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水の理  作者: 古流 望
5章 A
70/79

070話 誘いと囮


 「大丈夫か?」

 「大丈夫だって親父。幾ら危ないと言っても昔は良く村の皆も入っていた林だ。俺だっていつまでも子どもじゃない。レベルだってこの間12にまで上がったんだ。野犬程度なら返り討ちだよ。安心して、俺がキノコを採ってくるのを待ってろって。お袋のこと頼んだぜ」


 そう言って俺は林に入って行った。

 少しの水と、採取用の布袋と、そして護身用の短剣を持って。


◆◆◆◆◆


 誘惑とは、邪な目的を持って誘う事。

 或いはいかがわしいことに誘われてしまう状態。

 もしくは欲望に逆らえずに流されてしまう有様。


 人は、常にそんな誘惑という厄介な隣人と生きている。

 そして、時にそれはとてつもなく凶悪な牙を向けることもある。或いは些細なイタズラを仕掛けてくることもある。


 小さい子どもの時の敵は、食事前のお菓子という誘惑だった。

 貰い物であったり、小遣いで買ったり、或いは遠足のおやつで買ったお菓子。それを自分の手の届く範囲に置いてあるとき、誘われなかったと言えば嘘になる。

 目の前にある美味しそうなお菓子の誘惑を、晩御飯前の空腹状態で我慢することは、子どもだった僕にとってはかなり辛いことだった。


 世の男性は、夜の蝶に魅惑され、誘惑にのってしまうものらしい。

 艶めかしいフォルムや美しく華やかな色。甘い香りに誘われるのは、この場合蝶では無く男だ。僕はまだそんな経験は無いが、そのうちそんな誘惑と戦う日が来るのかもしれない。


 言葉とは生き物であり、最近では単に迷うような事柄を指して、誘惑と呼ぶことがある。

 誘われ惑うことをそう呼ぶのなら、世の中は誘惑だらけだ。如何にそれと付き合っていくかが、人生の半分を決めてしまうと言っても過言ではないだろう。


 「どっちに行く?」


 そう言葉を発したのは、金髪の髪をさらりと揺らしながら振り向いた伯爵閣下だ。

 今、僕らの目の前にあるのは2つの誘惑。

 早い話が分かれ道。


 「依頼に書いてあった村に、早く着こうと思えば右だ。軽い山越えで、野獣も出る林道を通ることになるが、後2日もあれば着ける。左に行けば、見通しの良い所を行くことになる。まあ多少遠回りで3日ほど掛かりそうだが、その分安全性は増すだろう」


 エルフに似つかない、僅かに低めの声でスイフが答える。地図を見る目つきは真剣そのものだ。

 今回の依頼は、まずホイッテ村に出向くことから始まる。依頼書をそこまで持っていき、依頼人に詳しい話を聞く。その上で、依頼品の採取に向かう。

 その為に今、移動している途中なのだが、目の前で道が二つに分かれている。


 片方は、地図によれば平原を通る遠回りの道。見通しの良い場所を通るので、死角だらけでいつ襲われるか分からない林の中を行くよりかは安全になる。最初に騎士団長と出会った時も、恐らくその安全な迂回路の途中だったのだろう。森の中を突っ切るのは、相当な危険が有る。

 平和な我が故郷であっても、山や樹海に入れば獣の一匹や二匹出会うこともある。ましてこの世界であれば、出会わない確率の方が低いと言える。出会った獣が危険なものである可能性は、常に付きまとう問題だ。

 だが、平原だからと言って安心は出来ない。いつ野犬のような野獣に襲われるか分からず、迂回に時間が掛かればそれだけ襲われやすくなるともいえる。

 危険な場所を通るか、危険な時間を増やすか、どちらにしても危険な事には変わりが無い。


 悩ましい。

 こういう時に即断出来る人間は、きっと頭の良い人間なのだろう。


 僕がどちらに行くべきか迷っていると、幼馴染ペアがなにやら騒ぎ出した。


 「私は右の方に行くべきだと思う。私の正義の剣が悪しき獣を倒せと叫んでいるのだ」

 「ボクは左が良いと思う」

 「何を言うかアクア。ここは一気に突っ切った方が、結局は時間も掛からず負担も少ないでは無いか」

 「……アントは昔から単純」

 「うるさい。昔からお転婆だったお前に言われたくはないぞ」

 「単純」

 「お転婆」


 お互いが交互に同じ言葉を言い争いだした。アクアが単純男とアントに言えば、アントはアクアへ御転婆娘と言い返す。それが4~5回は交互に続いただろうか。

 アクアも普段無口な癖に、こういう時には退かないから困り者だ。

 仲が良いのか、悪いのか。

 まあ、喧嘩するほど仲が良いとも言う。気にしたら負けのような気がする。


 アクアからすれば、いざ襲われた時に敏捷性を活かせるよう、広い場所で戦いたいだろう。そして、アントからすれば敵の行動範囲が狭まる方が自分の剣を活かせる。お互い、敵が出てくることを前提に道を選んでいるに違いない。


 「……特に急がなければならない理由も無いから、左かな」

 「そうするか。あの二人はどうする?」

 「そのうち止めるでしょ」


 未だに小学生並みの口喧嘩でじゃれ合っている二人のことを脇に置き、左に行くことにする。

 今回の依頼は時間制限があるわけでは無い。安全を優先するのは当然のことだ。


◆◆◆◆◆


 迷った。


 「くそっ」


 親父が冒険者に依頼を出したというキイロマバラテングダケ。俺だっていつかは冒険者になる男だから、それぐらい取って来てやると出てきたが、迷った。

 段々と、心細くなってくる。

 親父に大丈夫かと聞かれた時、強がってしまったのを今更ながらに悔やむ。

 だが、大丈夫さ。この林は村のすぐ近くだから、歩いていればいずれ良く知った場所に出るに違いない。

 弱りかけた心を叱咤し、無理矢理元気を出す。空元気と言われようが、無いよりはましだ。

 こんなところでくじけていては、冒険者になるなんて夢を語れない。

 頑張れ、俺。きっともう少しで林から出られるさ。


◆◆◆◆◆


 道中二日のキャンプを経て、依頼人の居るホイッテ村が見えてきた。僕たちの目的地だ。

 柵で囲まれている事を除けば、のどかな農村と言った雰囲気だろうか。恐らく小麦と思われるものが柵の外にある広々とした畑一面に実っている様は壮観だ。見渡す限りという表現がふさわしいほどに広大な開墾地は、どれも良く手入れをされていて、この村が治安も安定していることを物語る。魔物や魔獣に荒らされていたり、ならず者が暴れていたりすればこうも整然と手入れされた畑が並ぶことは無いだろう。

 既に色付き始めた実りがそよ風で波打つ様は、まるで妖精が遊んでいるようにも見える。案外本当に居るのかもしれない。

 どこか懐かしさを感じるし、草の薫りがする。

 何人かの村人らしき人たちも見かけた。その中には、どう見ても農作業しているようには見えない人も居た。村人にしては服装がやけに小ざっぱりとしていて、土に親しんでいる職業には思えない。

 何やら一生懸命に仕事をしている風だったが、何をしているのか。


 「皆忙しそうだね」

 「ああそうだな。早い所ではもうそろそろ収穫だからだろう」

 「あの役人っぽい人は何をしているの?」

 「恐らく領主の命で収穫の具合を確かめているのだろう。この国は気候も穏やかで、農業に適する。その分、領内の税収の多くは農作物に偏っているから、今年はどの程度の収穫が見込めるかを調べに来ているのではないか?」

 「へ~」


 スイフが疑問に答えてくれた。

 貴族様も大変だ。農家だって自分達が作った物を、ただ持って行かれるのは癪だろうから、どうにかして税で取られる分を減らそうとするに違いない。収穫を少なめに申告するぐらいは有りうる話だ。

 事前に収穫の見積もりを調べておくのは、そんなごまかしを未然に防ぐ意味合いもあるのだろうし、不作を事前に察知して対策を打つことにもつながるのだろう。

 こうして都度役人が顔を見せていれば、治安も自然と良くなるというわけか。

 アントが一緒になって感心したように頷いているが、お前も成人すれば領主だろうに。


 ふと見れば、一人の男性が駆け寄ってきていた。

 着古したような服は農夫といった感じで、膝や裾には昨日今日のものでは無い、黒っぽい汚れが付いている。年の頃は40代と言った所だろうか。

 体つきが締まっている感じなのは、常に体を動かす職業の人間だろうと当たりが付く。少なくとも、何処かのお貴族様には見えない。

 足元の靴も簡素な木靴で、かなりの年季ものだ。

 かつかつと音を立てながら走ってきた男は、息を切らせながら僕らに話しかけてきた。


 「ぜぇはぁ、ぼ、冒険者の方ですね?」

 「ええそうです。エングロットと言う方の依頼を受けて来ました。もしかして貴方がエングロットさんですか」

 「そうです。来て頂けて良かった。息子がもう3日も戻らないんです。どうか、どうか助けてください」


 何だか聞いていた話とは違う。

 僕らが受けた依頼はキノコの採取だ。息子の捜索と言うのは依頼に入っていただろうか。思い出してみても、そんな記憶は無い。

 スイフの手を取り、神に祈る様な姿勢で膝をついて頼み込む農夫。息を切らす彼にそっと手をかけ、まずは落ち着かせようと試みる。


 「とりあえず落ち着いてください。詳しく話をお聞かせ願えますか」


◆◆◆◆◆


 「はあ、はあ、はあ」


 三日間。

 寝る間も惜しんで歩き回ったが、一向に見知った場所に出る気配が無い。

 俺だって村で十四年過ごしてきた男だ。今の状況が明らかに異常なことぐらいわかる。この林はそこまで広くないはずだ。いや、広くないと断言できる。

 それなのに何故か、幾ら歩いても終わりが見えない。

 歩いても歩いても、林の終わりどころか進んでいる気配すら感じられない。

 むしろ一層林の深い所に進んでいる気がしてくる。


 「もう駄目だ。歩けねえ」


 湿った雑草と腐葉土が入り混じった上にごろりと寝転がる。

 大の字になり、足を伸ばす。重りをつけたような下半身が、一息つくことでようやく鈍く痛みだす。身体を酷使した後には必ずついてくる痛み。足の内側から響くようなそれは、この三日間の苦労を嫌でも思い出させる。

 水も尽きて、喉がやけに乾く。唾をのみ込むたびに、喉の奥が剥がれる様な感触。からからに乾いた喉の前後がへばりついていたのを、無理矢理に剥がされるような感覚。水が飲みたい。腹も減った。

 頭にはオレンジや葡萄、或いはトマトや瓜のような瑞々しい果物や野菜が浮かんでは消える。


 「親父の言う事聞いてりゃ良かった」


 独り言で愚痴った言葉は、儚く林の薄暗さに消えていった。


――ガサッ


 何か音がした。

 茂みを掻き分けるような音。

 独り言を、聞いてくれるものが居たというのだろうか。


 助かった。

 きっと村の皆が俺を心配して助けに来てくれたんだ。

 これで村に帰れる。

 この時ばかりは神の助けというのを信じることにする。これからは毎日のお祈りも欠かさずする。そう心に誓う。ありがとう神様。


 「お~い、俺はここだ~」


 不眠不休の疲れや怠さも、何処か軽くなったように思える。掠れるような声しか出せないものの、精一杯大声で叫ぶ。

 喉から血が出るんじゃないかと思えるぐらい真剣に叫んだ。

 俺はここに居る。そう伝えたい一心だった。


◆◆◆◆◆


 「なるほど、息子さんが三日前に林に行ったきり帰って来ないと」

 「はい、そうなんです。今も村人による自警団が出て探してはいるのですが、最近は林にも夜な夜な山犬だか狼だかが出るらしくあまり深入り出来ません。騎士もこんな田舎には来ませんし、他の冒険者にも依頼はかけているのですが芳しくありません。お願いです。どうか息子を探してください」


 頼まれはしたが、これは本来騎士団か村の自警団で処理すべきことでは無いだろうか。

 迷い人が出たというのなら、本来ならば自分達で探す。それが普通のことだ。

 或いは村の治安を守るものに頼むのも良いだろう。

 冒険者に頼む理由は一つだ。そしてそれが依頼人を疑ってしまう理由になる。


 まずそもそも、夜な夜な狼が出る様な林に、僕らを行かせようとしていたという事が問題だろう。

 前にギルドで聞いた限りでは、幾ら冒険者といえどもGランクやFランクではレベル10台20台が普通らしい。

 それぐらいの実力で、狼が集団で襲って来れば手に余るかもしれない。

 僕の少々多めの昇格値を抜きにして、その上で自分の経験にてらして考えれば、相性次第ではレベル20代でもてこずる可能性がある。

 この依頼を、今のランクにした冒険者ギルドの審査は適切だ。あのジジイ様も耄碌はしていないらしい。むしろ早く引退して欲しい。

 しかし、依頼人が狼の事をギルドに内緒にしていたことはかなり不誠実だ。この依頼を、それを理由に断ることだって有りうる。

 そんなことは、依頼を出す側だって分かっていることだ。

 では何故そんな事をしたのだろうか。


 依頼人は見た所とても裕福には見えない。依頼料が出し辛かったというのはありそうな話だ。

 出来るだけ依頼料を下げたかった。良くありそうな理由だ。

 だが、この必死さを見れば、お金だけでない理由がありそうな様子も見え隠れしている。

 となると、まだ何か隠されている事があるのか。


 「一つ聞いて良いですか?」

 「はい」

 「この採取依頼を出した理由は何ですか」


 裕福で無い人間が、依頼を断られるかも知れないと分かっていながら、あえて冒険者ギルドに依頼した理由。或いは、どうしても依頼品が欲しい理由。

 それが何かあるはずだ。


 「えっと、そのぅ……」

 「言ってください」


 若干声にきつめの色が出てしまうのはやむを得ない。

 大事なことだ。

 他の皆も異存は無いらしく、四人分の目が依頼人に向けられる。

 その圧力に負けたのだろう。しぶしぶ彼は語りだす。


 「実は妻が病でして、それで……」

 「病と言うと、一角獣症候群ユニコーンシンドロームだな」

 「はい、その通りです」


 スイフの言葉が、依頼人に被さるようにして発せられた。

 聞いたことの無い病気だが、エルフには馴染みのある病気なのだろうか。


 「スイフ、知っているの?」

 「ああ。頭頂部の皮膚が固くなってしまう病気でな。堅くなった皮膚が重なることで小さなコブが粉瘤のように出来る事がある。親指の先ほどの小さなものが多いが、病状が進めば見た目が角のようにも見えることからそう呼ばれている」

 「コブが出来るぐらいなら、たいしたことは無い病気なんじゃない?」

 「いいや、それは違う。堅くなった皮膚が頭の内側を常に圧迫する様になる。頭痛、めまい、肩こりなどが初期症状で、いずれは記憶障害や精神障害を起こし、最後は死に至る難病だ。コブの切除が対処療法だが、またすぐに角のようなコブが出来てしまうし、【ヒール】でもコブが治ってしまう。進行すれば、切除も出来なくなる。厄介な病気だ」


 確かに厄介そうな病気だ。

 依頼人が渋面で悔しそうにしているのも印象的だし、何故か沈痛な面持ちな金髪の美形も、その厄介さを理解した様子だ。


 「その病気の薬って、高かったりする?」

 「そもそもこの病気自体が稀で、薬自体が出回っていないはずだ。大抵、欲しい人間は薬か、薬の原料の採取を冒険者に依頼するな」


 なるほど、その薬がキイロマバラテングダケで出来るという事なのだろう。

 だとするなら、なりふり構わない依頼の仕方も、必死さの表れと考えられる。褒められたことでは無いが、理解は出来る。

 薬がどうしても欲しい。その為には冒険者に依頼しなければならない。しかし依頼の資金が潤沢とは言えない。それがこの依頼の話だろう。

 その上、息子が狼を承知で林に入った事や依頼の仕方を考えれば、もしかしたらかなり奥さんの病状が進んでしまっているのかもしれない。

 焦っていれば、例えまだ十分に資金が集まっていなくても依頼を出すなんていうのは有りそうな話だ。

 そんな考えに耽っていると、やおら鼻息を荒げる奴が居た。


 「なるほど、そうだったのか。分かった。私たちが御子息ともども依頼の品を持ってこようでは無いか。ええい、何をしているハヤテ、アクア、スイフ、私につづけ!!」


 伯爵閣下が、スイフを引っ張って走って行ってしまった。


 「アント、どうしたの?」

 「……アントはお母様を亡くしているから」


 アクアの言葉で得心がいった。それであんなに勢いよく走って行ったのか。

 若干離れた所から、猪武者が叫んでいる。早く来いだの急げだのとわめいているが、こうなっては仕方が無い。

 確かに、病人が居るであろう事情まで聞いてしまっては、見殺しにするのは後味が悪すぎる。


 「ご子息と依頼品のこと、お任せ下さい」

 「お願いします。お願いします。どうか、どうか……」


 地面に崩れ落ちる様にして祈りだした農夫をその場に残し、僕と貴族令嬢とでイケメン二人組を追いかける。

 林に着くまでには追いつけるだろう。


◆◆◆◆◆


 「ぎゃあっ!!」


 咄嗟に出たのは叫び声しかない。

 俺を助けに来てくれたのだと思っていた。

 村の人たちが、探しに来てくれたのだとばかり思っていた。


 「何であんたたちが俺を襲うんだよ!!」


 見知った二軒先のおじさんと離れ家の兄さんの二人組が、俺に向かってくる。

 明らかに俺を殺しに来ている。

 手には短剣が握られているし、それを抜き身で俺に向けてくる。

 二人は何かに怯える様に、やたらめったら短剣を振り回す。鬼気迫る表情は、否応なく恐怖という感情を投げつけてくる。


 既に膝が震えだした足を精一杯動かし、走る。走って逃げる。

 思うように膝が持ちあがらず、ほんの僅かな地面の膨らみで、思わず転んでしまう。つんのめるように体が泳ぐ。

 腕も碌にあがらず、思わず顔から地面に突っこんでしまった。

 口の中に糞不味い味がして、乾いた唇にざらざらとしたものが当たる。最低だ。


 それでも尚這うようにして逃げる。

 服が土や葉で汚れるが、それを気にする暇もない。ただただ焦る。必死で逃げる。


 兄さんの短剣が、俺の髪を切る。いや、切ったらしい。

 軽い風切音と共に、耳の横から剃刀で髭をそった時のような音がした。はらりと落ちた自分の毛をみて、俺は血の気が引くのを感じた。

 殺される。本当に殺されてしまう。

 少し切れた頬の傷から、生ぬるいものが流れる。その後に切られた痛みが追いかけてくる。もう嫌だ。


 後ろを見る余裕も無く、半立ちのまま転がるようにして逃げる。ただ逃げる。

 時折背中や顔、腕や足に傷が出来る。抉るように痛みが走ることもあれば、擦る様に細かい傷が出来る事もある。土の匂いとも、血の匂いとも取れる嫌な臭いが鼻をつく。

 嫌だ、死にたくない。


 突然、身体が何かとてつもなく強い力に引っ張られる。

 強引に身体丸ごと吸い寄せるような強力な何か。


 背中を、がりがりという音と共に酷く熱い痛みが襲う。煮えたぎった熱湯を、背中に浴びせられたような痛み。

 それが無くなると同時に、横倒しになっていた脇腹と、尻の辺りに殴られたような鈍痛を覚えた。

 星が瞬くようなチラつきが見える。恐る恐る辺りを見渡せば、自分がかなり高い所から落ちたのだと気付く。


 さっきの熱さは背中を擦りむいたかららしく、ずきずきと痛む。痛みと言うより、熱さに近い。その痛みを我慢しながら見上げれば、自分の背丈以上の崖。どうやらここから落ちてしまったらしい。

 助かったのか。

 そう思い安堵した。心の底から生きていることに安堵感を覚えた。


 ほぅっと息を吐き出せば、それは僅かに震えていた。

 体の古着は既にぼろきれが纏わりつく程度に成り下がり、身体のあちこちが赤黒くなっている。打ち身に、擦りむいた傷、或いは打ち付けた青あざ。酷い有様だ。

 傷の無い場所を探す方が難しいかもしれない。

 自分の身体とは思えないほどに薄汚れて、ぼろぼろになってしまった。


 「何で俺がこんな目に遭うんだよ」


 村の人間に恨まれるようなことをした覚えは無い。

 そりゃあガキの時分は多少の悪さもしたが、それだって親父に拳骨を喰らっておしまいになったはずだ。


 そこでふと気付く。

 自分が今、どういう状況にあるのかと。

 周りを見れば、異形の姿。


 俺の命は、どうやらここまでらしい。


◆◆◆◆◆


 林の入口で、無駄に男前なアントとスイフの二人と合流した。


 「なんだか、妙な雰囲気がするね」

 「ああ」

 「確かに」


 僕の言葉に、全員が神妙に頷く。

 何がどうかと明確に分かるわけではない。だが、肌に感じるものがどこか違う。

 林にありがちな湿っぽい空気は勿論分かる。その中に、微かだが違和感を覚えるのだ。

 長い間休んでいた学校に、久方ぶりに登校した時のような、しっくりこない感覚。


 ここは慎重に進まねばならない。

 アントを先頭に、アクア、僕、スイフの順で一列縦隊になる。僕らのパーティーでは、入り組んだ場所では自然とそうなる。

 誰が決めたわけでもないが、知らずに自分たちの得意な立ち位置でそうなってくる。


 林に入った所で、変わったところは見当たらない。

 まだ林の入り口付近だからだろう。

 手入れもそれなりに行き届いているらしく、人の踏み入っている形跡がそこかしこにある。

 雑草が全て小さいのもその一つだろう。踏み均される為に、大きな草が育ちづらくなる。

 それだけに、林の奥というのが分かりやすい。

 草の生い茂る、歩きづらい方に歩けばよいのだ。きっとそちらの方に迷子が居るはずだ。


 途中、同じように捜索していた村人に出会った。

 奥の方には危険なために入っていないが、円周部を探した限りは居なかったらしい。

 ますますもって林の奥が怪しい。


 林の奥へは、進めば進むほど鬱陶しい草や木で邪魔されることになる。

 人の背丈以上に伸びた草なんて、珍しくも無くなる。


 慎重に歩いていると、がさりと音がした。

 咄嗟に全員が身構える。

 僕も真新しい剣に手をかけ、音のした方に意識を向ける。

 高まる緊張感。そこに飛び出してきたのは、愛らしい小動物。


 「……ねずみ?」


 素早い動きで駆けていったのは、かなり小さな動物だった。


 「ただのねずみだったらしいな」

 「なんだ」

 「全く人騒がせな」


 そっと肩の力を抜く。


 「ハヤテ、あの手のねずみは、魚釣りでも餌に出来るぞ?」

 「アント、一体どんなデカイ魚を釣る気だよ。普通、魚釣りの餌って言えば虫でしょう」

 「まあそう言わず、あそこを良くみて見ろ。良い餌になりそうなネズミだろ?」


 どうでもいい話だ。

 今は魚釣りの話は無関係。


 ふと、服の裾を引っ張られる感じがした。

 これはまたアクアが引っ張っているのだろう。

 そう思って視線を引っ張られた方に向けた途端。


 「うわっ!!」

 「っぷぷ、引っかかったな。流石はアクアだな」

 「……別に引っかけた訳じゃ無い」


 目の前には不細工な人の顔のような落書き。

 振り向いた途端、どアップで見せつけられれば、驚きもする。

 アクアとアントがぐるになっていたのか。

 さっきのネズミはまさに餌。僕の気を引くための囮だったのか。してやられた。

 いや、相棒達の様子を見れば、アクアが僕にこの不細工を見せようとしていたのに気付いたアントが、彼女とは無関係に気を逸らせて驚かそうとしたらしい。

 この野郎。この仕事が終わったらアリシーさんに言いつけてやる。


 「ハヤテ、これ」

 「何これ?」

 「そっちの方に転がっていた」


 そっちの方に転がっていたというので見てみれば、案山子(かかし)の残骸らしきものが転がっていた。

 一瞬人の死骸かとも思ったが、どう見ても木の手足だ。


 「案山子だな」


 見れば分かる。

 こんな所に寝床を作る人間も居ない。

 木で出来た細い腕に、一本だけ伸びた足となれば案山子以外の何物でもない。


 珍妙なオブジェを軽くどけつつ、改めて林の中の探索を再開したが、さっきに比べると若干空気が緩んだようだ。アクアのお茶目のおかげだろうか。本人にその気は無かったようだが。

 空気が弛緩してしまったこと。それが良い事だとは思えないが、悪いことでもない気もする。判断が難しい状況だ。

 緊張が解れたのだとポジティブに考えることにした方が良い。


 そう考えた矢先のことだ。


 「今の聞こえたか?」

 「ああ。悲鳴だ」

 「あっちだ。急げ」


 微かにだが、確かに声が聞こえた。

 聞こえた方角に、全員で急ぐ。奥の方だ。

 邪魔な草木は薙ぎ払いつつ、出来る限りの速度で移動する。既に全員に【敏捷増強】をかけて臨戦態勢。そのまま茂みを掻き分けていく。


◆◆◆◆◆


 「ぎゃああ!!」


 俺はここで死ぬ。

 神様のクソッタレやろう。死んだら絶対に一発殴ってやる。


 俺は恐ろしい獅子とワイバーンから逃げる。

 何でこんな辺鄙な村に、亜龍のワイバーンが居るんだ。こんな話聞いたことも無い。

 見るからに恐ろしげな顔をしていて、凶悪な魔獣と野獣が襲ってくる。


 獅子が、軽く遊ぶように前足を動かした。

 それに触れた俺は、自分でも驚くほど簡単に転がされた。

 右肩の傷が、そいつの爪で抉られ、中の肉が見える。耐え難い激痛に、奥歯を噛む。

 あいつらからすれば、餌で遊んでいる心境なのだろう。

 それが終われば俺は死ぬ。あっけないほどに簡単に殺されて、喰われてしまうだろう。


 倒れ込んだところに、石があった。

 それをせめてもの抵抗と、傷ついた右腕で投げる。

 それすらワイバーンには何の痛痒も与えていないらしい。平気な顔で近づいてきた。


 ワイバーンが俺のすぐ傍で口を開く。そしてそのまま俺の顔を覆っていく。

 その生臭い匂いが俺に絶望を見せ、いよいよ死を覚悟した瞬間。


 ワイバーンと獅子が弾き飛ばされた。

 人間業とは思えない、目にもとまらぬ速さで魔獣を屠る男が居た。神にも思える、まばゆいばかりの神々しさ。

 黒い髪のそのお方は、ぽかんとしてしまった俺に向かって言う。


――大丈夫か?


 親父の言葉と同じだった。


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