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水の理  作者: 古流 望
4章 最強のパーティー
59/79

059話 明鏡止水

 朝方から厚い雲に覆われていた天気は、夜になっていよいよ崩れだした。

 一応焚き火のあたりも、簡易の雨よけを立てられるようにはしてあったので、それ自体には大きな問題は無いはずなのだが、万全とは言いがたい。

 まどろみの中で感じる雨音は、穏やかな子守唄のようにも思える。どこか悲しげな子守唄。

 パラリ、パラリと大きく間を開け、グラーヴェの如く鳴っていた空からの音符は、まるでストリンジェンドと指示されたように段々と早くなっていく。子どもをあやすように背を叩いて母の手が、いつの間にか激しく泣き止む赤子の鳴き声に戸惑うようになる。

 気が付けば間断なく叩く雨は、かなりの土砂降りとなっていた。相当の雨が降っているらしい。

 ここに至っては、流石に外で見張りをし続けるわけにはいかないだろう。ゆっくりと微睡を追いやって、目を覚ます。


 「アント、起きろって」

 「むにゃ……アリシー……」


 体を揺するぐらいでは、こいつは起きそうに無い。

 口元からにやけた声を出し、緊張感の欠片も見せず熟睡している。この世界で最もおめでたい人間のコンテストをするなら、今のこいつは真っ先に候補に挙がる。

 仕方が無いので、頭を思いっきり叩いて起こしてあげた。

 男同士の友情を込めた、心からの思いやりだ。我ながら実に優しい心遣いだと思う。ああ僕は何て優しい男なのだろうか。


 「っ~、何をするのだ。折角いい夢を見ていたのに、お前のせいで台無しではないか」

 「起こしても起きないからだよ。外の音が聞こえないか?」

 「音? 雨か!」


 流石にそれに気づいた所で、伯爵も事の次第を理解したらしい。毛布を蹴り飛ばすような勢いで跳ね起きた。

 普通なら、そのまま眠りこけていても問題は無いのが雨だろう。農家にとっては恵みとも言えるだろうし、命を育む糧ともなるものだ。

 だが、今回に限っては意味が違ってくる。

 アクアが髪を濡らしつつ、深刻な顔をしてテントに入ってきたのが、状況の悪化を如実に表しているといえた。

 ポタリポタリと、雫がテントの中に落ちる。


 「どうしたの?」

 「周りが水浸しになってきてる」


 状況を知るには、その一言で十分だった。

 このテントは、一応見晴らしもよい場所を選んでいるため、若干周囲よりも盛り上がった場所になっている。こんもりとした丘のような場所をあえて探した上で建てている。

 その場所がこの大雨でどうなるかと考えれば、外を見るまでも無く想像できる。

 ただでさえ沼地の近くの平原で水はけも悪い。そこに大量の雨ともなれば、あっという間に水に囲まれて孤立してしまうのではないだろうか。

 ここまではまだ水が上がって来ていないが、相当な量の雨が周りに溜まっていることだろう。


 一応自分の目でも外の様子を見てみた。

 ちょっと顔を出すだけで、髪の毛がびっしょり濡れて重たくなるほどの雨。まさに豪雨と言うにふさわしい雨だ。バケツをひっくり返したような雨とはこのことでは無いだろうか。

 周りを確認すれば、既にあちこちに水溜りが出来てきている。

 このままなら、周り全部が水溜りになるのも時間の問題だ。

 いずれは池に浮かんだ島のように、囲まれてしまうのは間違いないと確信する。

 ここまでくれば地面は全てぬかるみ、沼地と大して変わらなくなっているだろう。


 「ハヤテ、外はどんな具合だ?」

 「あちこちに水溜りが出来てきている。アクアが心配する通り、この周りが水浸しになるのも時間の問題だと思う」


 アントが、自分も隙間から外を伺いつつも尋ねてきた。

 こいつが不味いなとつぶやいたのは聞こえたが、言われるまでも無く危険な状況だ。誰だって分かる


 ここにテントを張ったのは、丘だったからだけでは無く、水辺から多少は離れていたからでもある。

 ウォーター・リーパーはここまでは来ないという意味で選んでいた。

 だが、今は違う。

 この平原に水溜りが出来ているということは、沼地や池は既に水が溢れるほど溜まっているはずということだ。

 平原から沼地までは地続き。活動範囲を広げた件の魔獣が、この辺りまで雨に誘われてやってくる可能性は十分に考えられる。水辺の傍にしか居ないという前提が、既に崩れたという事。

 もちろんその意見は、言うまでも無く全員の共通認識だ。既に起きて様子を伺っている老婆も含めての認識。楽観や希望的観測を捨て、あえて厳しく考えるとするならば、危険な敵がすぐ傍に来ている可能性を考慮するべき時だ。


 「みんな、これからどうする?」

 「逃げるか?」 


 アントらしからぬ意見ではあるが、散々色んな人から言われていれば、真っ先に思いつく選択肢ではある。

 最も妥当に思える選択肢だ。数ある選択肢の中でも、この現状取りうることの出来る最良の選択。

 ウォーター・リーパーが危険極まりない相手である以上、この雨のように不測の事態が起きたのなら、一旦退くのは正解だろう。普通の冒険者なら、当然選ぶべき道。

 特に、最も妥当なのは、安全な道を通っての転進だ。


 「……逃げ道無い」


 アクアが呟いたのは、その妥当な選択肢を捨てざるをえない意見だ。


 既に周りのあちこちで水溜りが出来ているのは確認した。

 これは沼地方面だけではなく、今まで歩いてきた町の方向も水浸しになっていることを示している。今の僕らは、そうと望まずも危険のただなかに居る。

 だとするなら、仮に町の方向へ退くにしても、それは前に進むのと変わらない危険性が含まれていることに他ならない。

 進むも危険、退くも危険。おまけにこのままじっとしていても危険となれば、既に魔物に囲まれていると思って行動するのが正しい判断なのだろうか。いや、まだ雨が降り出して間もない。危険は変わりないが囲まれている確率は少ない。希望的観測では無く、敵としても一直線に脇目も振らず僕らに向かうことはしないはずなのだから。


 冷静に考えてみる。

 あえて安全な場所を挙げるとするなら、今はテントの中ぐらいではないか。

 この中は、雨に濡れて体力を奪われることが無い。それに、ウォーター・リーパーには気休めでしかないとはいえ、弱い獣避けもされている。

 丈夫な布地である以上、裸でいるよりはマシな程度の防護もある。


 だがそのどれもが、ほんの僅かに、外にいるよりマシだという程度でしかない。

 そして何より、大きな問題がある。


 「じっとしているわけにもいかないよね」

 「ああ、囲まれてしまうのを待つ形になるだろうからな」


 アントの言う通りだ。

 ここが今、多少安全だからとじっとしていれば、いずれ見えない敵に囲まれることになるだろう。そうなってしまえば、僕らは揃って魔獣の餌に成り下がる。

 敵に囲まれる前に、動かなくてはならない。


 一旦退こうと言った僕の意見に、皆が頷いた。

 雨という不測の事態。その判断は、リーダーとしても当然の判断だった。

 町まで戻れば、増援だって期待できるし、頼もしき騎士団の屈強な野郎共が居る。普段は腹黒い団長も、この時ばかりは頼りがいのある人間に思える。


 テントを大急ぎで片づけ、匂いの出る燃え残りの薪は雨で濡れている土をかぶせる。そして、急ぎで町の方に向けて歩き出す。

 だが、その歩みは想像以上に鈍い。来た時の比では無いほどに集中力が要るからだ。皆が押し黙るほどに、辛い道のり。


 雨は音を消す。足跡を消す。姿かたちを消す。臭いを消す。空気の揺らぎを消す。

 ありとあらゆる痕跡が、雨というたった1つの要素で消え去ってしまう。あっけないほどに。

 近づく獣には、どれだけ注意を向けていても向けすぎという事にはならない。


 「避けな!」


 そのしゃがれた、怒鳴る様な一言に、咄嗟に体が動いた。反射と言えたかもしれない。

 何かが脇を通り抜けた気がして、その先に魔法を念じる。

 【看破(ディティクション)】の魔法は、敵の【不可視】を無効化させる。

 まるで下から積み上げられていくテトリスブロックのように、姿を見せてくる敵。

 現れたその様は、醜悪そのものだった。


 頭はカエルそっくりな癖に、尾びれのような尻尾がある。

 体は赤や黄色の原色が混じった緑色。実に毒々しい色使いをしている。

 手足はカエルというより、イモリに近い。割れた指の間に、水かきらしき膜が張ってある。後ろ脚だけが太いのは、顔と同じでカエルに良く似ていた。

 おまけに目つきがギョロリとしていて、忙しなく目を動かしながらこちらを見てくる。その目の動きも気味が悪く、カメレオンのように左右の動きがバラバラになっている。捕食者独特の、獲物を狙うような際どい目つきだ。【鑑定】を使ったのは、その気持ち悪さが最上級の警戒心を奮い立てたからだ。


【ウォーター・リーパー(The Llamhigyn Y Dwr)】

 分類:魔物類

 レベル:48

 特性:襲人性、肉食性、集団行動型、土属性魔法、火属性抵抗強化、木属性抵抗弱化

 行動:水辺に住み、近づく動物を襲って食べる魔獣。生き肉を好み、襲われた生き物は生きたまま無残に食い荒らされる。身体に水分を多く含むために、水から離れて過ごすことは出来ない。水気を含む体表は火魔法や乾燥にめっぽう強く、生半可な攻撃火力では意味を持たない。動きは機敏であり、俊敏さに秀でる。跳躍力は極めて優れていて、人の背丈を越える事は常である。土属性魔法のうち【不可視】の魔法を使い、姿を隠して獲物に襲い掛かる。兵士喰いの異名を持つ。


 やはりウォーター・リーパーだった。

 ここは婆さんに感謝するしかない。

 どうやって気づいたのかは知らないが、教えて貰わなければ食いつかれていた。


 「アント、アクア!」

 「任せろ!」


 姿を見せているうちが勝負。

 僕は2人と自分に【敏捷向上】と【腕力向上】の魔法を念じ、それを受けた幼馴染のペアが勢いよく吶喊する。僕は魔法で敵を仕留める機会を狙う。

 アクアの高速の剣に、アントの力強い剣が合わさり、敵を切り付けるかと思われた時。

 敵は大きく後ろに飛び退いた。


 ピョンピョンと、3度ほど後ろ向きに跳ねたかと思うと、それがまるで幻であったかのように消えていった。

 音も無く、瞬きをする間ほどの僅かな間に、気が付けば姿が見えなくなっていた。

 残ったのは、降りしきる雨のみだった。

 2度ほど闇雲に【看破】を使ってみたが、やはり対象が何処にいるか分からなければ使えないようだ。適当にかけても使えるほど便利な魔法では無いらしい。


 「消えたな」


 アントが呟く。

 言われるまでも無い。姿が見えなくなったことで、倒せたと思う人間はここには居ない。

 十中八九、この周りで様子を伺っている。姿を隠したのは、逃げる為では無く、襲い掛かるためだ。


 これは不味い。

 さっき得た情報を信じるのならば、集団行動を行う魔獣。

 蜂や蟻の時と同じで、1匹見たら他にも居ると思った方が良い。

 しかし、何匹居るのか。いや、それどころか本当に周りに居るのかすら分からない。

 どうすれば良いのか。

 このままでは、殺された数十人の兵士と同じ目に遭う。

 そうなる前に、何とかしなければ。

 気ばかり焦り、逸り、有効な手立てを思いつかないままの幾ばくかの時間。

 冷や汗とも脂汗とも取れる不快な汗が、頬を伝っていく。雨とはまた違ったぬるい感触。


 本来なら、もっと魔獣の動きが察しやすい場所で戦う筈だった。見えないといっても、雨さえなければ打てる手もあったし、魔法も使えた。火で下草でも木でも燃やして煙を出せば、その中で動く空気の動きははっきりと見えていただろう。だが、この天気ではそんな手も使えない。

 用意していた魔法が使えない以上、打つ手は無くなったのだろうか。


 いや、まだ打てる手があった。

 ここで考えられる、僅かな希望。


 「エッダさん。さっき、ウォーター・リーパーが来ることが何故わかったんですか?」


 そう、このお婆さんに教えを乞う事。

 この場で唯一、ウォーター・リーパーの襲撃に気付けた人。

 その方法は、今考えられる中でも唯一と言って良い雲海の光芒。


 僕がこの依頼を受けたのも、この人が自信を持っていたからだ。

 自分の依頼に、僕たちを同伴させるような雰囲気だったし、そんな依頼の仕方だった。

 だとすれば、この人は、今の危機的状況を打破できる術を持っているのではないかと考えたのだ。


 「単に【看破】を使っただけさ。あんたも使えるようだけどね」

 「え? でも姿を見破るのがこの魔法の効果ですよね」

 「そうじゃない。魔法ってのはあくまで魔力の流れに名前を付けたに過ぎない。同じ魔法でも色んな使い方があるものさ。この魔法は“隠れている物や隠したいことを見極めることが出来るようになる”んだよ。あたしは、隠したい“敵意”を見破っただけさね」


 なるほど。

 言われてみると、1つの魔法でも効果を変えられるのは僕も試したことだ。

 【ファイア】や【凍結】も、威力を変えられることは確認済みだし、実体験をしている。【看破】の魔法が、それと同じように使えたとしても、何の不思議も無い。

 お婆さんの言うとおりだ。


 「ぐっ!」


 そんな瞬間だった。

 アントのふくらはぎが抉られる。

 辺りに鮮血が飛び、ズボンの裾に血が凄い勢いで染みを広げるのが見える。

 やられた。

 警戒していた筈なのに、全く気付けなかった。これが、ウォーター・リーパーが兵士喰いと恐れられる理由だと実感した。

 思わず悔しさから歯噛みしてしまう。何で気づけなかったんだ。

 アントの傷を癒しながらも、前にもまして周りを警戒する。何処だ、何処にいる。


 「きゃっ!」


 今度はアクアが膝をついた。

 アントと同じようにふくらはぎを深々と食いちぎられ、足元の地面に雨とは違った色の水溜りが産まれている。闇夜に黒く広がるそれは、血だまりだとしか思えなかった。

 目の前がふら付く様な思いを覚えながらも、アクアを回復させる。

 だが、このままではじり貧だ。

 何とかしないと。


 「エッダさん、教えてください。どうすれば【看破】で敵が来ることを見破れるんですか」

 「あたしに教えを受けるか。……いいだろう。まずは落ち着くんだ。いいかい、何があっても取り乱しちゃいけない。例え仲間や自分が襲われても心を平静に保ちな。目を瞑っても良い。とにかく心を静かにさせるんだ。そうすれば自ずと見えてくる」


 こんな時に何を言っているのかと憤りを覚える。

 そんな煩わしいことを僕にさせずとも、今、この婆さんが役割を果たせば、良いのではないか。そんな思い。何で婆さんが【看破】を使わないんだという思い。

 そんな僕の考えを見透かしたように、彼女は言った。あんたがやるしかないんだよ……と。

 その声は、何処か悲しげに聞こえた。したくても出来ないのだと、言わんばかりに。悲しげな眼をしていた。


 何を言っても始まらないし、確かにパーティーでも無い人間に、役割を強要することも出来ない。したいのは山々だが出来ない。

 それでも、この場はこの婆さんを信じるしかない。

 食われた腹の中で仲間と再会するなんてのは嫌だ。


 「やってみます」


 僕は一言呟き、目を瞑る。

 意識を、自分の内側に集中させる。

 いや、させようとしてみた。


 「ぐぁっ!」


 しかし直ぐに心は千々に乱れる。

 またもアントが食いつかれた。

 見るも痛々しい傷跡が、今度は太もものあたりに出来ている。

 皮を破り、中の肉が蠢く様まではっきりと見えた。抉れた太ももでは体を支えきれずに、片手を地面について崩れ落ちるアント。

 こんな状況で、平静を保てるわけが無いじゃないか。

 何も出来ない悔しさ。何も良い手が思い浮かばないふがいなさ。それらが泥だらけの様子で頭に浮かぶ。


 「ハ、ハヤテ。私たちの事は気にするな。お前ならこの場をなんとか出来るはずだ」

 「敵のこと、任せて。ハヤテはボクが守る」


 傷を治したアントが、僕に言う。

 そしてアクアが僕に背中越しで話しかける。


 僕は馬鹿だ。

 こんなにも頼れる相棒達を、今信じなくていつ信じるのか。

 そんな天啓にも似た一筋の灯り。


 目を瞑り、深呼吸をする。

 ゆっくりと息を吸い、そして吐き出す。


 じっくりと心を落ち着かせる。

 激しく波打つような気持ちを、そっと落ち着かせていく。そっと、そっと。


 周りから匂いが消え、音が消え、自分の中に入っていく感じ。

 そこにあるのは、自分、仲間への信頼、敵への恐怖、そして……


 ――見えた


 肌に触れる空気とは違う何かの揺らぎ。恐らく魔力の揺らぎだろう。

 それを正に肌で感じて看破する。

 感じた幾つもの場所へ、僕は一斉に念じた。精一杯の気持ちを奮い立たせて。


 その効果は誰の目にも明らかだった。【凍結】の魔法が幾つもの氷塊を次々に作っていく。

 甲高い音と共に、林立する氷柱の群れ。


 僕が目をあけた時には、相棒たちはかなり酷い怪我ではあった。だが何とか回復は間に合った。本当に良かった。涙が出てきそうだ。

 勿論、魔法だけでなく魔法薬もありったけ使う。ここで出し惜しみなんてするはずも無い。


 数にして数十はある氷塊の全てが、まるでそこに何かが居るとアピールするかの様に、何度となく、また上下左右、縦横無尽に飛び交う。

 僕らの周りを包囲する形で出来た氷のストーンサークルは、今まで見えないことにあった恐怖を完全に拭い去る。


 怪我が治ったところで、2人は動いた。

 僕が作った氷塊を目印に、剣を振るって飛び込んだ。


 「ハヤテ良くやった。後は私に任せろ!」


 大声で叫びながら、氷のすぐ脇の、見えない中空へ剣を突きだしたアント。

 そこで初めて、大きな断末魔が鳴り響いた。

 恐怖に打ち勝った、確かな戦果の証が現れる。1匹の【不可視】の魔法が解け、現れた時にはアントの剣が深々と刺さって息絶えていた。


 僕の魔法で敏捷の向上したアクアも、その動きは素早かった。

 5つばかりの氷塊を目印に、淀みが欠片も見えない動きで瞬く間に切り付けた。

 走る光筋に、応えたのはウォーター・リーパーの断末魔と死体だった。

 飛び上がっていた氷塊ごと地面に落ち、氷が割れる。

 よく見れば、片足だけ凍ったものもあれば、腰回りが凍ったものもある。斬られて初めて、その様を無様に晒す。

 不可視といえども、実体は魔獣。凍らせてしまえば、その部分だけは目に見える。


 僕も相棒たちに負けまいと、未だに跳ねているブロックに向けて剣を振るう。

 腹立たしくもかなりのスピードで向かってくる水の固形物に向かって、横薙ぎに切り払う。

 耳障りな悲鳴も大きく、顔を歪めたカエルもどきの死体が落ちる。

 それを足で踏みつけつつも飛び上がり、落ちる勢いそのままにまた1つの動く塊に剣を叩き付ける。

 抉れた地面と共に現れる潰れたウォーター・リーパー。そして目につく見えない敵。


 何度か噛みつかれて肉を食いちぎられながらも、ようやく全ての敵を倒し終えたと思った時。

 周りには、皆で倒した強敵の死骸が30は転がっていた。

 本当に危なかった。ちょっと間違っていれば、全滅するところだった。


 一応、全部の敵は倒したとは思うが、まだ油断の出来る状況では無い。

 僕はそのまま警戒に当たり、アントとアクアが転がった躯の尾びれを集める。討伐の証拠部位であり、命を張った証拠品。それを持ち帰るのもまた、冒険者としては当然のことだと言う話だ。

 町へ戻ろうと改めて足を進めた時には、まだ緊張感と警戒感が残っているように思えた。


 雨も小降りになり始め、空が白んできた頃。ようやく門と壁が見えてきた。町へ無事に戻ってこられた。

 アクアやアントと、打ち合わせたわけでもないのに顔を見合わせ、お互いに安堵の気持ちを確認し合う。


 町に戻った僕たちは、これ以上ないほど疲れていた。

 何よりも精神的疲労が大きい。

 自分の足を、生きながらに何度か食いちぎられたアントとアクア。僕だって食いちぎられた時には意識が飛びそうになるほど痛かった。傷は癒えたとはいえ、その心労はかなりのものだろう。

 それでなくとも、極度の集中は神経をすり減らしていたのだ。気を張り詰めていた道中だっただけに、門でエイザックの陽気な顔を見たときの安堵感は空恐ろしいほどだった。

 町に入った瞬間に、抑えていたものが一気に圧し掛かった。

 本当に疲れた。心の底から割に合わない仕事だったと思う。2度とごめんだ。


 「なんか、皆お疲れだね。やっぱり大変だったの?」

 「そりゃあもう。雨は降ってくるわ、ウォーター・リーパーに囲まれるわ、そのまま戦いで肉を食いちぎられるわ。散々でした」

 「うわぁ、そりゃ大変だったね。良く生きて帰って来られたよ。それだけでも凄いよ。俺、尊敬しちゃうね。それで、逃げてきたのはどこら辺から? さっそく討伐隊の手配をしなくちゃ」

 「いや、囲まれたので倒してきました。これ、証拠部位」

 「え?本当? ……げ、ホントだ。すげぇ。俺、絶対無理だと思ってた。だってウォーター・リーパーだよ? 普通4人で討伐に行くなんて自殺行為だって。昨日、供える花を買いに行こうかと思ったぐらいだ。残された女の子達は俺に任せて、心置きなく旅立ってくれと願ってさ」

 「その花は、将来の花嫁さんにあげてください。それじゃあこれで。ギルドに行かないといけないので」


 酷い言われようだ。

 まあ、エイザックの軽口も無事に帰って来られたからこそ聞けたと思えば、有難くも思える。


 大通りは、雨のせいでぬかるんでいたが、賑やかな様は変わらない。むしろ皆が雨具を被っている為に、いつも以上にカラフルだ。

 そんな100色鉛筆の中を掻い潜り、ギルドに到着する。


 ギルドに戻ってきたが、まずはいつものお姉さんの所に行く。

 疲れた体を引きずるように動かし、受付の窓口に立てば、心配そうに声を掛けられる。


 「お帰りなさい。雨も降ってきていたから心配していたのよ」

 「ただいま帰りました」

 「疲れた様子ね。その分だと、一度引き上げてきたのね。賢明な判断だと思うわ」


 お姉さんは、僕らの疲れきった様子からウォーター・リーパーの駆除はとりあえず止めて引き上げてきたと思ったらしい。時間からもそう判断したのだろう。

 だが、それは半分当たりで、半分外れだ。


 引き上げてきたのは確かだし、予定の沼地には行っていない。その点はお姉さんの観察は当たっている。

 外れているのは、駆除をしてこなかったと思っていることだ。

 そのことを、お姉さんに伝えたのは僕ではなかった。


 「アドリエンヌや。この子たちは大したものだよ。ウォーター・リーパーを駆除してきたよ」

 「エッダさん。本当ですか?」

 「あたしは嘘は嫌いだよ」


 そう、今回の仕事で最も重要でありながらも何故か手伝わなかったお婆さんだ。

 この婆様の言葉に、受付窓口の美人たちが一瞬騒然となる。


 「じゃあ、今回の依頼、彼は合格ですか?」

 「ああ、そうだね。孫の婿にするとして、この年でこれなら、まあ合格点をやれるだろう。まだまだ鍛え甲斐のありそうな子だからね。これから様子をみてやらないとね」


 そういえば、今回は僕を試すというのが主目的なのだった。

 すっかり忘れていた。


 しばらくお姉さんと、依頼であった出来事について談笑していた婆さまに、突然声が掛かった。

 いつもギルドで聞く、癒し系の声だ。


 「お婆ちゃん。こんな所でどうしたの?」


 その声を辿ってみると、栗毛をポニーテールにした美人が居た。受付嬢のオードリーだ。

 くりっとした瞳が、驚きを如実に表している。

 その様は、突然の物音に驚いたリスかハムスターのような愛らしさがある。

 手に書類の束を抱えているところを見ると、仕事中なのだろう。受付以外の仕事をするようになったというのは、きっと彼女も成長しているのに違いない。徐々に大事な仕事を任されていくのなら、それは喜ばしいことだ。

 などと、彼女が書類を抱え込んでいる辺りに目を向けつつ思う。

 書類を抱え込む手はへそよりも上、首よりも下の位置にある。丁度目の保養になりそうな位置だ。うん、間違いなく成長している。目指せDランク。いや、今から目指すならまずCか。


 そこでふと思う。

 今何か気になることを言わなかっただろうか。

 とても聞き逃すと不味そうなことを言ったような気がする。

 どこが気になったんだっけ?


 「オードリーや。ここに居るのはアドリエンヌに頼まれたからさ。お前の婚約者候補が婚約を認めて欲しがっているから試してやってくれといわれてね」

 「だから、そんなんじゃないって前にも言ったじゃない」


 しれっとした御婆さんに、顔を真っ赤にして詰め寄るドリー。

 そのまま、2人で奥の部屋に行ってしまった。


 「一体何だったんですか?」


 わけが分からず、受付嬢のお姉さんに聞いてみた。

 それを後悔したのは、その直ぐ後だった。


 「ほら、君が婚約者として試してもらうのに、相応しい人を探しているって話だったでしょ。だからドリーちゃんの身内であれば、お婆ちゃんなら間違いないって思って気を利かせたのよ。ドリーちゃんには内緒だったから、悪いことしたわね」

 「いや、そうじゃなくて……じゃあ、あのお婆さんは何です?」

 「魔術師団の先代総長よ。ドリーちゃんの父方の御婆様で、ドリーちゃんを小さい時から可愛がってきたんだって。孫にだけは甘いけど、結構厳しい人らしいわよ。良かったわね、認められて。これでご家族公認じゃない」


 とても良い笑顔を向けられて、僕は言葉を失った。

 てっきり王女の話かと思っていたら、とてつもない誤解をしていた。

 なら、本当の王女の依頼者はどうなったのか。

 それ以前に、婚約者に合格? 勘違い?

 働き損だったとでもいうのだろうか。


 ああ、何という事だ。


 水泡に帰するという言葉がある。

 この言葉は、積み上げてきた努力や成果が無駄になることに使われる言葉だ。


 厄介ごとを片付けたと思ったささやかな幸せが、泡と消える。

 僕は、ただただ世の不条理を嘆くのだった。

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