053話 蜘蛛の糸
多くの魔獣の波が襲った跡。
それはかなり大きなものになっていた。
足の踏み場もないと言わんばかりの死骸の茣蓙が出来ている。
魔物の死体の上に、更に死体が乗るほどの大量の虫の死体だ。
最も厄介なものは、残されたこの魔獣の死骸をどうするかだろう。
先の騒動で、怪我をした騎士が居たことも、問題としては決して小さくは無い。
この世界でも破傷風があることは認識されているらしく、解毒と共に水による傷口の洗浄がなされていた。
その為に、一生懸命僕らが持ってきていた水も使った。
最初は僕が【ヒール】しようかと思っていたが、運んできた荷物には、良く効く薬があったようだ。
陶器瓶のような容器を取り出して、怪我をした騎士がその中身を一気に飲み干す。
そうすると途端に、傷口が淡い燐光に包まれて治っていく。
まるで魔法のようだとも思ったが、よく考えれば魔法そのものなのだろう。
この世界では医療と言うよりも、こういった技術に頼っている面が多いらしい。
確かに、怪我が数秒で完治するのなら、痛い思いをして傷口を縫うよりかは薬を飲み干す方を選ぶだろう。誰だってそうだ。
そんな様子を、ボーっと眺めていたが、垂れ目騎士のペイジルさんが声を掛けてきた。
深刻そうな声色ではあったが、明瞭で聞き取りやすい命令口調だった。
「さて、何があったのか話してくれ」
「巨大なアブラムシのケージの横に、ニンマ鳥のケージが置かれました。その際に暴れた鳥が、アブラムシを刺激したようです」
僕の説明に、驚きつつも納得顔をした班長。
そして、呆れた様な顔をしたアント。
ここで話したことは、全部ではないにしても要点は掴んでいると思う。
「なるほど。蟻や蜂は、巨大なアブラムシの出す蜜のようなものを好む、好蜜嗜好がある。お互い共生する種もいる位だから、集まってくるのも当然だろうな。それにしても、まさかここまで大量に集まるとは思わなかった」
「私もびっくりしましたよ」
「アリは元々大きな集団を作るからともかくとして、蜂は恐らく以前にも何かに襲われていたのだろう。奴等は一度襲われると、安全の為により大きなコロニーを形成する習性があるからな。駆け出しの冒険者あたりが、うっかり逃がしてしまったのだろう。迷惑な話だ」
「本当ですね」
なるほど、蟻を逃がすなと言われたのもそれが理由か。逃がすと面倒だという理由。
確かに、蟻や蜂の立場からすれば分かり易い理由だ。
数が少ないと危険なのは自明のことだ。それであるなら、より多くで集まる事は自衛手段になるだろう。
相対的に力の劣るものが、群れようとするのは原始の本能が為せる技だ。
今回、100匹を超える蜂が襲ってきたのは、以前に誰かが蜂と戦いながらも逃がしたという事なのか。
そんな迷惑な事をする奴が居たら、顔を見てみたいものだ。そんな分かりやすい失敗をするぐらいだから、よほどの間抜けと考えられる。
何故か心が痛む。
「そういえば、さっき怪我をしていた方は大丈夫なのですか?」
「大丈夫だと思う。今日が初任務だから気負いもあっただろうけど、あれぐらいは俺たちの任務じゃ良くあるし」
「初任務?」
「そう。あいつは今、見習いとして研修中なんだよ。そういえば君たちも入団試験には来ていたんだっけ。君たちなら即戦力なんだけどなあ」
確かに、若い騎士を見かけたのは、入団試験に潜入していた時だ。
受験生として、最終試験でも力強い感じだったのは覚えている。
彼が見習いだというなら、さっきのうっかりミスもあり得る話だ。失敗してこそ覚えるのが人という生き物だから、最初のうちは色々な失敗もするはずだ。
それが為に周りのフォローを必要とするわけだが。
ただ、即戦力と言われても、僕は騎士団に入るつもりは無い。
というより、体育会系の雰囲気には馴染めそうにない。
特に赤毛のアラン団長にこき使われそうなのは、何が何でも避けたいところだ。
命令を拒否できない立場になれば、嬉々として使い潰そうとする人間が、心当たりだけでも数人居る。
「私たちは騎士になるつもりはありませんよ」
「勿体ないな。それだけの実力があるなら、騎士団でもかなり良い所まで出世できると思うけど」
「そういえば班長さんも流石でしたね」
「そう? まあ、あれぐらいは騎士団員としては当然かな」
見習いらしい若手騎士は蜂に囲まれて幾つかの切り傷を作っていたが、この班長さんは蟻と1人で対峙しつつも無傷だ。
相当な手練れなのかもしれない。
いや、騎士団員もそれなりの実力があって当然だろうから、相当な強者なのは間違いない。
治安を守るものが、治安を乱す連中より弱くては話にならない。
となれば、冒険者と同じぐらいには強くないといけないのではないだろうか。
きっとレベルも高いはずだ。アントやアクアの動きと比較して、5~60代ぐらいと見た。
改めて隊列を整えた第2班の面々。
居並ぶ様は規律を持ち、その身に厳しい修練の結果を滲ませる。
そのうちの1人はつい最近入団したばかりだということだったが、それでも尚見劣りしない様は流石といえる。
軍事教練を兼ねた定期見回り作業の第2段階は、事細かな指示を受けて行われる。
その理由は言われなかったが、察しはつく。
野獣や魔獣、魔物といったものたちを追い立てるに当たっては、騎士団員の連携が重要なのだろうと思う。
破れた網で虫を取ることは出来ないだろうし、穴の開いた器では水を汲むことは出来ない。
互いが密に協力し合うような、水も漏らさぬ包囲網が必要になる。
だからこそ、指示も具体的で細かな指示になるのは当然だろう。
それに、個々人の負担が最も大きいのもこの2段階の作業だ。
林が広いだけに、お互いが纏まるのではなく、バラけるような配置とならざるを得ない。
そうなれば、万が一にも敵対的な獣や魔物に遭遇した時、否応無く少数での対応をすることとなる。
個人の戦闘能力と戦闘経験を向上させる機会ということらしいが、その分危険が大きい。
特に危険なのは新人さんだろう。
包囲網が崩れるとするなら、彼のところからである可能性は高い。
「私たちの担当はどうなるのだ」
我がパーティーのビジュアル担当が、当然の疑問を口にする。
この危険な作業で、どういう担当になるかは重要な要素だ。
アントが聞かなければ、僕が聞いていた。
「君たちは、俺の後に付いてきてくれれば良い。荷物を守ることを最優先にしてくれ」
ペイジル班長の指示は堅実だった。
明らかな不満顔が2人分発生したことは些細なことだとしても、お互いの役割を十分理解している指示の様に思える。
僕の中で、班長の評価はうなぎ上りだ。
本人の実力も高いうえに、指揮能力も的確。
きっとこういう人間が、騎士団でも重要な地位に就いていく事になるのだろう。
「では、作戦開始」
班長の声が林の中に高らかに響く。
男性特有の、それも普段から大きな声を出す人に特有の低音。
コントラバスがソロを奏でるような、安心感さえ覚えるその音に、班員もやる気の漲る声で応える。
一斉に作業を始める動きは、それぞれがバラバラなはずなのに、オーケストラのような調和があった。
2人が西洋太鼓を持って南北のそれぞれに散る。
更に2人が小型の弓と布製の投石器をもって、また南北に散る。
太鼓は音で脅かして、誘導するのが目的だと分かる。 だが、弓と投石器は何の為だろうか。
攻撃の為だとは分かるが、ここで攻撃をするならいっそ大きな長弓とか剣とかの方が良いのではないだろうか
「あの弓と投石器って何に使うのですか?」
「ん、そりゃあ作業する為に使うのさ」
班長は、大きな布を何枚かと、紐を台車から降ろして持っていく残りの騎士を見送りながら、適当な答えを紡ぎだす。
作業に使うのは分かるが、どういう作業に使うかを知りたいのだ。
布は、弱い魔獣や野獣が忌避する臭いの付いたものらしいから、それを紐であちこちに括りつけて行くのだろうことは分かる。
「作業って、どんな作業ですか?」
「そっか、君たちはこの仕事初めてか。林の中に住む獣には2種類のタイプがあるって知っているかな?」
「いえ、初めて知りました」
2種類のタイプとは初耳だ。
どんな区分で別けているのか興味がある。
食べられるものと、食べられないものとかなら分かり易いが、まさかそんなことも無いだろう。
毒持ちとそうでないタイプとの区分けだったりするのだろうか。
それとも、オスとメスという単純な話だろうか。
「敵を見ると逃げるタイプと、敵を見ると向かってくるタイプの2つさ。この場合、向かってくるのは対処のしようもあるが、逃げる奴は扱いが難しい。こちらが先に気付けるのなら近づいていく方向でそれなりに逃げる方向を操れるだろうけど、何せ全部の相手を先に見つけることは難しい。斥候や探索に熟達した冒険者が探すのならともかく、警戒心の強い獣は、こちらが見つけるより先に、こちらを見つけてしまう。だからそういう逃げる相手には、射程の長いもので対処せざるを得ないのさ」
「なるほど」
そういう理由があるのか。
言われてみると、逃げる相手をコントロールしようとすれば、剣を持って追いかけるより、鼻先や進行方向に矢を放って動きを牽制する方が有効だ。
それに、1撃づつの威力が高い代わりに取り回しが難しく連射できない長弓よりかは、小回りが利いて連射のし易い小弓を使う方がやり易い。
長距離攻撃を行えることは、こういう時のアドバンテージになるという事か。実に勉強になる。
「それじゃあそろそろ我々も行こうじゃないか。俺たちは、ゆっくりでいい」
「了解です」
気づいたことが1つある。
最初遠くの方から聞こえていた太鼓の音が、段々と僕らの進行方向側から聞こえてくるようになってきていることだ。
これはつまり、僕たちの動きがある形をしだしているという事だ。
始めは南北に並ぶように1列の長い線だったものが、南北両端に近い人ほど素早く前進する。
そして、真ん中の僕や班長がゆっくり進む。
そうすることで、段々とVの字型に近しい形になっていっているようなのだ。
始めは僕らが作っている角度も180度に近い角度であったが、段々と角度も険しく尖っていく。
まるで、開いていた本をゆっくり閉じていくかのような動きだ。
本の綴じ代に当たる所が、僕らが今居る所といった感じだろうか。
きっと最後は、冊子にしおりを挟み込むかのように、野獣や魔獣や魔物の類を潰すつもりなのだろう。
両端に当たる騎士の動きは言うまでも無く、その間の騎士の動きも揃ってなくては出来ない陣形というやつだ。
不機嫌そうに荷物の傍に居たアクアに、僕は声を掛ける。
顔には出ていないが、その重たそうな足取りから、今の作業が不満であることが伺えたからだ。
「アクア、荷物の見張りはしっかりね」
「分かっている」
「魔獣が逃げてくるとしたら、ここだから。後になればなるほど、そういう機会も増えてくると思うし」
「本当?」
周りの目が、何故か僕に集まる。
特に変な事を言ったつもりは無いのだが、班長まで若干の驚きを含めた目で見てくる。
アクアが期待の籠った目で見てくるのは分かる。魔獣が来るかもしれないと言って、喜ぶ変わり者は、僕の知る限り2人しかいない。
「この陣形からすると、一番敵と遭遇しやすいのは僕らの所だと思うしね。僕らから見て左右の人たちがそれぞれ両側から追い立ててれば、自然と真ん中に敵が集まるだろうし」
まるで鳥が羽を広げて動かすような動きだ。
徐々に前に進みながら、羽を閉じていく。後になればなるほど、追い立てられた魔獣や野獣の密度は高くなっていくことだろう。
そして、両端から追い立てている以上、最も密度が濃くなるのは両端から最も遠い中央。すなわち僕らの進行方向だ。
「君、やっぱり騎士団に入るべきだよ」
班長が、僕に声をかけて来た。
騎士団への勧誘は、さっきはっきりと断ったはずなのに。
「遠慮します。冒険者として頑張ると決めているので」
「勿体ないなあ。そこまで分かる冒険者って少ないのに。自分のレベルを上げようと頑張る輩は多いけど、集団戦の考え方が出来るのは珍しいから。自分よりレベルが低い奴とは足手まといだからパーティー組まないなんて言う輩なら掃いて捨てるほど居るけどね。君なら騎士に向いていると思うけど、本気で考えてみない?」
「冒険者が性に合っているんですよ」
如何にも残念だという風体で、前に向き直った班長。
騎士団に勧誘してきた人間は、これで何人目だろうか。そんなに僕は騎士に向いているのだろうか。
仮に向いているとしても、ストレスが溜まり放題で、いずれ溢れだすことが確実な所には入団したくない。決壊すると分かっている堤防に近づくのは、馬鹿のやることだ。
魔物と遭遇する危険は、僕らが最も高いと理解したのだろう。
さっきまで不満そうだった相棒たちも、気合を入れ直したらしい。
まるで早く出て来いと言わんばかりに、キョロキョロと辺りを気にしだした。
全く、現金なものだ。
だが、多少は見習うところもある。いつ出てくるかも分からないのだから、警戒を怠ってはならないだろう。
僕も改めて、なけなしの集中力を動員する。
ゆっくり慎重に歩みを進めて行くと、何か光った気がした。
極々僅かな違和感。
まるで泡が弾ける瞬間のような刹那の感覚。
「おい、何かあるぞ」
アントも気づいたらしい。流石に目敏い。
軽く頷き、その場に立ち止まる。
じっと目を凝らしてみると、髪の毛よりも細く思える透明な糸が何本か張ってあった。
よっぽど注意してみないと、分からないだろうと思われる。
まるでウォーリーを探して居る時の、オマケの靴下探し並みに分かり辛い。
一体これは何だろう。
そう思って居ると、その糸らしきものを確認したベイジル班長が、ホイッスルのような笛を取り出した。
おもむろにそれを口にくわえ、深呼吸するかのように大きく息を吸い込む。
カエルのように膨らんだ胸と頬から、一気に空気を笛に送り込む様が見えた。
甲高い音が短く2度、長めに1度、林の中に響く。
「近づかないように。これは、森蜘蛛の警戒糸だ。いまその場での待機合図を皆に送ったから、君たちも待機してくれ」
「分かりました」
何やら怪しい様子。
笛で合図を送ったという事は、訓練の一環なのだろうか。
迅速な意思伝達の為に、笛や太鼓や手旗なんかは何処でも使われるものだ。便利なのは間違いない。
いずれ覚えた方が良いかも知れない。
慎重に辺りを探る様にして、班長が糸に近づいていく。
林の中の限られた日差しを反射して、キラキラと光っているそれは、見ているだけなら綺麗な物だ。
影になった中空にまで糸が伸びているのは分かったが、光の無い所では途端に見えなくなってしまう。影では、陽光を反射すること無いのだから、透明な糸は限りなく背景と同化している。
本当に見え辛い糸だ。
「やはりこれは相当に大きい森蜘蛛の警戒糸だな。君たちの中で、火魔法を使えるものは居るかな」
「僕が使えます」
「悪いが、この糸を燃やすのに協力してくれ。俺の属性は土だから、君の助けが要る」
「ええ、構いませんが、幾つか聞いても良いですか」
「ん、ああ構わないとも」
聞きたいことと言うより、知りたいことが幾つかある。
折角だからこの際聞いておいた方が良いだろう。
アントは聞いても直情的な意見しか返ってこないし、アクアは聞きたいことを聞きだすまでに、無口なせいで通常の倍は労力を消費してしまう。
班長さんなら、そんな危険は無いだろう。
人の質問に、的確な対応が取れることもまた上に立つ者には大事なことだ。
「まず、森蜘蛛ってなんですか」
「森や林のように木々の密集した場所に居る蜘蛛の魔獣の総称だ。色々種類はあるがその全てが肉食性で、他の魔獣を餌にしているのだが、当然人も襲われる。オオミツバチも餌にするらしく、その巣の近くにこうやって居付くことがあるそうだ」
名前と糸から察しは付いていたが、やはり蜘蛛か。
だとすると、基本は自分に有利な場所で待ち構える捕食者と言った所だろう。
危険な相手だ。
「糸を燃やすのは何故ですか」
「残しておくと危険だからね。これは細い糸だけど魔力の籠ったものだ。普通に切ろうとしても切れないんだ」
「燃やすだけなら、別に火魔法でなくても良いのでは?」
「それは無理だ。つい先も言ったが、こいつは魔力の籠められた糸だ。魔力の籠った火で焼ききるのが一番だ。焼いた瞬間に蜘蛛が気付いて出てくることも想定しておくべきだろう」
そういうものなのだろうか。
別に火なら構わないような気もする。
それこそ剣で断ち切れそうなほどに細い。
だが、ここは専門家の意見を優先すべきだろうし、どちらにしろ僕らが出しゃばって良い仕事でも無い。
「念のため、火が周りに延焼しないように水を汲んで来よう。何処まで糸が伸びているか分からないからな。誰か1人手伝って貰えるだろうか。その間、他の人間はここで警戒しつつ待機しておいて欲しい」
「なら私が行こう。じっとしているのは性に合わん」
水汲みに立候補したのはアントだ。
ただ大人しく待つだけでも、活動性向の高い人間には辛いものがあるのだろう。
僕たちのパーティーの中でも、アクアより力があるのは事実だから、水汲みで無駄に余っているスタミナを消費してもらうのも悪くない。
「よし、じゃあ早速行って来よう。くれぐれもその糸には触らないように。葉っぱ一枚でも触れると気付かれる。手強い相手だから、俺が戻った上で、糸を焼ききるまで絶対に手は出さないように」
「そうだぞハヤテ。抜け駆けはするなよ」
誰に言っているのか。心配無用だ。
僕よりも、無口な少女の方に言ってやるべき言葉だろう。
我らがパーティーで一番その言葉を贈りたい相手が、自分で言っているのだから世話は無い。
僕とアクアは班長に大丈夫だと答えつつ、見送ることにする。
小走りに水を汲みに行った精鋭2人の背中を見ながら、念のための用心で一歩後ろに下がっておく。
僕らは荷物の見張りと運搬が役目だ。
「ハヤテ、大丈夫?」
「何が?」
アクアが心配そうに僕を見つめてきた。
いきなり何のことを言っているのか、分からない。
彼女はもう少し口数を増やすべきではないだろうか。
「さっき、襲われていた」
「ああ、大丈夫さ。班長やアントも居たから、なんてことは無かったよ」
あからさまに安堵と分かる表情を浮かべた侯爵令嬢だったが、そんな感情豊かな顔も出来たのかと驚いてしまう。
かなり分かり辛かった表情も、段々と区別がついてくるほどに見慣れて来たという事だろうか。
だとしたら、喜ばしいことだ。お互いの意思疎通を円滑に出来る要素が増えるのだから。
もしかしたら、そんな珍しい現象に気が緩んでいたのかもしれない。
突如吹いた弱い風に、気付くのが遅れてしまった。
風が遠くの匂いを運ぶ頃合いになって、それが匂い以外にも運んでいるものがあることに気付いた。
荷台に置いておいたはずの、余りの布きれだ。
上に荷物を置いて押さえておいたはずなのだが、思い返せばその荷物は水を運ぶ樽だった気がする。
つまりはさっき持って行かれた荷物が押さえであって、それを無くした布は林の中を通り過ぎる風に乗せられてしまったという事だ。
僕の目の前を通る頃には既に手遅れだった。
ひらりひらりと、まるで蝶のように舞う布製の生き物が、あろうことか日差しの中に輝く糸に動きを止められる。
弦楽器の弦を弾くかのように、その細さに見合わない頑丈さで布を弾き返す蜘蛛の糸。
その勢いを殺さないと言わんばかりに、細かく震えている。
透明で煌めく糸が揺れ、糸そのものが太くなったかのような目の錯覚が起きる。そんな細かい振動が、糸の端の見えない所から、更に見えない奥へと伝わっていく音が聞こえる。
数瞬の間があっただろうか。
今まで気にしていた糸と同じようなものが、幾本か分からないほどの本数で伸びてきた。
まるで弓かボーガンの矢のような速さで、真っ直ぐ僕らを目掛けて飛んでくる。
咄嗟に横とも後ろとも取れる方向へ、飛び退くようにしてその糸を避けた。
木の幹や地面に当たると、その糸はどこかに引っ張られるかのようにピンと張られる。
「きゃっ!」
短く聞こえた猫のような鳴き声。
いや、そう思っただけで、実際は猫よりよっぽど頼りがいのある女の子の声だった。
何があったのか、慌てて聞こえてきた方に目を向ける。
その時思った。
僕はこの仕事を受けずに、全身全霊をかけて断るべきだったのではないだろうかと。
僕が見た先。そこには、細い糸に絡み取られた美少女が居た。
ワイヤーかピアノ線かと思うほどに丈夫な蜘蛛の糸が、アクアの体に巻き付いている。
困ったような顔をした少女が、身動きの取れないような形で雁字搦めにされているのだが、そこには一種の美があった。
毛の先ほどの糸が、女の子を縛り上げ、その絡まった糸と糸の間には、僅かに盛り上がった肌がある。
押し上げられたその肌は、元々色白のはずなのが色づいている。圧迫されているからだろうが、僅かに赤みを帯びて自己主張をしているのだ。
アクアもその糸を何とかして解こうともがくのだが、それが尚一層糸を食い込ませることになる。
その様がまた、僕の目には艶やかな動きに見えてしまう。
乙女の柔肌が、ケダモノのそれに蹂躙される様は、義憤を禁じ得ない。全く持って許せない。
決して良いものが見られたとは思っていない。多分。
助けなければならない。
だが、どうすれば良いかが分からない。
試しに近づいて、中空に伸びている糸に思い切り剣を叩き付けた。
剣が若干沈んだところで、それが見事に上へと跳ね上がる。
トランポリンを跳ぶかのように、僅かに押し下げられただけの糸が、そのまま反動を返しながら元に戻ろうとする。その動きには、剣も跳びあがるしかなかったわけだ。
しかも、剣で斬り付けた衝撃は存外に強かったのか、切り付けた糸に引っ張られる形でアクアが体勢を崩す。
駄目だ、剣ではこの糸は切れない。
「アクア、今助けるから」
「ンッ、大丈夫」
よほど糸が食い込むんで痛いのだろう。
潤んだ目で僕を見る彼女は、艶めかしいながらも辛そうな様子だ。妙な色気があるが、一刻も早く助けなければならない。
「ハヤテ、危ないっ」
アクアの声に、咄嗟に反応できたのは僥倖だった。
後ろの方から、露骨に僕を狙った糸が飛んできていた。
危うく僕も糸で縛られたボンレスハムになる所だった。僕やアクアを縛っても、肉が少なくて細身な分、美味しくもなさそうだと思うが、どうやら敵はそう思ってはくれないらしい。
僅かな、ピアノの高音を叩く様な音と共に、糸が幾筋も光る。
この糸はどうやら若干の粘着性もあるようだ。
捕まると、厄介なことになりそうな予感がする。
どれほどの糸を避け、何本の糸を焼いただろうか。
アクアを縛っていた束縛は、糸をコントロールした【ファイア】で焼き切っておいた。
敵も、埒があかないと考えたのではないだろうか。
何処か呑気そうにも思えるほどゆっくりと、しかし堂々と敵が木の上に姿を現した。
大きく揺れる枝葉の繁りに、林が驚いた気さえした。
姿を現したのは、毛むくじゃらで8本足の魔獣。
体中が、刺繍針のように堅そうな毛で覆われ、体躯は3mを越えるだろう。
木の上に居るのが不思議なほどの大きさで、こちらを睨んでいる。
睨み付けてくる目は赤黒く、4つが2列で並んで居る。
合計8個の赤目で見つめる顔には、鋭い鎌のような鋏角を持った口がある。
しきりに閉じたり開いたりしながら、こちらを威嚇してくる様は、旺盛な食欲を表すのではないだろうか。どう見ても満腹のようには見えないのは、よだれを垂らしているからだ。
耳の奥が痛くなるような、不気味な高周波を出しながら、空中を歩いてくる。
恐らくは、そこに自らの糸があるのだろう。
だとするなら、僕らの頭の上には既に糸が張り巡らせてあるという事だ。
鋭い突撃槍を思わせる8本の足を、それぞれバラバラと器用に動かし、じっくりと僕らとの間合いを詰めてくる。
咄嗟に【鑑定】したら、知力が上昇したお蔭かより細かい所まで分かるようになっていた。
【オオモリツチグモ(Silva Theraphosidae)】
分類:蜘蛛類
レベル:44
特性:単独行動型、造網性、肉食性、水属性魔法、土属性魔法
説明:口内から毒性のある唾液を分泌する。自分の縄張りに糸を張り巡らせ、その糸で獲物を感知し捕獲する。獲物に噛みつくことで麻痺させることが多い。肉食性で、特に蜂を好むことが知られている。大きなものでは犬や人を獲物とすることもある。難燃性の糸を使うことで火に対しては耐性を持つものの、糸自身は魔法による火に弱い性質がある。森や林などの木の多い場所に生息する為、森蜘蛛の俗称で呼ばれる。
結果に、僕は思わず冷や汗をかく。
その巨体と合わせて、恐ろしさを実感させるには十分だ。
かなり危険な相手であることは、人を食べることからも想像できるだろう。普通の人間では、良い餌として為す術もない。
何せ、糸が刃物で斬れないのだから、魔法を覚えていないと対処しづらい。
だが、この世界では魔法は早々簡単に覚えられるものでも無い。
だからと言って、今更逃げられるわけもない。
周りにはいつの間にか糸が張ってある。いや、避けまわるうちにそうなってしまった。下手に引っかかって転びでもしたら、それこそ格好の餌食となるだろう。
班長が、警告していた意味が分かった。
そんな僕の葛藤を知ってか知らずか。
ガサリと、大きな蜘蛛が動いた。
その目には凶暴な意思が映り、口元には唾液が一筋の糸を引いていた。




