が多いようだ。南口の通用門から延びる道路と直角に交差するような大通りは、道幅が6mぐらいはあるだろうか。
きっとそれなりの規模の軍隊行進が出来るように広く作ってあるのだろう。
その大通りとの交差点に面した角地に、冒険者ギルドがあった。
翻訳の魔法は素晴らしい。上げてある看板の模様は分からないが、冒険者ギルドと書いた案内板が出ている。
大通りに面しているからだろうか、人の賑わいは耳をふさぎたくなるほど大きく、話し声やら怒鳴り声やらが聞こえる。
流石に冒険者ギルドは荒くれ者が集まっているのだろう。聞こえてくる声の音の大きさが、今までより2段階ほど大きい。
教室の隅の苛められっ子の独り言と、教室中央のアイドルの笑い声ぐらいの差がある。
「大きいなぁ、凄いや。城の大きさは別格だけど、冒険者ギルドも中々に大きい。勝手に入っていいのかな」
思わず感嘆の声が出てしまうほど立派だ。
冒険者ギルドの建物は、石造りの3階建てで、かなり大きな建物だった。大通りの、恐らく一等地に位置しているからか、人も大勢集まっているのだが、それでもまだ建物には収容スペースが空いている。
中で運動会でも出来るほどに広く大きい建物だ。
入口は開放的で、ドアも無い。たぶん夜には嵌め戸を閉めるか、もしかしたら24時間営業なのかもしれない。
多少気おくれしつつも、中に入る。
風通しの良すぎる入口から建物の中に入れば、まず目に飛び込んでくるのは如何にも冒険者でございますと言わんばかりの強面の方々。
小さな金属製の輪っかを編み上げたような、鎖帷子風の鎧を来た戦士と思われる男が居たり、家紋のような模様が刺繍されている白いマントを羽織った人が居たり、獣の毛皮らしきものを首と腰に巻いている野性味あふれる人が居たりする。
待合室のようなところに、30人ぐらいは居る。
女性の姿も二人ほど見かけたが、これみよがしに露出している肌の肉付きから、逞しく鍛えられていることが伺える。
入った時には、何人かが僕の方を見てきた。遠慮の欠片もない、ジロジロとした目線を向けて、頭から足の先っぽまで穴が開くほど見つめられる。
そりゃぁ異世界で制服は珍しいでしょう。
あまり気持ちの良いものではないが、理解は出来る。
待合室の隣には、キャスター付きホワイトボードぐらいの大きさの掲示板らしきものが幾つも置いてある。高さは2m弱ぐらいで、人の膝上ぐらいまでが一枚の板になっている。幅は大人が二人ぐらい手を広げて繋いだぐらいの幅だ。
そこに茶色い紙のようなものが沢山張り付けてある。
掲示板を真剣に眺めている人間も十数人ほど居る。時折張り付けてあるものを剥がしてはカウンターの方へ持っていく。
そうそう、カウンターもあるのだ。
役場か銀行の受付カウンターを思わせる様な、腰ほどまでの高さのカウンターテーブル。そこに受付窓口のような区切りがある。区切りで出来た一つ一つの空間には、それぞれに人が座っている。
大抵が美人で、受付嬢といった雰囲気だ。この人たちが建物の中を華やいだ雰囲気にしている。
見るからに腕っぷしの強そうな怖いお兄様方が大勢いる分、受付嬢の輝きを混ぜることで少しでも町に溶け込めるようにしているのだろう。
弱塩酸に水酸化ナトリウム水溶液を混ぜれば、酸性とアルカリ性が中和されて食塩水になるようなものだ。
美人だけなら目の毒で、怖そうな人だけなら心臓に悪い。混ぜるからこそ丁度いいのだろう。
見回したところ、カウンターには専門分野というか個別の役割があるようだが、冒険者になるには何処に行けばいいのだろうか。
とりあえず入口に一番近い所の窓口が空いているので、そこで聞いてみる。
「あの~冒険者になろうと思ってきたのですが、何処に行けば良いでしょうか」
座っていた受付嬢は、同い年ぐらいの女の子だった。
栗色で若干癖のある髪をポニーテールにしている。目はぱっちりとして大きく、幼さが若干残る顔立ち。子どもの柴犬のような愛嬌がある、可愛い娘だ。
「ようこそ冒険者ギルド、サラス支部へ。冒険者志望の方ですか?」
「はいそうです」
「冒険者登録はこちらで行っております。冒険者の登録手続きとしてカード発行をされますか」
「お願いします」
可愛い娘に受付してもらえるのなら、喜ばしい限りだ。
むさ苦しいおじさんにしてもらうより、見目麗しい女性にしてもらった方が、冒険者として幸先が良さそうだし。
「ではこちらにお名前をご記入ください。偽名は可能ですが、お止めになることをお勧めします。それ以外の項目は可能な限り埋めて頂ければ結構です」
茶色っぽい紙が目の前に出された。さわり心地は少し硬い感じだ。厚紙製の下敷きのような硬さだろうか。
偽名を避けた方が良いのは何故だろう
別に分からないと思うのだけど
「偽名を避けた方が良い理由は何ですか?」
「……偽名を使われるのですか?」
「いえいえ、あくまで気になったので聞いただけです。他意はないですよ」
疑わしそうな目で女の子が見てくる。
いや、確かに怪しいものですけど、悪い人間ではないつもりですよ。少なくともここ最近で行った悪行は、襲ってきた生き物を殺してしまったことぐらいだ。
あれ?十分悪いことじゃないのか?
襲われたから正当防衛だな。たぶん。
実際に殺したのはアランとかいう赤毛の団長様だし。
「偽名を使われると、身元確認と犯罪歴照会の為に2週間ほど拘束して取り調べを行う決まりになっているのです。ちなみに、後ほど鑑定水晶と鑑定者による査定がありますので、偽名は必ず判明します」
「なるほど、それでは偽名で登録する人は居ないのですか?」
さっき、偽名はお勧めしないが可能だと言っていた。
そんな不利益があるなら、誰も偽名を使わないのではないか?
「いいえ、偽名で登録される方も居られます。高位貴族のご子弟や、王族の方々が身分や家名を隠したり、他国で犯罪者の逆恨みを受けている方、或いは宗教上の理由で真名を隠す必要がある等の理由で、偽名を名乗られたりする方が稀におられます」
「それなら私は偽名にしない方が良さそうですね。王族でも貴族でも無いですし、無宗教。恨みはかった覚えがないです」
貴族や王族まで拘束しようというなら、結構冒険者ギルドというのは権力があるのだろうか。
目の前の女の子の笑顔からは想像もできない。
大人しく本名を書いておいた方が良いだろう。名前以外にも書く場所が結構あるみたい。
なんだろう、この属性とか昇格値とかって。
所持魔法とか出身地は分かる。分かるけど書いて良いものなのだろうか。
「この属性とか、昇格値って何ですか?」
栗毛のポニーテール受付嬢が、違った笑顔で答えてくれる。不思議な顔して答えてくれる。
「はい、説明いたします。属性は貴方の魔法の属性、昇格値はレベルアップ時の基本値を記入してください。これらは単純なレベルやランク以外の物が求められる依頼の際の参考にされます。例えばアンデット討伐ではレベルよりも火魔法を使える方に優先して依頼がいきますし、高レベル任務では基本昇格値の高い方を優先して紹介しております」
魔法に属性なんてのがあるのか。しかも昇格値ってのは説明を聞いても分からない。
野犬を森で追い払ったときのレベルアップで、残ポイントが15ポイントとかって出ていた。あれだろうか。
「えっと……魔法の属性はよく分かりませんが、昇格値というのはレベルアップの時に増える残ポイントのことでしょうか」
「はい、そうですが……」
ますます不思議そうな顔をして見つめてくる。
首をかしげる姿は可愛らしい小動物のようだが、受付嬢としては淡々と職務をこなした方が良いと思うけどね。
魔法の属性はよく分からないから空白で、昇格値の項目は15と書いておこう。
出身地は……異世界だと日本と書いて分かるだろうか。
所持魔法は【翻訳】と【鑑定】と。
「これで良いでしょうか」
比較的大きめの目を瞬かせている女の子に記入した紙っぽいものを渡す。
なんだろう、羊皮紙とかそういうものなのかな?
受け取った受付嬢は、今度は明らかに驚いた表情を浮かべている。
「ハヤテ・ヤマナシ様、ここに書かれていることは全て嘘偽りのないことなのですね?お間違えが無いかもう一度ご確認ください」
そういって用紙を返してきた。
中々手続きと言うのも面倒くさいものらしいが、ほとんどが空白の記入でどうやって間違えるというのだろうか。一つ一つ指さし確認までして、間違いが無いことを確認した上で改めて受付に渡す。
「はい、間違いありません」
そう伝えると、受付嬢がポニーテールを揺らす。
目は大きく開かれて、パチパチと普通よりも多めであろう回数の瞬きをしている。言葉を失って驚いているというのがぴったりと当てはまる様子だ。
「し、少々お待ちください」
ガタンと椅子を揺らし、慌てて奥の方に駆けていってしまった。
ぽつりと残された僕は、どうすればよいのかと戸惑ってしまう。
入口近くで明るく、それも窓口前で待たされるというのは、周りの冒険者たちの目もあって居心地がとても悪い。落ち着かない。
心なしか、入ってきたときよりも奇異の目で見られている気がする。
その場所から逃げたい思いも手伝って、掲示板らしいところに向けて歩き出す。
折角冒険者ギルドに来て冒険者になろうというのだから、ギルドの建物を知ることは重要だとおもう。 逃げたとは認めたくない気持ちもあるのだろうか。
掲示板に貼られていたのは、茶色い紙らしいもの。受付で記入したものとよく似たものだ。
書いてあるのはどうやら依頼内容のようだ。掲示板が幾つかあったのは何かの基準で区分けがされていたからのようで、たくさんの紙が貼ってある掲示板もあれば、ほとんど貼っていない掲示板もある。
掲示板の上の方にはアルファベットが書いてある。GとかDとか、どういう意味なのだろうね。特にDの意味は気になる。ミドルネームになっていたら、きっと壮大な伏線でもあるに違いない。
紙の内容も色々だ。
これを眺めているだけでも、異世界らしい雰囲気が感じられてとても面白い。
楽しそうな笑顔を浮かべながら、色んな紙を見てみる。
『ゴブリン討伐 報酬:3200Y 依頼人:ガラナ 依頼内容:モラポ村の村長からの依頼。村の近くに出来たゴブリンの巣の駆除或いは全ゴブリンの排除。村への被害は出ていないものの、水場の近くに巣が有るために早急な対応を希望。詳細は依頼受諾後に村まで出向いて聞くこと。 特記事項:なし』
うん、それっぽい。
やはり冒険者と言えば、こういうモンスター討伐はありがちな依頼なのだろう。
通貨単位はよく分からないが、わざわざ依頼を出すぐらいだからそれなりの金額なのだろう。子どもの小遣い程度なら、そもそも依頼を出す手間の方が惜しいだろう。
他にもよく分からないモンスターの名前で、討伐だの駆除だのの依頼が目につく。
『コロロ草の採取 報酬:一株200Y 依頼人:エリオット=マクラーレン男爵 依頼内容:薬草であるコロロ草を出来るだけ多く集めて欲しいとの要望。報酬上限は設けていない。期限は夏中月の1日まで。 特記事項:群生地でのスパイスパイダー出没の情報あり』
討伐以外の依頼なら、採取依頼も多いようだ。
冒険者に依頼したくなるような採取だから、きっと危険があるのだろう。特記事項とかが特に怪しい。
男爵とかなら貴族で間違いない。自分の部下も居るだろうが、それでも冒険者に依頼する以上何か理由があるに違いない。
期限とかが見慣れない書き方なのは、異世界だからだろうか。
『モデル募集 報酬:ドレス1着 依頼者:セン=ルイスキャット 依頼内容:新しい冬服のデザインを決める為に、モデルを募集。身長は問わず、細身であることが条件。性別は女性が望ましいが、男性でも面談の結果次第で可。詳細は中級区3番街の店舗に出向いて聞くこと。 特記事項:報酬はモデルの際に試作・試着したドレスである点に留意されたし』
変った依頼だ。
デザインコンセプトが冒険者的な何かなのだろうか。
男性でも良いってことは、ドレスを着る男性が居るということだろうか。
いや、きっと男の娘とかでも大丈夫だという依頼だろう。
日本の戦国時代なんかだと、そういう趣味は普通だったらしいし。
……この依頼書を見ていると、女性の冒険者がぎらついた目で僕を見てきた。背中に嫌な汗が流れる。
しばらくそうやって沢山ある依頼を眺めながら時間をつぶしていると、さっきの受付嬢が栗毛を揺らしながら早足で寄ってきた。
受付に座っている時は分からなかったが、意外と小柄なようだ。
ちらっとみた限りでは、胸も小さい。本当にちらっと見た限りでは。
「お待たせして申し訳ありませんでした。ハヤテ様、これから少々お時間をいただけないでしょうか」
「はい、構いません。別に予定があるわけでもありませんから」
やりたいことならあるが、予定はない。
この異世界のことを調べたいし、もしかしたら例の森に落ちた原因が分かるかもしれない。元の世界に戻っても特にすることはないが、それでも戻れるか調べたい。
しかし、別に焦るものでもない。
なるようになるさ。気長に、流れに身を任せるのも悪くない。
「それでは私に付いて来ていただけますか」
そう言ってこちらに目線を投げかけてくる。
これが熱烈な視線なら嬉しいが、どこか不安げに見える。
「良いですよ」
受付嬢は、そう答えた僕の言葉に対して、目に浮かべた不安な色をより一層強くした。
「ではこちらへ」
その言葉を言うが早いか、踵を返して歩き出した。
この世界の人は皆こんなに忙しないのだろうか。
左右に揺れる振り子のようなポニーテールを眺めながら、その後に続く。
外から眺めていたとおり、ギルドの建物の中は広い。
先を行く女の子が居なければ、きっと迷っていたであろう複雑な道順で奥に案内される。
きっとここら辺は関係者以外立ち入り禁止だと思うけど、気にしていたら置いてきぼりをくらうだろう。そうなったら入口まで戻れる自信が無い。
規則正しい足音をさせながら、奥へと進む。
目の前には柔らかそうな女の子の髪と、華奢な体躯。下半身の方はあえて見ない。小ぶりなお尻だとかは、全く知らない。全然、全く、これっぽっちも知らない。柔らかそうだなどとは思ってもいない。
楽しい時間と言うのはすぐに過ぎてしまうものらしい。
目の保養をしていると、足をそろえるのが見えた。
どうやら目的地に着いたらしい。
僕は慌てて壁の方に目を向ける。
壁には木で出来たこげ茶色の扉がある。
ニスでも塗っているのか、鈍い光沢があるドアは分厚そうだ。細かな細工もされているらしく、落ち着いた色合いと合わせて高級感を醸し出している。
その頑丈そうなドアを小さくて柔らかそうな手が叩く。手を軽く握り、手の甲をドアに向けて動かしている。
コンコンと堅そうな音をさせて、その手を下す。
4分休符が1つか2つ並んだぐらいの間があったのち、中から男の声が聞こえてきた。
「開いとるぞぃ」
その声を聞いて、受付嬢がドアノブに手を掛けてゆっくりとドアを開ける。
ドアは軋むことも無く静かに開いた。
一歩部屋の中に足を入れた受付嬢は、背筋を伸ばして不安げな声をあげた。
「ハヤテ=ヤマナシ様をお連れいたしました」
「うむ、入ってもらってくれ」
受付嬢は入口を空けるように横に動くと、片手を広げて僕の入室を促した。心配そうな目で僕を見ながら、部屋へといざなっている。
女の子からの誘いを断るのは、男にとって恥だろう。そう思って部屋に入る。
「失礼します」
部屋に一歩踏み入れた先には、老人が居た。
白い壁に囲まれた部屋は、上の方に明り取り用の窓がある。若干いびつなガラスが嵌めてあるようだが、それが柔らかい光を散らして部屋の中を明るくしている。
通用門の部屋にあった物よりも大きい棚があり、中には大量の紙と巻物が詰められている。地震でもあったら大変だろう。
目の前の老人は椅子にでも座っているのだろうか、上半身しか見えない。下半身は両手を広げたよりも大きな幅の机に隠れている。マホガニーの机のような、作業机だ。部屋の扉と同じく、堅くて重そうな木の机。その上にはインク瓶や書類の束が置いてある。
レモングラスのような香りが仄かにするのは、もしかしたら扉の傍に未だ立っている受付嬢からかも知れない。
入口の扉と老人の机の間には、応接セットらしきソファーとテーブルがある。
革張りと思しきソファーは、2人掛け用が僕から見て右手と左手の位置にあり、1人掛け用のものが奥に1つある。
ひざ下程度の高さのテーブルには、花瓶と綺麗な花。紫色の小さな花と、白と黄色の花が幾つか入れてある。
そんな部屋に居る老人が、ただの人なわけがない。
多分、ギルドの偉い人なのだろう。
偉い人なら、僕に何の用があるのだろうか。
そう思っていると、目の前の老人が机の引き出しから小さくて透明な玉を取り出した。水晶玉だろうか。ビー玉よりも二回りほど大きいが、野球のボールよりは小さいぐらいだ。
それをもって立ち上がると、ソファーの方へ回り込んできた。
背は高く180㎝ほどで、老人と思えないほどの体が伺える。背筋はまるで定規でも当てられたかのように真っ直ぐで、黒っぽい服を着ている。
ゆっくりと右手にある方の2人掛けのソファーに腰を沈めると老人らしい渋い声をかけて来た。
「まぁそんな所にたっておらずに、こちらに座りなさい」
そういって目の前のソファーに座るよう目と手で示してくる。
有無を言わさないプレッシャーを感じる。
恐る恐る示されたソファーに座る。目の前の爺様はジロジロと観察するように僕を見ている。
しばらく目線を上下させていたかと思うと、急に笑顔になって水晶玉を僕に渡してきた。
「そう緊張しなさんな。儂が君をここに連れてきたのは、君の書いた書類に不備があるかどうか確認してほしいと、そこのオードリーに言われたからなのじゃ」
ポニーテール少女はオードリーと言うのか。
名前を呼ばれたからか、急に肩を竦める少女が見える。
「君が書いた書類によれば、昇格値が15ということじゃったな」
「たぶんそうだと思うんですけど……間違っていましたか?」
「ほっほっほ、もしそうなら儂の【上位鑑定】が嘘を見せたことになるのぅ」
なんだって?
さっきジロジロとみられていたのは、魔法で僕を調べていたのか。
油断も隙もない爺さんだ。伊達にこんな部屋に居るわけじゃ無さそうだ。
「そういうわけで、お前さんが書いた内容に嘘偽りが無いことは儂が保証する。が、一応規則でな、鑑定用魔道具で記録を取ることになっとる。面倒じゃろうが、それを両手で持ってくれんかのぅ」
渡されていた水晶を両手で包むように持つ。
冷たく堅い感触が、少し強張った手から体温を奪っていく。
水晶と手の接点から、奇妙な感触が湧いてくる。身体の中から羽箒で撫でられるような、内側に感じるくすぐったさ。
段々とその感触が広がっていく。
手のひらから手首、腕、肩を通って首やお腹、背中や頭を抜けて、足のつま先までをくすぐられた。
股の間までくすぐったかったのは、正直勘弁してほしい。
こそばゆい感触が終わると、水晶の上からどこかで見たようなウィンドウ画面が透けて出てきた。
そこに載っているのは名前に、基本昇格値、現在のレベルや魔法にステータス等々……
個人情報を丸裸にされた気分になる。
嫌な気分でそれを見ていると、爺さんが声を掛けて来た
「それで終いじゃ。ご苦労じゃったな」
それだけ?
こんな場所に呼ばれるからには、もっと何か大変なことをしでかしてしまったのかと内心怯えていたけども、杞憂だったらしい。
冒険者希望者が来る度に対応するのなら、目の前の爺さんはあまり偉くない人なのかもしれない。
とりあえず長居は無用だろう。
立ち上がった僕は、外に出ようと扉の方に行く。
が、そこで立ち止まってしまう。
来たときは目の前を行く目の保養兼案内役が居たが、帰りの道が分からない。
どうしようか。
困っていると、例の保養役である少女が声を掛けてきた。確かオードリーさんだったかな。
「よろしければ先ほどの窓口で改めてここのご紹介をいたしますが、どうされますか」
それはありがたい申し出だ。
来るときには不安げだった彼女の表情は、とても晴れやかな顔になっている。
何か嬉しいことでもあったのだろうか。
自分の手続きした冒険者希望者が、問題なく手続きを終えたからだろうか。
「お願いします。冒険者カードはいつごろ貰えますか?」
それを貰うために来たのだから、確認はすべきだろう。
「ほっほっほ、しばらくオードリーの説明を聞いておれば、直ぐにでも出来るじゃろうて」
横から口を挟んできたソファーに座った爺さん。
しかし、直ぐに出来るのなら文句も無い。
聞きたいことは山ほどあるのだから、時間を潰すことに難は無いだろう。
「ありがとうございます。それではえっと……オードリーさん、案内してもらえますか」
「ドリーで良いですよ。それじゃぁ付いて来てくださいね」
孫でも見る様な微笑ましそうな顔をした爺様に見送られつつ、来たときよりも軽やかな足取りで、僕とドリーは窓口に向かう。
心なしか、行きに比べて帰りの方が、距離が近い気もする。
窓口に座っていた先輩らしき女性と交代した受付嬢ドリーは、初めてギルドに来たときと同じような笑顔を輝かせてこう言った。
――それでは、ギルドについてご説明いたします。