054話 やられたらやり返す
生理的な嫌悪感。
林の中で蠢く、それも醜悪さが誰の目にも明らかな虫であれば、自然と湧き出てくる感情。
生物学的に虫と言えるのかも怪しい、毛に覆われたそれは、足を動かしていた。
一本一本が1つの意思の元、それぞれ違った動きをする様は、不気味でもあり、また厭らしくもあった。
大きな蜘蛛の、そんな動きをじっと見つめる。
目の前のその大蜘蛛が持つ意思は明らかだった。
ゆっくりと、敵意を目に迸らせながら近づいてくるのだから。
そこに細い足場が張り巡らせてあると分からなければ、空を飛ぶ蜘蛛が居るのだと考えたかもしれない。
それほどまでに、透明で細い糸は分かり辛い。
だからだろう。一歩後ろに下がったことで、足や腰に粘着性の糸が絡みつくまで、周りを糸で囲まれてしまっていることに気付けなかった。
「アクア、糸を燃やした瞬間に気を付けろ。巻き込むかもしれない」
「大丈夫。ハヤテを信じているから」
どう見ても、僕らを食おうとしている。
ここはまず先手を取る。
既に周りを囲まれて後手になっている気もするが、それを帳消しにする為にもやるっきゃない。
理由になっていない気もするが、僅かに薄い茶髪を揺らして首肯する相棒に安心する。
そのまま遠慮なく魔法を念じる。
その瞬間、蜘蛛の巨体よりも大きな炎が、辺りを瞬く間にライトアップする。
一斉に走る火の連なりが、見え辛かった幾何学模様を浮かび上がらせる。
木々の間を掻い潜るかのように作られていた蜘蛛の巣が、あっという間に火に包まれる様は見ていて心地よくも感じる。
真っ赤と言うよりは、オレンジ色の混じった魔力入り酸素結合の化学反応は、頭の上にいびつな16角形を幾重にも描き出す。
足場が燃えることに戸惑う様子を見せた森蜘蛛ではあったが、火そのものには怯える様子を見せなかった。
いつの間にか糸を使って地面に降りていて、降り注いでくる火の欠片を身に受けながらも平気な風で睨んできた。
軽く足を曲げ、僅かに体を沈み込ませる。警戒から、僕らはそれぞれに得物を構える。
瞬間。
毛むくじゃらの化け物が飛び掛かってきた。
慣性の法則すら無視するような、異常な動きで。
敵は焼けた糸とは別の糸を、お尻から出していたらしい。
その糸を巧みに利用し、飛び掛かってくる最中に2度軌道を変えた。
中空にジェットコースターのレールでもあるかのような不自然な動きに、僕たちは惑わされた。
精一杯反応したが、若干アクアがその動きに対する動きを遅らせた。
やはりどうしても敏捷のステータス差が出てしまうのだろう。
アクアの左腕を、蜘蛛の右足の2番目が掠めていく。
僅かに服の袖が破られ、彼女の白い肌が露出する。
僕は蜘蛛の左足を飛び退いて躱しつつ、剣での一撃を加えてやったが、手ごたえは鈍いものだった。
体勢が不安定すぎたかもしれない。
毛の何十本かを散髪してやっただけで、大してダメージを与えたようには思えない感触だった。
目の前を通り過ぎるかと思った時だ。
蜘蛛はまたしても不自然な動きを見せた。
飛び掛かってきていた方向を、無理矢理空中で90度折り曲げる様な動きをした。
それが予想外すぎた為に、咄嗟に僕は避けるだけで済ませてしまう。
後ろに飛び退くと同時に、背後にあった木の幹を蹴り、一気に蜘蛛の頭上を飛び越える。
変則三角蹴りだが、蜘蛛を見習う空中での軌道変更だ。木の幹を使ったか、自分の糸で引っ張ったかの違いはあれど、今度は蜘蛛自身がその動きの変化に戸惑ったらしい。
蜘蛛が僕を見失ったのを機会に、アクアの傍に体を捻らせながら着地する。
ここがオリンピックの床競技の場で無いのが残念だ。
「アクア、奴にやられた腕は大丈夫か。治療は要る?」
「平気。服を破られただけ」
蜘蛛からは目を離さず、アクアに声を掛ける。
流石、我らがパーティーの主戦力娘。掠ったぐらいでは気にも留めないらしい。
だが、それでも僕らに余裕は無いだろう。
糸を飛ばしてくるのを躱しては居るのだが、その度に行動範囲を狭められていく。
2度ほど粘着性の蜘蛛性テグスを燃やして、飛び回れる範囲を広げるのだが、そうそう何度も【ファイア】や【フリーズ】を使えない。
MPが心もとないのだ。
レベルアップしたから良いとはいえ、こいつと遭遇する前に散々虫を倒すのに魔法を使っている。消費MPも多く溜め時間の要る【ウォータースライサー】は、使う前に糸で簀巻きにされてしまうことだろう。
魔法が使えなくなったら、それこそ良い餌になる。
何せ剣では糸が切れないのだから、倒す術が激減する。
飛び掛かって斬り付けては見るのだが、相手は糸を盾にした防護方法がある上に、手数だか足数だかが僕の倍はある。アクアと一緒に斬りかかってみても、相手に僅かなかすり傷を付けただけだ。
手強い。
心からそう思った。
対抗する手段を一生懸命考えてはいる。
残り少ないMPを空にする覚悟で、【ファイア】を連発するか。
或いは、時間を目いっぱい稼いで、班長やアントが戻ってくるまで待つか。
もしくは一旦退いて体勢を整えるか。
退くことは不味い。
荷物を置き去りにして退くわけにはいかないからだ。
荷物には食べ物だってある。荒らされてしまっては、何の為に僕らが居るのか分からなくなる。任務失敗をあえて選ぶのは、冒険者として失格だろう。曲がりなりにもお金を貰っているプロなのだから、最後まで最善を尽くすべきだ。
何より、誰かが大怪我をしたのならともかく、まだまだ十分戦えるのだから、引き際と判断するには尚早だろう。
引き際を誤るのは、何も遅れる時だけでは無い。早すぎる引き際もまた、誤りなのだと思う。
だとすれば如何に相手と対峙するかだ。
このまま時間を掛けて、班長やアントが戻ってくるのを待つのが良いだろうか。
出来る限り防御や回避に徹し、消極的攻勢とするのが良いか。
大声で助けを求めれば、アントの事だから、喜んで駆けつけてくるのではないか。
だが、それも不味い。
攻防が何時まで掛かるか分からない上に、今は確実に行動範囲を狭められてきているのだ。稼げる時間と言うのがそもそもどれほどか怪しい。増援が来る前にやられては話にならない。
それに、消極的に守りに徹して、対応できるような相手では無い。
犬やイノシシなら、力付くで押してきた分、守りに徹していれば幾らでも時間は稼げただろう。
だが、目の前の毛だらけの怪物は、自らを糸や毛で守りつつも徐々にこちらを追い詰めようとする嫌らしい戦い方をする相手だ。絡め手でくる相手に守勢に立てば、良い様に嬲られてしまうだけだ。
面と向かって悪口を言われればやり返すことが出来ても、蔭口にはなかなか対処しづらいようなものだ。
実に汚らしい手を使ってくる蜘蛛に、避けたり守ったりの時間稼ぎは逆効果でしかない。
避ければ糸が動く範囲を狭め、守ればそこに粘着糸を絡めてくる。やり辛い事この上ない。
おまけに剣で斬りつけようにも糸が斬れないし、かといって糸を燃やしても本体は魔法の火に耐性があるともなれば、楽観や希望的観測をあえて捨て、時間稼ぎも出来ないと判断すべきだろう。
攻めるしかない。
だがどうやって攻めるか。
蜘蛛が糸を飛ばしてくる。
僕の右わき腹を掠める位置だが、避けるとアクアに当たる。
咄嗟に腰からナイフを抜き取り、糸の先に当たるかどうかの際どい所で糸の進行方向を逸らす。
何とか間に合ったらしく、相棒も躱して体勢を立て直していた。
ただ、糸にナイフをぶつけたせいで、丸ごと糸に絡み取られて手放してしまった。
これで否応なく一刀流を強制される。
だが、それで1つの手を思いついた。
「アクア、悪いけど少しだけ時間を稼いで。僕があいつを倒すから」
「何か思いついた?」
「まあそういう事」
細長い糸をぶつけてきたことで思いついた。
糸の様に直線的なものは、避けるか防ぐのが普通だ。何かで相殺しようとか、相打ち覚悟とはならないだろう。だが、仮に防げないとしたら。そして、避ける間もないものがあるとしたら。
じっと汚らわしい大蜘蛛を見つめ、念じる。
アクアなら、この魔法を使っている所も、敵が使った時の威力も知っているはずだ。
――【圧水の刃】
指先に、小さな水の塊が出来てくる。
その間にも、アクアが左腕と右足首に糸をくっつけられてしまっている。既に逃げ場は無いに等しく、糸が繭のように絡みつつある。
早く、早くと気ばかり焦る。
この魔法は溜めの時間が掛かるから使い辛い。
だとすれば、相棒を信じてみようじゃないか。
女の子を壁にすることの抵抗感に勝るのは、この数週間で培ってきた信頼感だ。
きっと持ちこたえてくれる。
溜まりに溜まった圧力が、一気に解放された瞬間。
鉄でも切り伏せようかという勢いで、水の線が蜘蛛の目と目の間に向けて光った。
時間にして3秒ほどの間で駆け抜けた水の刃は、綺麗に敵の眉間に風穴をあけた。
小指の胴回りよりも小さい穴が、見事に奥の方の景色を覘かせる。
蜘蛛の体液が辺りに飛び散り、僕やアクアもその体液を浴びる。
生ぬるく、粘つく様な気色の悪い体液だ。
蜘蛛はそのまま力を失い、ゆっくりと倒れていく。
やがてピクリとも動かなくなったのを見届けて、相棒に声を掛ける。
「うえ、何このべとべとしたもの。気持ち悪い」
「多分、蜘蛛の毒液」
「げ、大丈夫なの?」
「【解毒】で対処した」
なるほど、あの魔法はそういう使い方もあるわけか。
ご令嬢が便利だと断言するわけだ。
納豆か、なめこかと言わんばかりの粘つく液体を体に受けてしまった。
どうにかしたいが、騎士の皆さんが今だ臨戦態勢で待機中の最中に水浴びで時間を下さいとも言えない。
どうしたものか。
「ハヤテ」
「ん? どうかした?」
「取って」
「うっ。こ、これは何とも」
何事かと思ってアクアの方を見れば、言いたいことはすぐに分かった。
蜘蛛が倒れて死んでも、残るものがあるのだ。
そう、細くも丈夫で、絡みつく様な糸がそのままだ。
おまけに、アクアが取ろうと動くものだから、その糸が身体に巻きついている。
糸を巻き取った事があれば分かることだが、巻き取るとき、巻芯に凸凹があれば巻かれる糸が寄ってしまう。
隆起した部分には糸が少なく、逆に窪んだ部分に糸が寄り集まってしまう。ミシンの糸巻なんかが良い例だ。これはどうしても仕方の無いもの。
つまりは、アクアの体に巻きつく糸も、そういう事だ。
彼女の身体の一部の隆起が、巻きつく糸のせいで尚一層強調されている。
具体的には胸部と臀部に糸が少なく、おまけに腰や太ももには糸が食い込むせいで艶めかしいことこの上ない。
しかもアクアが身体をくねらせるものだから、思わず僕は鼻頭を押さえそうになってしまった。彼女には気の毒だが、僕には目の毒だ。これはいかん。
じっくりと見たい気もする。正常な男子たるもの当然の発想だ。
だが、流石にパーティーの信頼を損ねることは出来ない。第一、糸を取ってほしいと懇願されている以上、無視するわけにもいかない。
「ちょっとまって、今MPが空っぽだからもう少ししたらその糸を取るよ」
「分かった」
そう、今すぐにでも糸を取ってあげたい。勿論そうだとも。他ならぬアクアの頼みなのだから。
だけれども、MPが無ければ仕方が無い。僕の計算上ではMPを使い切った計算になる。
この蜘蛛の作った創作物は、剣で斬れない以上、どうしようもないのだ。
だから役得のようなことになっていても、それは決して望んでそうしている訳ではないのだ。
うん、完璧な理論だ。そう、僕だって嫌々なのだ。困ったことだ。
ああ困ったなあ。
――ゴンッ
突然、僕の後頭部を強い痛みが襲う。
思わず頭を抱えてしまった。目から火花か星を飛ばす魔法でも覚えたかと思えるほどの痛み。
一体何事だ。
「ハヤテ、お前は何をやっているのだ。見損なったぞ」
「アント、何時の間に戻ってきていたの」
「お前が鼻の下を伸ばしてアクアを見ていた時からだ」
「それなら先に声ぐらい掛けてくれても良いじゃないか」
振り返ると、いつの間にか男前な貴族様が水汲みから戻ってきていた。
しかもアントは手を握り込んで、如何にも今自分が殴りましたと言わんばかりの格好。
顔は呆れたような、怒ったような、複雑な表情だ。
その傍には汲んできたばかりらしい、大きな樽に入った水が置いてある。
いきなり酷い奴だ。一体僕が何をしたというのか。
何も殴ることは無いじゃないか。
「ええい、何を言うか。見れば森蜘蛛まで倒しているではないか。私の幼馴染がこんな恥ずかしい格好で、お前の助平な目に晒されていたことと合わせて説明しろ。事と次第によっては神に代わって天罰を与えてくれる」
この世界の人間は、説明を求めるのに後ろから殴りつける決まりでもあるのか。
ただでさえ頭の悪い僕が、これ以上馬鹿になったらどうしてくれるのか。
しかも微妙に手加減の度合いが弱い。
かなりきつめに殴られた。
「誤解だ。話せばわかる。MPが今足りてないから待っていただけだから」
「嘘をつくな。森蜘蛛を倒したのだぞ? 今までの事を考えても、お前の事だからレベルアップの1つぐらいしているだろう。それでMPが切れているとはあり得ん話だ」
言われてみて、初めて自分が4レベルほどレベルアップしているのに気付いた。
アクアも2レベルほどアップしていたらしい。
「気付かなかった。アクア、今助ける」
「お願い」
その後、火魔法が使える程度に回復したMPを使い、僕の冤罪の元を断ち切ってアクアを救出した。
説明を求めているアントに、答えようとした時にそれを制したのは、そのアクアだった。
「ボクが説明する」
「うむ、頼む。ハヤテが説明すると、大事な所を隠すかもしれんからな」
酷い言われようだ。
アントほど馬鹿正直でないにしろ、真っ当に生きて来たと胸を張れるぞ、僕は。
第一、隠す所なんて無いじゃないか。
「まず、お前の服が破られているのは何故だ」
「襲われた」
「何! それで、その時にそこに居たのは誰だ」
「ハヤテだけ?」
「いや、アクア。それだと誤解が」
「ハヤテは黙っていろ。今は私が聞いているのだ」
確実にアントは誤解をしてそうだ。
確かに蜘蛛に襲われたのは事実だし、その時に居た人間は僕だけだろう。
間違ってはいないが、大きな誤解を生む表現だ。
何故か強い既視感を覚える。
この流れは、不味い流れだ。
「さっき糸が絡んでいたのは、何故だ」
「ハヤテの作戦」
「その身体がべとついているのはどうしてだ」
「ハヤテのやった事の結果」
駄目だ、完全に誤解されている。
確かに糸をアクアに防いで貰って、時間の掛かる魔法で一気に片付けようとしたのは作戦だし、身体に体液がかかったのも僕の攻撃の結果と言えるだろう。
言えるのだが、ここでは誤解しか生まない受け答えだ。
絶対、アクアは分かって言っている。というより、僕よりアントの性格に詳しいはずなのだから、こいつがそんな受け答えでどう考えるかなんて分かりそうなものだ。彼女なら100%分かる。それだけの頭は持っている。
何故だ。やっぱりさっきの意趣返しか。
完全に怒りを露わにするアント。スラリと抜き放つのは、見事な刀身。
「婦女子への不埒な所業。か弱い女子に襲い掛かり、服を引きちぎり、あまつさえ卑猥に縛り上げるとは見下げ果てた奴だ。神が許しても私が許さん。ええいハヤテ、せめてもの情けで苦しまぬようにしてやる。そこを動くな」
「だからアント、誤解だって。落ち着け。危ないから剣を振るな。お前の剣は洒落にならないんだってば」
「ええいちょこまかと。大人しくしろ」
アントの剣がかなり際どい所を通り過ぎていく。
剣筋を察して頭を下げた所を、ギリギリのところで駆け抜ける。髪の毛が数本は斬り飛ばされる。
早いなんてものじゃない。下手な騎士より強いんじゃないだろうか。
「一体何事だ?」
「班長、助けてください」
「逃げるな~」
ようやく戻ってきてくれた班長が、アントをとりあえず押さえてくれた。
これで落ち着いて話が出来る。
流石にこんな冗談みたいなことで斬られたくは無いし、斬りたくも無い。
かくかくしかじかと、班長に起きた出来事をありのままに伝える。
風が吹いて布が飛んだこと。それが森蜘蛛を呼んでしまった事。森蜘蛛の糸には剣が通じなかったこと。おまけにMPが切れかけてしまった事。そして、最後はアクアと協力して森蜘蛛を倒したこと。
全て正直に、ありのままに話した。
「なるほど、よく分かったよ」
「分かって貰えて良かったです」
班長は、流石にきちんと話を聞いてくれた。
これで僕も安心できる。
「ははは、そうだったのかハヤテ。そうならそうと早く言え。私は勿論お前を信じていたとも」
嘘を付け。さっき剣を持って襲い掛かってきたのは何処の誰だ。
前にも同じように誤解が原因で人に斬りかかってきていただろう。
その時から進歩の欠片も無い奴だ。
ふっとアクアの方を見れば、あからさまに目をそむけた。やはり分かっていてけしかけたな。
何の罪も無い、善良なる一市民を無実の罪で裁こうとは。アクア、恐ろしい子。
まあ、僕にも非が無いわけでは無いだけに、この件はさっさと忘れよう。
それがもう最善に思えてきた。
「何にせよ、森蜘蛛を2人で倒したというのはお手柄だ。ここしばらくは町の周りで魔物を見かけていなかったが、やはり危険な魔獣が増えているというのは確からしい。まあ、何か魔獣が1種類でも住み着けば、それを切っ掛けに他の種類の魔獣が集まってしまうということもある。残りの作業も気を付けて作業しよう」
「はい」
班長指示のもと、第2段階の作業を引き続き継続する。
うっかり林を火事にしないよう、注意しつつ糸の始末をしたりもした。
汲んできてもらった水が、幾分か活躍したのは甚だ余談ではある。
魔法の火は範囲魔法。そもそも小さい火を何回も出すとMPの消費が大きい。そこで横着をしようと、まとめて焼き払う為の大きな火を出せば、火事にもなりやすいわけだ。
班長が消火の用意をしたのは、こういう事があってのことだと今更ながら理解する。
もしかしたら、何度も経験している事なのかもしれない。
そして、太陽も十分昇った頃、獣を追い立てる作業は終わる。
晴れ渡る夏空の下、活き活きとしたグリーンの葉で満たされた林。
そこで高らかに響き渡る笛の音。進軍ラッパならぬ進軍警笛だ。
大きな長音が僕の傍で2度鳴って、それに合わせる様に離れた場所から太鼓の音が鳴りだす。
いよいよ大詰め。獣の一斉掃討だ。
ここに至っては、すでに班長から荷物のみを守るような野暮な指示は無い。
少なくとも僕は、明らかに見習い騎士より実力的に上だと見なされた為に、掃討戦参加の許可済みだ。
その時の羨ましそうな顔をした相棒達の思いは分かるが、こればかりは僕の判断というわけにもいかない。
この掃討戦で注意するべき点は2つだそうだ。
1つは林から草原に逃げた獣を追わないこと。
もう1つは囲まれることを避けること。
林から逃げる獣を追わないのは、逃げるものは追うだけ無駄だからだそうだ。
最も無害で臆病な獣は、皆で追い立てている時点で逃げ出してしまっている。
だから本来、今まで残っている獣はしぶとい奴らばかりといえる。
それでも、この段階で逃げ出す獣というのは、人や音に怯えはしないものの、実際の戦闘を前にすると逃げの手段を選ぶものということだ。
これはつまり、一般人が林を通った時でも逃げはしないが、襲いもしないものという判断が出来る。
怖い人たちが近づいてくるとき、真っ先に逃げるのがタイプA、様子を見るのがタイプB、わざわざ喧嘩を売りに行くのがタイプCと別けるなら、既に逃げているのがタイプAであり、第3段階まで残っていながら、改めて逃げ出すのはタイプBだ。
こういう獣まで追い立ててしまえば、本来無害な獣が縄張りにしていた所にまで、有害な獣が居付いてしまう危険性が増えるということ。
殺虫剤で無害な虫まで殺してしまえば、一旦は虫が減ってもかえって害虫が増える結果となることもある。そういうことだろう。
あくまで人に害を為す、タイプC的な害獣のみが駆除対象なのは、深い理由があるということらしい。
ここら辺、何でも魔法で燃やせば解決とか、出会う獣を片っ端から殺すというような考えなしの馬鹿では務まらない作業だ。
そしてもう1つの理由。囲まれるのを避けるのは、無用の怪我や不測の危機を未然に防ぐためだ。
人の目が何故前に付いているか。それは人が何かを後悔するためではなく、前を向いて進むためだという。
そう、人は後ろを見るようには出来ていないのだ。
死角。
囲まれるということは、必ず目では見えない位置に敵を置くということだ。
如何に弱い獣であっても、見えないところから攻撃されるとなれば危険な相手になる。
包囲や挟撃は避けるに越したことは無い。
ちょっと見てないうちに、ゴブリンが増えていましたと言う事があっても不思議は無い世界だ。水をかけるまでもなく増えるゴブリンは経験済みなのだから。
班長はそこら辺をきちんと考えているのだろう。
指示された陣形というのは半球のような逆扇形の陣形だ。
寄せて集めた獣を、半包囲して攻め立てる構え。逃げるなら逃げても良しという必勝の態勢といったとこか。
じわりじわりと林の端に獣を追い立てる。
班長は周りを見渡し、他の騎士団員の、戦闘準備完了の合図を確認する。
そしておもむろに一言、大きな声で命令を下す。
「かかれ!」
「うおおぉ!」
耳の奥を殴りつけたような大声が林に響き、一斉に獣の群れに攻撃する騎士達と僕。
驚き、戸惑い、逃げ惑い、あるいは歯向かって来るのは獣たち。
犬に猿に鳥ときて、鹿っぽい灰色の動物や茶色くて大きなねずみの仲間らしき動物までが走り回る。
僕もここでは思う存分に剣が振るえる。蜘蛛相手で、斬れない糸のために溜まった鬱憤も合わせて晴らさせてもらう。
特に野犬に対しては思う所だってある。
無謀にも向かってくる畜生共を、力の限りで両断していく。
剣を持つ手に、骨を切る鈍く堅い手ごたえがあるものの、それすらもごり押しで押し切る。
飛び散る血煙の匂いは、否応無くこれが戦場と教えてくれる。
大半の獣が逃げ出し、残った害獣もあらかた切り伏せられたのを見渡して、僕は荷物の所に戻る。
今も騎士の幾人かが、素早い猿に悪戦苦闘しているようだが、それは自分で何とかしてもらうしかない。
下手に手助けすれば、彼らの沽券に関わるだろう。何せ一応、僕らは荷物もちという役目なのだから。出しゃばるのは良くない。
「ハヤテだけ活躍の場があるというのは不公平ではないのか」
「僕に言わないでくれ」
「いっそこのアブラムシを叩いてみるか?」
「やめてくれ。今度は蜘蛛みたいなのが大量に湧いたらどうするのさ」
「ふん、つまらんな」
退屈そうにしているのは、アントだけでは無い。
全く、戦えることを喜ぶとはどこの戦闘民族だ。
平和な世の中が一番だとは思わないのだろうか。
かなり手こずっていたようだが、ようやく騎士の仕事も終わったようだ。
班長がテキパキと後片付けの指示を出している。
実はここからが僕らの仕事が大事だとされている理由でもある……とは班長の説明だ。
今、垂れ目な班長さんが指示を飛ばしているのは、死体の始末と有用部位の回収作業だ。
死体をきちんと埋めるなり焼くなりするのは、それが腐ったりして疫病の原因になるのを防ぐための作業。
そして、有用部位の回収は、カニの甲羅と同じで使い道のある部位を持った獣から、それらを集める作業だ。
この有用部位というのは、薬効のあるものであったり、武器や防具や魔道具や日用品の原材料になるものであったりする。
冒険者の収集依頼として出されることがあるものも多く、中には貴重な物も含まれている。
早い話が金になる。そしてその金は、騎士団の貴重な活動資金でもあるらしい。どうりで騎士は金持ちだと思った。収入源が、給料の他にもあるなら、金があって当然だろう。ある意味公認で冒険者の副業をしているようなものだ。
これを持ち帰るために、荷台には専用の大箱が幾つもある。収納鞄を使わないのは、ネコババを防ぐためであり、荷台で運ぶのは騎士の手が塞がっていると、万一の危険があるからだ。
何せ、金貨や銀貨を運んでいるのと変わらないのだ。騎士に防がれるというリスクを冒してでも、手に入れたがる邪な人間が居る事だって有りうる。
荷物運びの役割が重要なのは言うまでもない。ある意味で、貴金属を運ぶのと変わりが無いのだから。
周りを3人で警戒しつつ、町への帰路につく。
騎士団員の数人が先行し、前衛と後衛に2集団出来る形だ。
荷物運びは後衛になる。
先行する騎士団員に続く形で、ゆっくりと進んでいく。
最後まで気を抜くわけにはいかない。それで失敗しかねないのは、経験済みなのだから。
「そうそう、この荷物を何処まで運ぶか言っていなかったね」
「そういえば。何処まで運べば良いのでしょうか」
てっきり騎士団の詰所まで運ぶのかと思っていたが、そうでも無いのだろうか。
まさか冒険者ギルドというわけでもないだろうし、何処に運ぶのか。
そんな疑問は、班長の一言で氷解する。
――城まで運んでくれ。




