058話 水泡の予兆
水泡に帰するという言葉がある。
この言葉は、積み上げてきた努力や成果が無駄になることに使われる言葉だ。
ところが、ある南の国ではこの水泡の意味を違った形で使うこともある。
突然沸いたような幸運が、儚く消えてしまう様を水泡に例えるのだ。
人生とは、泡沫のようなものだといった人もいる。
幸運も、不運も、所詮は一瞬のことであるということなのかもしれない。
或いは、幸せだと思うことも、不幸だと嘆くことも、違いは心の持ち様だけなのかもしれない。
ではその微かな幸せが、あっという間に消えてしまった時、人はどういう行動をするのだろうか。
驚くのだろうか。それとも怒るのだろうか。悲しむのだろうか。或いは言葉を失うのだろうか。
その答えを出してくれたのは、愛すべき騎士のエイザックだった。
「そんな~俺にも遂に恋人が出来るかと思ったのに。いよいよサロンパーティーに腕を組んだ娘と一緒に行けると思ったのに。美味しい手作り料理を食べさせてくれる人が出来ると思ったのに~。こんなのあんまりだよ~。酷い、酷すぎる。何て不条理なんだ。ああ、神は死んだ。きっと黒い悪魔が殺したんだ。やっぱり男も顔なのか~。格好良ければより取り見取りかこん畜生~」
嘆くのだ。
がっくりと項垂れ、騎士の威厳も何もあったものではない。人生の墓場と葬式と弔電が一度にまとめて来たような嘆きぶり。ここまで落ち込むとは、一体どれほど女性に飢えていたのか。
というより、喫茶店の娘にフラれたのからは立ち直ったのか。
事情を見ていたアントや、普段から無口なアクアは何も言わない。むしろ憐れみとも好奇心とも取れる眼をして、落ち込む1人の男を見つめていた。何か言ってやればいいのに。
そんな状況だからだろうか、怪訝な表情を見せた老婆が、何があったのかを尋ねてきた。
「一体なんじゃ?」
「いや、ちょっとした誤解がありまして」
年上の女性と聞いて、直ぐに紹介して欲しいと言ったのは目の前の騎士であるものの、認識の齟齬は拭い難く存在したようだ。
流石に気の毒になってきた。やはり本気で誰か紹介することを考えたほうがいいのだろう。
この仕事が終わったら、冒険者ギルドの受付嬢に、独身で騎士に興味のある娘を紹介してもらうのが良いだろう。何人か居る事だろうから、人数を集めてコンパをやれば良い。きっと良い女性が見つかるに違いない。
彼は僕らが門を出る時、落ち込みながら見送ってくれたが、ここでもやはり気をつけるように言われてしまった。仕事をきちんとこなすあたりは、流石に騎士と思わせる。その調子なら、これからのコンパでもきっと良い人が見つかるさ。
ウォーター・リーパーについても色々と教えてくれた。その最後に声を掛けられたのだけれど、最低でも逃げることは考えておくように言われた。
エイザックには僕とアントの騎士団の選考を見られてしまっているため、危なくなったら逃げられる程度は実力を備えているだろうと考えたのかもしれない。言葉のニュアンスからそう受け取れるようなことを言われた。
つまりは、彼の目から見ても、無事に討伐できる見込みが少ないということだ。逃げることも考えておけと言うのは、そういう事だろう。
それも当然といえば当然。僕が調べた限りでも、騎士団員の中でも若手は絶対に近づかない場所らしく、相当な覚悟がいるという話だったのだから。
今日は昼過ぎに出発という事になっているが、これは場所が半日以上掛かる場所にあるからだ。
朝早く出ればその日のうちに到着することも可能と言えば可能である。
だが、それでは不味い事が2つある。これに気付かないようでは、冒険者としては一人前とは言えないだろう。と言うか、僕も失敗をして経験を積んでいるから気づけたわけだが。
1つは、時間の問題だ。
朝早く出て、強行して沼地に行った場合、到着するのは早くても夕方になる。これが恐ろしい。
夕方になってから魔獣と戦うことになれば、長引けば夜になる。人間は夜行性では無いので、夜目は効かないものだ。月や星も無ければ、外灯や電気の無い世界では真っ暗になる。冗談抜きで何も見えない世界になる。そうなってしまえば、魔物に囲まれていたとしても気づけない。夜は魔物の有利な時間帯なのだ。それを避ける判断は、パーティーリーダーとしても、また1人の冒険者としても常識的な判断と言える。
逢魔が時は、この世界では文字通り魔獣や魔物と逢ってしまう時間なのだ。
もう1つは、疲労の問題がある。
強行して行けば確かに早く着く。それは間違いない。だが、人間に共通している事は動けば疲れると言う事だ。
どんなに屈強な人間であっても、長い時間体を動かし続ければ、嫌でも体に疲労が溜まる。疲労は体の動きを阻害し、動作を緩慢にさせる。
例えば腕を上げ下げするだけの簡単で単調な動きであったとしても、それを休みなく続ければ、鍛えている高レベルの冒険者でも疲れる。まして警戒をしつつ気を張りながら、歩き続けては疲労の蓄積は馬鹿に出来ないものになる。
日頃は猿のように素早く動ける人間でも、疲れが溜まればナマケモノのようになるだろう。
だから道中で一晩泊ることになる。野営というやつだ。
ある程度の安全を確保できる場所で一晩休み、疲れを残さないようにして魔獣の討伐に備える。
当然、朝のうちから魔獣の相手をして、明るいうちに終わらせるのが目的でもある。
こんな事が出来るのにも理由がある。
相手をするウォーター・リーパーの特性を予めある程度調べているからだ。親切にも教えてくれたのは、何もエイザックや神父様だけではない。朝ごはんを食べた時、宿屋の大将にも色々言われた。
この魔獣は、水辺の近辺に生息する。そして、水場から離れて行動することは一切ない。故に、水場から多少はなれた位置に居れば、一先ず安心ということになる。逆に言えば、近づけば危険という事だ。情報収集とは、かくも大事な事なのだ。身の安全は、自分で守るのが大事。敵を知り己を知らば百戦危うからずと、昔の偉い人も言っていたらしいが、その通りだ。大事なのは、危険な事を予め知っておくことだ。
危険そのものより、危険と知らないことの方がトラブルになりやすい。当然、道中も気を緩めてはならないだろう。
草を踏み潰しながら歩いていると、やはり疲労も溜まる。空も曇っているせいで、気分も落ち込む。
せめて精神的な疲労だけでも緩和したいと思ったからだが、アントに話しかけてみる。
決して間が持たないと感じたわけでも、じっと監視されていることに居心地の悪さを感じているわけでもない。ましてや、やけに距離感が近くなっているアクアに、要らぬプレッシャーを感じている訳でもない。
ただ、アントが言っていた秘密兵器とやらが気になっただけだ。本当にそれだけ。
「ア、アント。その収納鞄に入っているものって、何?」
「ん? これか。非常食に毛布に薬に野営具に……まあお前の準備と大して変わらんと思うぞ」
「いやほら、秘密兵器とか言っていたじゃない」
「まあな。お前には要らないだろうが、私には奥の手になるものがある。使う事は無いかもしれんが、楽しみにしておけ。はっはっは」
気になる。
アントがこうまで自信を持って用意したものとは何なのだろうか。
「気になるじゃないか。一体何なのさ」
「ふふふ、そこまで言うなら特別に教えてやろう。今回の依頼の相手が他ならぬウォーター・リーパーだからな。伝手を頼って一時的な魔法付与を行える聖水を手に入れたのだ。これを使えば、わずかな間だけだが剣に魔法の力を付与できる。今回は刃先に雷の力が宿る風魔法の聖水を持ってきた」
「なんか凄そうだね」
「うむ、教会が魔法を研究することになったのは、元々魔法が神の与え賜うた力だとされていたからだ。聖水は、魔力の濃い場所に清められた水を安置し、祈ることでその御力を頂戴して出来ると言われていた。その時の名残で、今でも教会には製法が伝えられているらしい。神聖な物なので、相当な寄付や寄進をしないと譲って貰えんのだ」
アントが教会に結構な寄付をしているというのは、そんなものが手に入れられるからだったのか。
てっきり、見習いシスターのアリシーに良い格好をする為の見栄かと思っていた。
この男も、案外そこら辺は実利的に物を考えられるのかもしれない。
いや、それでも結局、主目的があのおっとりとした彼女の為だった線は捨てがたい。こっちの方が、副産物では無かろうか。
「ほう、結構な物を持ってきているじゃないか。いつもそんな物を使って依頼をこなして来たのかい?」
「いえ、僕はそんな物があるなんて初めて知りました。アントが持ってきたのも初めてです」
「当然だ。これは神聖なもので私といえども手に入れるのは困難な代物なのだ。金で買うのなら金貨100枚は積まねばならん。今回は敵が敵だけにこうして持ってきたのだ。だから秘密兵器だと言っただろう」
御婆さんが、探る様な会話をしてきた。こうまで露骨なのは、この人もある程度は察しが付いているからだろう。
お前たちが駆け足で依頼をこなして来られたのは、実力では無く金の力と貴族の権力を使った狡い方法のお蔭では無いのか。
言葉の裏は、さし当たってこんな所だ。明らかな牽制球。
当然明確に否定しておく。
アントにしたって、秘密にしておくつもりだったものである以上、それをあてにして依頼を受けていたわけでは無いだろう。
そもそも、教会がそんな凄い物を作れる技術を持っているなんて、今初めて知った。
この世界で、何故科学技術の発展が中世チックなままであるのかの理解の一端が垣間見えた気がした。
魔法はあくまで個人の技能ではあるから、本来ならば技術の進歩とは並行する存在だ。ところが、魔道具だけでなく普通の道具にさえ魔法の力を付与できるとなれば話は別だ。聖職者と、魔道具の職人が、互いに魔法の力を付与できる技術を持っているとなれば、お互いに切磋琢磨することだろう。
その努力の方向性は、結局魔法を突き詰めていく方向に向かう。1つの大きな方向性を持った動きは、社会全体を同じ方向に動かす。
これが仮に、魔道具か、或いは聖職者による魔法付与だけであったのなら、その技術は独占されて一般人や冒険者には手が届き辛くなっていただろう。そうなれば、個人技能である魔法では無く、誰でも使える科学技術の発展につながっていた筈だ。
広く普及した魔法の力が、科学技術の発展を阻害する。これもまた、1つの矛盾と言う他ない。
そんな、取り留めのないことを考えつつ歩いていれば、意外と早く時間も経つものだ。気が付けば辺りは薄暗くなっていて、空の厚い雲が無ければ夕焼けの1つも見られたであろう時間。
昼にサラスの町をでて、西へ西へと半日近く歩いたのだから、そんな時間になっていても当然だろう。
途中、ウサギのような魔獣とも出会ったが、こちらが威嚇するだけで逃げてしまった。気弱な魔獣も居たものだと思ったが、そうでもないらしい。
お婆さんが褒めてくれた所によると、僕たち人間が魔獣の強さをおおよそで測っているように、魔獣も人間の強さを測るものだそうだ。故に僕らが強ければ、戦わずとも向こうがそれを察して逃げるものらしい。
この一件だけでも、冒険者としては、最低ラインは合格だとお墨付きを貰えた。喜ぶべきかどうか迷う微妙な評価ではあるが。
まだ日は残っている。完全に日が落ちてしまう前に、野営の準備を整え始める。慣れているアクアと、その方面の知識は持っているアントが簡易テントの設営と周囲への魔獣対策を行う。僕は、食事の準備だ。
素晴らしきは魔道具の力。相棒たちは、収納鞄から野営道具を取り出して組み立てていく。おまけに、アクアに至っては綺麗に切りそろえられた薪まで用意してきているのだから、用意周到なこと頼もしい限りだ。
更に面白いのは、テントには魔獣の脂を塗った布を被せていることだ。撥水に防水と、ついでに弱い獣除けの効果もあるとなれば、一石二鳥の優れものだ。
僕が準備した料理は簡素なもの。
下手に血の匂いをさせるのは不味いだろうと、生肉や生魚の類は一切使っていない。それでも燻製肉とチーズのサンドイッチに、豆のスープをたっぷりと作れば、野外にしては豪華すぎるほどの食事が出来上がる。
野営の準備が整った頃。たき火の周りを4人で囲み、食べ始める時にもなれば、辺りはもうかなり暗くなっている。
いつも以上に暗く感じるのは、月も星も出ていないからだろう。
お互いが、どこか気まずい雰囲気を漂わせている中、その元凶が口を開く。
「あんた、料理も出来るんだね。誰から習ったんだい」
それを聞かれるとは思わなかった。
流石に簡単な下ごしらえをしただけのサンドイッチや、ダシを取って塩味をつけただけのスープで料理が出来ると評価されるとは思わない。
ここは素直に答えるべきだろうか。
いや、まさか学校の家庭科で習いましたというわけにもいかない。誤魔化すべきだろう。
だが、下手に誤魔化すにしても、誤魔化す方向に気を付けるべきだ。間違ってこの世界での常識はずれな事を言ってしまっては、面倒なことになる。
「いやあ、子どもの時に少し習ったぐらいですよ。お口にあいましたか」
「まあまあさ。あの娘の料理と比べるとまだまだだけどね。旦那がこれだけ料理上手なら、あの娘も楽が出来るだろうさ」
あの娘とは、王女の事だろうか。
それにしてはやけに親しげな感じもするが、彼女は最近料理に凝っていたと聞いている。
だとすれば、それほどおかしな話でもないだろう。
料理が出来ないよりは、出来た方が良い。何事も出来ないことで困る事はあっても、逆というのは珍しいことだ。
「彼女の得意料理とかって、もしかしてご存じだったりしますか?」
「そうさねえ。前に作ってくれたのは卵焼きだったかね。少し甘めの味付けだったが、あの娘らしい味だったよ。最近は色んな料理をちょくちょく作ってくれるようになった。案外、嫁入り修行でもしているつもりなのかもしれないね」
「それでも他人の為に料理を作るなんて、優しいんですね」
「そうさ。だから変な男に騙されないように、あたしがしっかり見極めてやらないとね。あの娘も結構ドジなところがあるから、周りが助けてやらないといけないよ?」
「心します」
お婆さんに話題を振ったのは少し不味かったかもしれない。
思い切り釘を刺されてしまった。
僕なんかは何処からどう見ても善良で無害な冒険者だとは思うが、他の人からそう思って貰えているかは怪しいものだ。
他人からどう思われているかなんて、本当のところは分からない。
僕に向けられた言葉を裏読みするとするなら、しっかり見極めてやるから、覚悟しろといった所では無いだろうか。困った話だ。
食事も終わり、交代で見張りをしつつ就寝することになった。
日が沈んで直ぐだというのに就寝するのには訳がある。
お互い、交代しつつの見張りがあるために、その分就寝時間を長めにとらなくてはならないというのが1つの理由。
お婆さんは客分という事で見張りには参加しない。曰く、あたしが出張ると全部1人で片づけちまうからね、だそうだ。
僕たち3人で見張りをローテートするならば、当然就寝時間を3等分して公平に見張ることになる。三分の二でも疲れをとるのに十分な時間となる様に、就寝時間を長めにするのは常識なのだそうだ。
もう1つ理由がある。朝早くに移動を開始する為だ。
今居る場所は、沼地から続く平原だ。
このまま北へ行けば沼地にぶつかり、そのまま池に繋がっている。この平原と沼地と池の区分はとても曖昧なものだ。
危険な所であるが故に、人は中々近づかない。それが為に、一切の手入れもされていない。池と言うのも便宜上のもので、単に大きな水たまりがあるというのが正しいのかもしれない。
世の中には、移動する池と言うのもあるほどで、何処から何処までが池で、何処から何処までが沼かなんて、分かるはずも無いのだ。
だからこそ、慎重を期して可能な限り明日の行動時間を長めに取る。これはパーティーメンバーとも話し合って決めてあることだ。
当然その為には朝早くから活動を始めるわけで、早起きする為には早寝が必要というわけだ。
最初の見張りはアントが立つ。
本人たっての希望があってのことだ。
何でも、明日の戦いを前に興奮していて、すぐには眠れそうにないかららしい。僕はさりげなく、愛の鉄拳による睡眠導入を勧めたのだが、固辞されてしまった。この間殴られたお返しをしてやろうと思ったのに、残念だ。
テントも、実は結構広めに組んである。ここら辺は金持ち2人のお蔭と言える。
その中に、毛布を取り出して敷きつつ、眠る準備を整える。
アクア、エッダ婆さん、僕の順に並んで眠る。性別だけ見れば、女性2人に男が1人で同じ屋根の下に眠るわけだ。全く喜べないハーレムなのは、平均年齢を引き上げる方が居られるせいだ。
やはり半日歩いて知らずに疲れていたのだろうか。
眠気は直ぐにやってきた。
まるで鉛の錘でも付けられたかのように重たくなってしまった瞼が、心地よい天国への道案内をしてくれている。
天使のような羊の群れを数えつつ、僕は意識を手放した。僅かな緊張すら、見張りの彼に任せてしまって。
◆◆◆◆◆
「……ぃ、おい、起きろハヤテ」
「んぁ? 朝ごはん?」
「馬鹿、寝惚けるな。見張りの交代時間だ」
まだ頭がぼーっとする。
何か夢を見ていた気がするが、どんな夢だったかも思い出せない。
無理矢理に意識を覚醒させて、大きく伸びをしつつ見張りを交代する。
アントが僕の代わりに毛布に包まり、瞬く間に寝付いてしまうのを、羨ましく思いつつ。
こいつが朝に強い秘密は、この寝つきの良さにあるのではないだろうか。早寝早起きを文字通り体現できる体質らしい。
不眠症の人間が居れば、代わって欲しいと思うに違いない。
テントの外に出ると、外には焚き火以外の灯りが一切なかった。
心なしか、空気も若干湿っぽい。夜になって気温が下がってきたからだろうか。
僅かに火花を弾けさせる焚き火の灯りが、とても心強く感じる。
たき火の傍に座り、木の焼ける煙の匂いを体に浴びつつ見張りをする。
こうして一人で座っていると、少し寂しさもある。
思い返せば、この世界に来てからひと月が経とうとしている。時の流れの何と早い事か。
いや、今は感傷に耽っている場合では無い。
見張りの最中にあって、下手に気を抜くのは良くないことだ。
気を紛らわせるためにも、ステータスを確認してみた。
【看破】を覚えて、おまけにステータス向上の魔法も全て取得済み。
出来る限りの準備はしたはずだ。
ステータスの中で、最も高い値は知力の161ポイント。
団長の説明によれば、こういった数値化も例の天才魔法使いの功績らしい。それまでは、魔道具によって表現の仕方が違っていたとか。色で表す曖昧な表現もあれば、ギルドのようにランク表記で表すこともあった。それを数字で表現する様にしただけでも、天才の発想が常人離れしていることを端的に示している。
最も低い値は、腕力の80ポイント。
これだけでも、実は結構なパワーを出せる。
今の僕のレベルが34であり、本来なら腕力に特化してようやくこの値を実現できる程度らしい。我ながら、規格外と言われる訳だと納得もする。
宿屋のベッドの下に貴重な書籍を保管する際、ベッドを持ち上げてみたのだが、驚くほど軽く持ち上がった。
冒険者を辞めても、引越し屋か運送屋でやっていけると思ったものだ。
魔法のレパートリーも、かなり広い。
全種類のステータス向上魔法だけでも、大抵の場面で役に立てることができる。
攻撃の魔法も2属性で持っていて、今までも大活躍してくれている。
その上、今回の為にわざわざ取得したものを含めて、情報収集系が2種類。
更には回復と解毒も準備している。
こうして考えてみると、かなり戦えそうな気がしてきた。
ウォーター・リーパーがどれほど危険な魔獣なのかは、色んな人に聞かされた。人肉や馬肉を好む嗜好。大勢の兵士と冒険者で討伐したにもかかわらず大きな被害を与える力量。そして“特殊な魔法”だ。
ウォーター・リーパーは、【不可視】の魔法を使う。これこそが、1000人の兵士をして1個小隊規模の被害を出した理由だ。見えないハイエナの群れが襲ってくると考えれば分かり易い。敵意をむき出しにした獰猛な魔獣が、姿を隠して襲い掛かってくる。その恐怖は如何ばかりか。
無論、対策はある。
【看破】の魔法はその為の最も有効な手段だ。神父様のアドバイスは、これを見越しての事。
ただ、そこに居るのだと分からなければ、使いようが無い。
音も無く近づかれ、いつの間にか襲われてしまいましたとなれば、如何に強力な対抗手段を持っていても役には立たない。サイレントキリングの恐ろしさは、何時何処から襲ってくるか分からない所にある。明日、沼地の水辺に近づくときには、針の先ほどの異変すら見逃さない集中力と観察力が要求される。僅かな異変でも見逃してしまえば、待っているのは地獄の窯の口となる。
おまけに、個体そのものもかなりの強さを持っているらしい。レベル10程度の駆け出し冒険者では、手も足も出ないだろうと聞いている。実に不合理な相手だ。決して侮って良い相手では無い。
夜の静かな只中。
ウォーター・リーパーは水辺から離れる事は無いため、見張るのはもっぱら他の獣や魔獣、そして魔物と言うことになる。
獣は焚き火があれば火を恐れて近づかず、魔獣や魔物は力の強い者には近づきがたい。
だから、最も大事なことは火を絶やさないことだ。
パチパチと時折弾ける火は、どこか幻想的で、不思議な不安を感じてしまった。何事も無ければ良いのだが。
しばらくして、テントの中から出てくる人影が見えた。
小柄な様子から、侯爵令嬢のアクアであるというのは直ぐに分かった。
「どうしたの?」
「目が覚めた」
単に眼が冴えてしまって、起きだしてきたという事だろうか。
これから戦う相手を思えば、不安で眠りが浅くなるのも理解は出来る。
やはり多少は不安なのだろうか。
僕から離れた所では無く、すぐ横に座ってきた。
きっと彼女も、こういう時は誰かの傍に居た方が安心できるのだろう。
心なしか、いつもより距離感が近い気がするのは気のせいでは無いだろう。少し身動きすれば肌が触れ合うほどに近い距離。これがむさ苦しいおっさんであれば不快になっていた距離であろうが、我がパーティーの紅一点との距離ともなればむしろ好ましい距離。
「……ハヤテ、婚約するの?」
ボソリとアクアが呟くのが聞こえた。
そう言えば、この仕事は婚約者と認められる試練という建前になっていたのだった。
やはり一度、しっかりと意思を伝えておかなければならないだろう。
「まだ結婚も婚約もする気はないよ。今回の仕事を受けた理由は、成行きが半分に、報酬代わりのコネが半分。仮に何か他の事を言われても、それ以外は興味が無いさ」
「本当?」
何故こんなことを聞くのだろうか。よく分からないが、推測は出来る。
婚約なんて、まだ早いと思っているのだが、この世界ではそうでは無いのだろう。
もし、10代での結婚も当たり前なのだとすれば、このまま婚約してパーティー解散という事になりはしないか。そこら辺が不安なのではないだろうか。
そこは断言しておけば、安心してもらえるのではないだろうか。
「僕は、アクアと離れる気はないさ。パーティーもこれから続けるつもりだし、色々助けて欲しいと思っている。迷惑だったかな?」
「そんなことない」
軽く首を振るアクア。
僕だってアクアやアントと離れてしまうのは寂しい。
気の置けない仲間なのだから、このままパーティーを続けていきたい。それは僕の偽りのない気持ちだ。
2人が居てくれたからこそ助かったことも多い。今回の仕事だって、僕一人では徹夜で見張りをする羽目になっていただろう。それを思えば、安心して眠れるほどの仲間というのは、何よりも大切な宝と言える。
ようやく安心してくれたのか、相棒の顔色もようやく安堵の色が伺えるようになった。
きっと、大切なパーティーメンバーと一緒に居たいという思いが、真っ直ぐ伝わったからに違いない。
僅かに距離を詰めてきたことからもそれが分かる。いつの間にか、完全に腕と腕とがくっつく距離になっている。
彼女なりに不安もあったのだろうが、それを安心させてあげられたのなら喜ばしいことだ。
アクアともう少し話もしたかったが、交代の時間がそろそろだろう。
眠気を明日に持ち越して、思わぬ不覚を取るわけにはいかない。
たき火から離れて、テントに戻る。
テントの中では、誰かさんが想い人の名前を寝言で呼んでいたこと以外は静かな物だ。
僕も、毛布に潜り込んで天使な羊と再会することにした。
それからしばらくして、微睡んでいた僕の耳に聞こえてきたのは、雨がテントの上を叩く音。
そう、何の変哲もない、ただの雨。
そのはずだった。




