042話 気合の一閃
日もまだ昇らない夜明け前。
歴史と、商人の活気を感じる町サラス。
その町を南北に通った大通りに面する1軒の宿屋。
この宿屋は酒場を併設していて、食堂も営んでいる。
営んでいるのは夫婦で、そのどちらもが料理上手ときている。
その宿屋の部屋を借りているのだが、今日は約束の時間よりも大分前に目が覚めてしまった。
朝ごはんを食べるゆとりは十分にある。
昨日、騎士団の選考が終わった時には既に夕方になっていた。
やはり30組も試合をしていれば、それだけの時間が掛かると言う事だろう。
団長に報告を終えた後は、また夜明け前に待ち合わせる約束をして相棒と別れた。
明日は遅れるなよ、という一言と共に。
言い返せないのがつらい所だ。
まだ淡い月さえ空にあるのが、開けた窓から見えている。
薄幸を思わせる、仄かに輪郭の霞んだ月。
空は黒から青に変わっていく途中の空。
僕は暗い中でも僅かな外の明かりを頼りに準備を整える。
収納鞄に、ナイフ。そして小剣。
そろそろ、もっと良い武器を買っても良いのではないかとも思えるが、流石にまだ十分に使えるものを捨てるわけにもいかない。
またそのうち、買い物に行こうかと考える。
まだ本来の朝食時間には早いが、美味しい食事を食べておくべきだと部屋を出る。
廊下の灯りは僅かだが、寝起きで暗さになれた眼には十分な明るさ。
1階に降りてカウンターを覗いたが、流石にこの時間は誰も居ないらしい。
代わりに、呼べば誰かが来ると言う事なのだろうか。
横を抜け、食堂に入る。
酒場を兼用している食堂は、この時間は実に独特だ。
一晩飲み続けたらしい飲んだくれが、椅子と机を奇妙な形でベッド代わりにして眠りこけている。
頭だけが椅子に乗り、足や腰はテーブルの上という壊れたマリオネットのような姿勢で、大きないびきをかいている。
「今日はやけに早いね」
「お早うございます」
酒場の店主兼食堂のマスター。
深みのある年を重ねたらしいナイスミドルのおじさまが声を掛けてくれた。
本当に、何時寝ているのか不思議になるほどの働き者だ。
「まだ朝食には早いけど、食事かい?」
「ええ、お願いできますか」
「はは、丁度今、朝食に出すスープが出来た所だ。朝食としておまけしておくよ」
「ありがとうございます」
追加料金を払おうと財布を出したところで、サービスと言われてしまった。
やはり親切な大将だ。
どうやら今日のスープは野菜のスープらしい。
香り高いフォンに、恐らくキャベツであろう葉物野菜とジャガイモが煮込まれているのが見える。
それをたっぷりと盛り付けたお椀と、焼き立てのパンの入った籠を目の前に置いてもらう。
「スープとパンだけだが、食べてくれ。御代りはもちろんしていいから」
「いただきます」
パンを手に取り、少しちぎってスープに浸す。
澄んだスープが、パンを湿らせていき、美味しいハーモニーを醸し出す。
そのまま口に入れれば、じっくりと煮込まれた野菜のうま味が、ギュッと凝縮されて舌の上で踊る。
いつ食べても、ここの料理は最高だ。
「今日はまたギルドで仕事探しかい? 夜通し仕事をしたそうじゃないか」
「はは、今日は騎士団の詰所で選考があるんです。連れと待ち合わせているので、早めにご飯をと思って」
「ほう、騎士になるのかい」
「いえいえ、力試しという奴です」
何度目かの誤解を受けつつ、答える。
やはり誰が聞いたとしても、騎士団の選考を受けるのに騎士になる気が無いのは妙なことだ。
怪しまれてしまうだろうか。
「まあ怪我の無いようにだけ気を付けなさい」
「ありがとうございます」
「待ち合わせと言っていたが、時間は大丈夫かい?」
「え? まずい」
外を見れば、食事をゆっくりとっている間に明るんできていた。
夜明け前と言う約束。
流石に2日続けて遅刻するわけにもいかない。
慌ててスープを掻き込み、パンを2つほど掴んで飛び出した。
宿屋の大将に見送られつつ、大通りに出る。
今日は走って行くほどでも無いが、それでも若干早足になるのは仕方が無い。
少し大股で、出来るだけ急いで歩く。まるで競歩のように。
詰所に出向けば、そこには既に見慣れた金髪の貴族様が居た。
スラリと伸びた足に、引き締まった体躯。
おまけに綺麗でさらりとなびく金髪に、整った目鼻立ちとくれば、遠目からでもはっきりとわかる。
これで片思いと言うのだから、世の中と言うのは分からない。
まあ、モテる男は全男性と僕の敵であるわけだから、つまりはこの男とも味方で居られるわけだ。共通の敵を持つ者同士は味方だ。
「ごめんアント、待たせたかな」
「いや、私も今来た所だ」
何だか逢引きの待ち合わせと勘違いしてしまいそうな挨拶だが、これは単なる仕事の待ち合わせだ。
朝には強いであろう相棒が、今来た所と言うなら問題は無いだろう。
今日はいよいよ最終選考だ。
団長の勘とやらが当たるとするなら、きっと今日こそ何かあるに違いない。
「それじゃあアント、今日もお互い頑張るとしますか」
「はっはっは、もちろんだとも。私に任せておけ」
お互いと言っているのに、自分に任せろと言うのは相変わらずだ。
これを責任感が強いと褒めるべきなのだろうか。
或いはなんでも自分一人でやろうとするなと怒るべきなのか。
いや、褒めるべきところだろう。
貴族として、責任感を持って仕事をこなそうとするのは好ましいことだ。
詰所の中に入り、受付のお姉さんには今日も挨拶を忘れないでおく。そんなとても重要な儀式を済ませた後は、昨日の会場に足を向ける。
お姉さんに頑張ってと言われてしまった以上、頑張らなくてはならない。
例え社交辞令でも女性の期待を裏切ってしまうのは男としてのプライドが許さない。
ただの見栄とも言うが。
誰だって、綺麗なお姉さんには格好付けたいと思うはずだと自分を慰める。
プレートの掛かった部屋に入れば、練武場は異様な雰囲気に包まれていた。
今日は何やらものものしい雰囲気がする。
特に部屋に入った真正面から、ただならぬ威圧感が襲ってくる。
まるで肉食獣の檻に放り込まれた気分だ。
その雰囲気の出どころは、部屋の奥の壁の方に居並ぶ面々。
猛々しい佇まいと、歴戦を潜り抜けて来たであろう風貌が見せる戦場の色。
その身にまとっているのは、綺麗にデザインが統一された全身鎧のプレートメイル。
淡く白銀色に輝くそれは、これから行われることをまざまざと思い出させてくれる。
腰にはそれぞれ剣を携えている。長さや大きさはまちまちながら、それが逆に実戦を意識したものだと語りかけてくる。
これが精鋭と呼ばれていた騎士団なのかと肌で感じる。
そう、騎士団員がずらりと整列していたのだ。
「アント、なんだかすごいね」
「ああ、こう只ならぬものを感じる」
「あの人たちと戦うのかな」
「多分そうだろう。ハヤテ、気を付けろ。皆強そうだぞ」
見れば分かる。
背筋を伸ばし、手を後ろに組んでいるが、足は肩幅ほどに開いた見事な整列。
誰か1人を真正面から見れば、まるでその人だけに見えるほどなのに、その後ろには数人がずらりと並んで居る。
それだけでも、かなり規律が整った集団であることが伺える。
流石にその姿に圧倒されているのだろう。
先に来ていた選考受験者も、出来るだけ騎士の整列から離れるようにしている。
気持ちはよく分かる。
あれに近づこうにも、一斉に睨まれでもしたら動けなくなる自信がある。
しかもその騎士達の中には、見慣れた者も何人か居た。
ソバカス騎士のエイザックに、無口なへの字口の角刈り兄さん。
垂れ目の騎士に、昨日仕切っていたおっさんも居た。
僕が知っている限り、来ていない騎士となると団長ぐらいだ。
「2人とも、お、は、よ、う」
ゆっくりと僕らに近づき、声を掛けてきたお姉さん。
昨日と同じ黒づくめだが、その声で昨日と同じ人だと察する。
「え、ああ、お早うございます」
「うむ、昨日ぶりだな」
挨拶を返す僕とアント。
怪しい人だが、未だに正体が掴めない。
謎の女性。魅惑的な響きだが、下手に接触をすると内偵がばれる危険もある。
「昨日はお互い大変だったわね。今日も頑張りましょう」
「おお、お互いに」
無難な挨拶を選び、そのまま贈る言葉に、目を細めた黒づくめの女性。
目だけで笑った彼女は、ひらひらと手のひらを振りながら、ゆっくりと離れて行った。
何を考えているのか、さっぱり読めない。
目だけで相手の考えを読めというのがそもそも難しいわけではあるのだが。
ふと周りがざわつき始めた。
よく分からないが、何かあったらしい。
と、思って騎士連中の方を見ると、どうやら団長が部屋に入ってきたらしい。
逞しい連中の中でも、ひと際目立つ大柄な体と、燃える様にも見える赤い髪。
目つきはいつもの様子とは違って刺すように鋭く、顔つきはいつも以上にしまっていて厳めしい。
「全員、集まれ。これから最終選考の説明を行う」
大きな和太鼓を打ち鳴らしたように響く団長の声。
腹の後ろまで響く猛獣の唸り声。
この檻の中で、ひと際迫力のある様は、まさに百獣の王を髣髴とさせる。
集まったのは30人ちょうど。
もちろん僕とアントを含めての数で、昨日の合格者全員というわけだ。
ほとんどの人間が緊張の面持ちで、団長の言葉を一言一句もらさないように気を張っているのが伝わってくる。
表情が変わらないのは僕とアントぐらいで、表情が変わったかどうか分からないのが黒づくめのお姉さんだ。
「これから一人づつ、呼ばれた順に団員と戦ってもらう。武器はあっちに用意したものを好きに選んで使え」
そういって赤毛の大男が、軽く顎をしゃくって示した先には木箱のようなものがあった。
大きめの段ボールぐらいはありそうなその中に、色々な武器が入っているのが分かる。
ぱっと見た限りでは、ナイフと剣もありそうな様子だった。
これなら大丈夫そうだ。
「昨日も聞いただろうが、今日は魔法を使うな。純粋な剣技を俺たちに見せてみろ」
ちらっと見た団長の目は、間違いなく僕を見ていた。
いや、僕だけでは無い。
全体をゆっくりと見回すようにして、そのうちの何人かと目を合わせている。
恐らく、今回の選考会で団長が気にしている輩と言う事だろう。
要チェックだ。
団長が、1人の名前を読み上げた。
「アルウトル、前に出ろ。他の者は壁際に寄れ」
そう言われたので、僕とアントは連れだって壁際に寄る。
1人残ったのは魚人のお兄さんだった。
いの一番のトップバッター。
緊張しているのは尋常でない様子からも分かる。
それはそうだろう。
あのお兄さんは、騎士になるのが夢だと言っていた。
この模擬戦一つの結果次第で、その夢が叶うかどうかの所に居るのだ。
緊張するなと言う方が無理だろう。
対する相手の騎士は、かなりの身長が高い男だ。
赤毛は団長と同じようなものだが、何処かで見たことがある騎士だ。
確か、エイザックが色ボケでお腹を壊したときに、南門に居た人だ。
見た所まだ若い様子だが、これは団長なりに実力を揃えて試験したいという思惑があるのだろうか。
だとしたら、僕やアントの相手はきっと若い人を当ててくるだろうと予想は付く。
魚人の兄さん。確か名前はアルウトルさん。
そう言えば名前を知ったのはこれが初めてだ。
もっと早く聞いておけばよかったが、仕方ない。
僕が応援するのはもちろん魚人のお兄さん。
またあのチャーミングな魚顔の笑顔が見てみたい。
部屋の中央まで進み出たお兄さんと、若い騎士。
魚人さんの得物はやはり大きめの剣。
きっとパワーファイトを繰り広げるのだろうが、どんな戦い方をするのか見ものではある。
「よし、はじめ」
団長の掛け声と共に、雄たけびを上げながら突進する魚人。
鱗を震わせながら、緊張をそのままぶつける様な馬鹿正直な攻撃。
そのまま大きく剣を振りかぶって、打ち下ろした。
大きな打撃音と共に、しっかりと受け止めた若い騎士。
なるほど、彼も魚人の兄さんと同じく、パワーファイターと言う事だろう。
どちらも力負けせず、拮抗した力を見せている。
あれは当たると痛そうだ。
散々打ち合う2人の攻防。
段々と緊張が解けてきたのだろうか。魚人のアルウトルお兄さんも中々魅せる動きをするようになってきた。
破壊力が凄まじいであろう豪剣を、幾度となく交わしあう2人。
そのまま何合か打ち合った頃合いで、騎士が動きのリズムを変えた。
今まで受けに回っていた物を、一気に攻勢に出るかのような動き。
激しい打ち合いの主導権が、魚人から騎士に遷移する。
まるで汗が、離れている僕らにも掛かりそうなほどに熱い攻防。
一気に勝負を決めるつもりだろう一撃を放った魚人の兄さん。
それを、見切ったかのように躱した騎士が、手にした剣をそのまま魚人の肩口に向けて振り下ろした。
これは当たる。避け切れない。
僕がそう思った矢先、肩口の上で見事に止まる剣の動き。
ピタリと見事な寸止めを決められたらしい。
「そこまでだ。勝負あり」
「……ありがとうございました」
まだまだ納得のいかないと言った表情で魚人の兄さんが、相手と、そして周りの騎士に礼をした。
こういう礼儀正しさも、見習うべきなのかもしれない。
特に、本気で騎士になろうとするなら。
「よし、次」
途切れることなく、また名前が呼ばれる。
次々と受験生が負けて行く中で、健闘と言えたのはアントだろうか。
相棒は、不慣れな木剣ではあるものの剣技の冴えは若い騎士を圧倒した。
結局は負けて悔しそうにしていたが、周りの人たちも称賛の声を上げていた。
伊達に団長から剣を学んではいないと言う事だろう。
まだ僕は呼ばれないと焦れてきた頃、突然僕の名前がコールされた。
「ハヤテ=ヤマナシ前に出ろ」
厳めしい団長殿にそう言われたので、僕は木剣と念のために木ナイフを手に持って部屋の中央部に歩み寄った。
一体どんな人間が相手になるのだろうか。
適当な所で負けてしまえば良いのだろうか。
だが、あからさまに手を抜けば怪しまれることは間違いない。
何せ衆人環視の只中なのだから、手を抜く方が難しいかもしれない。
それにここで手を抜くと言うのは、真剣に臨んでいる人間にとっては失礼になるのではないだろうか。
「がはは、お前の相手は俺だ」
「え?」
僕は本当に馬鹿だ。
何が手加減だ。
僕の相手は赤毛の偉丈夫。騎士団でも一番強いであろうアラン団長殿だ。
何でそうなるのか。
普通にエイザックとかとやらせてくれれば、角も立たずに穏便に済んでいたものを、どうして率先して出てくるのか。
物凄く楽しげな笑みを浮かべている大男。
僕はそれを見て思わず自分が生贄の羊になった気がした。
これだと、勝っても負けても何かと問題が起きそうだ。
負けたら負けたで、報酬を値切る口実ぐらいには使ってきそうだし、勝ったら勝ったで団長に対して面目を潰すことになる。
ただでさえ騎士団の一部には目の前の男のせいで、金貨1枚分の恨みを買っているのだ。
それにおまけを上乗せするようなことは避けるべきだ。
「本気で来いよ、ハヤテ」
「よろしくおねがいします」
代わりの審判だろう、昨日のおっさん騎士が号令をかける。
のんびりとした口調で、はじめ……と、その声と同時に動いた大男。
気が付いた時には、僕の後ろから圧倒的な圧力を感じた。
……速い。
幾らなんでも動きが早すぎる。
咄嗟に足を屈めて、身体をしゃがみ込ませる。
凶暴な勢いで僕の頭の上を何かとてつもなく重たいものが通り過ぎて行ったようだ。
こんなのに当たったら、下手すれば死んでしまう。
動きが目で追えなかった。
どれだけ高レベルだと言うのか。
転がるようにその場から這い逃げると、人の背丈ほどは有りそうな木剣を片手で持ち、刃先の方で軽く肩を叩く団長が待っていた。
そのにやけた顔は、前にも見たことがある顔だ。
何を考えているのか。
まるで孫の手のように肩たたきに使っていた木剣を、軽々と何の気なしに振り上げた団長。
それも片手で、棒切れで遊ぶように。
僕が動けたのは偶然にも近かった。
少なくも戦いを潜り抜けている経験ゆえか、その動きに何かを感じたとしか言えない。
手に持った木剣で、頭を庇うかのように構えたその手に、とてつもない衝撃が走った。
ダンプカーの正面衝突でも受けたような尋常では無いその衝撃に、僕は手では支えきれずに、自分の木剣で自分の頭を打ってしまった。
勢いを殺しきれないどころでは無い。
僕が構えた木剣ごと叩き斬りそうな勢いだ。
くらりとよろける身体を、無理矢理に踏ん張って木剣を握り直す。
勝てる勝てないの話以前に、生きるか死ぬかの世界の話に思えてきた。
「おら、どうした。受けているだけじゃなく掛かってこい」
団長の無茶な要求が飛んでくる。
こんな化け物じみた相手に向かっていくなど、正気の沙汰では無い。
これならまだ大蛇の方が可愛げがあった。
僕は思わず声を荒げながら、剣を振り回していた。
型だの何だのと言った高尚な物は最初から知らない。
破れかぶれになるのなら、いっそ振り回す。
そんな無茶苦茶な剣の動きにも、団長は涼しい顔をしていた。
実に腹立たしい。悔しくも思うが、実力の差は明明白白だ。
「んだこら、ヤル気あるのか。こんな無茶な振りで当たるわけないだろう。もっと相手を良く見ろ」
「ぜえ、はあ、くっそ~」
「気合が空回りしているんだよ。無駄な振りは隙が増えるだけだ馬鹿野郎」
カンと木と木のぶつかる音に、僕の手が肩ごと持って行かれそうになった。
赤毛の大男が、僕の剣を、自分の大剣で払ったのだ。
それだけで体が泳いでしまう。
剣が言う事を聞いてくれない。
「はあ、はあ」
「剣を振るのなら脇を締めろ。身体を真正面に向ければ良い的だ。常に体は相手に対して斜に構えろ」
「はい」
思わず返事をしてしまった。
恥ずかしい。
しかもその声に、更に気を良くした団長が動きを激しく見せだした。
「おらおら、守りを忘れるんじゃねえよ。死にてえのかお前は」
「そん、そんなわけないでしょう。ぜえ、はあ」
「だったら動け。足を止めるな。これが実戦なら、足を止めた時点でお前は丸焼けだぞ」
「はい」
既に息が上がってきた。
朝ごはんをしっかり食べたのがいけなかった。
わき腹が酷く痛んでくる。
こんなことになるのなら、食べずに来た方がまだましだった。
鉛のように重くなってきた体を、言われた通り無理矢理動かす。
確かにじっとしていれば、魔法があるこの世界なら丸焼けにされてもおかしくない。
動く的に魔法が当てづらいのは、僕も分かる。何せ猿との死闘で嫌と言うほど体で覚えたことだ。
「そうだ、その動きを忘れるな。相手を見る時は目を見ろ。何をしてくるかなんて見てからじゃ遅え。動く前に目を見て察しろ」
「そんな余裕ありません」
「無ければ作れ。ほらまた脇が開いたぞ」
「んげふ」
容赦なく豪剣をわき腹に打ち込んできた。
肋骨の何本かが堪らず恐怖の悲鳴を上げた。
軋む骨と骨が、打たれた打撲の痛みとミックスで追い打ちを掛けてくる。
思わず後ろに跳び退いた。
が、そこには何故か大男の体があった。
駄目だ、全く動きが見えない。
蜂だとか猿だとか蟹だとか、そんなちゃちな物じゃない。もっと恐ろしいものの片鱗を感じてしまう。
「自分の剣が届かん間合いに逃げてどうする。間合いの差の不利を自分で作るだけだろうが」
「はい」
そんなこと考える余裕なんてない。
後ろから声を掛けられ、そのまま恐らく蹴りであろう衝撃を受ける。
肺から一気に空気が抜けるような感触と共に、背中からの力に吹き飛ばされる。
気が付けば床を紙くずのように転がっていた。
情け容赦のない攻撃に、為す術もないと思いながらも、立ち上がったのは何故だったのか。
「ゲホっゴホ」
「ほう、まだ立ってくるか。良い根性だ。さあ来い」
最早碌に何も考えられない真っ白な心で、そこにあったのはただ剣を振る事。
出来るだけ早く、もっと早くとただそう願って横一閃に木剣を払う。
ガンと鈍く重たい音がして、気づけば僕の木剣は半分から先が無くなっていた。
どうやら剣が折れたらしい。
ささくれ立った折れ口が、ただの木剣を危険な凶器に変えたようにも見える。
「そこまで」
聞こえた声にはっと我に帰ると、周りから大きな歓声が上がっていた。
今まで整然と並んで居た騎士達も、皆口々に僕を称賛してくれる。
思わずほろりと涙がこぼれそうになる。
「がはは、良い気合だったな」
「え? え?」
「俺が稽古を付けてやるのは久しぶりだからな。まあ勉強になっただろう。わっはっは」
「ちょっと、何するんですか」
僕の頭を強引にもみくちゃにする団長。
あまり手入れもしていないが、それでも髪型が団長特製パーマネントになるのだけは嫌だ。
しかも乱暴に手でかき回すものだから、かなり痛い。
思わず抗議の声と不満の顔を大男にぶつけた。
「まだ審査は終わってないが、お前が騎士団に入団したら好きなだけ鍛えてやるぞ。喜べ。がっはっは」
「それは嬉しくないですよ」
何かと思えば、団長の稽古だったわけか。
いきなり何も言わずに襲い掛かってくるから、酷く恐ろしい思いをしてしまった。
思わず死んでしまうかと思った。
この底意地の悪さは、どっかの支部長と良い勝負だ。
壁際に戻ると、アントが興奮して話しかけてきた。
鼻息も荒く、顔も僅かに紅顔になっている。
「おいハヤテ、お前も中々良い動きを見せていたな」
「そう、がむしゃらに振っていただけだけど」
「ああ、途中はそうだったが、最後の一撃は見事だった。うむ、流石私の親友だ」
「ありがと」
いつの間にか、僕は親友に格上げされていたらしい。
相棒は確かに良い奴だから、そう言ってもらえるのは嬉しい。
いっそそのままパーティーでも組んでもらえれば助かるが、貴族様ともなると忙しいだろうし、それも難しいかもしれない。
「何時の間にそんな風に動けるようになったのだ。つい先日ダンジョンに行った時にはそんな動きはしていなかっただろう」
「何故だかなんて僕にも分からないけど、多分アクアと一緒に行った仕事のお蔭かな」
「何? レベルが上がったのはアクアだけでは無かったと言うのか」
「うん、僕もレベルが上がって20になった」
伊達に猿や蟹と夜通し戦ったわけでは無い。
悪戦苦闘の果てに、得たものも大きかった。
あの戦いは、甲羅以上にレベルアップや魔法を得たことが大きかった。
あれで【毒耐性】や【解毒】を取得して居なければ、昨日もどうなっていたか分からない。
「ハヤテまでそんなにレベルが上がっているのか。ずるい、ずるいぞ。ええい、次は絶対に私も同行する。いいな」
「はいはい」
「約束だぞ。男と男の誓いだからな」
「だから分かったってば」
これだけしつこいのは、やはりレベルが強さと直結している世界だからだろう。
強さのバロメータが数値化されていると言うのは、やはり大きい。
強くありたいと願う男前の貴族様が、レベルに固執するのも分かる気がする。
「だがハヤテ、動きはともかく剣の腕は前と変わっていなかったな」
「そりゃ誰かに習ったわけでもないからね」
「今までは全部我流か?」
「そう」
我流も何も、この世界に来るまでには剣なんて習う機会も無かった。
全てが見よう見まねのチャンバラも良い所だ。
ステータスのお蔭で何とか今までは倒せてきただけだろう。
「そうか、お前は今、団長殿に稽古をしてもらったのが最初の稽古というわけだな」
「え、まあそうみたい」
「ははは、そうなると我々は兄弟弟子と言うことになるではないか」
「ん、そうと言えなくもないかな」
僅かの時間の稽古で弟子と言えるのなら、同じ人間から稽古を受けた者同士。
確かに兄弟弟子と言えなくもないだろうが、無茶がある気もする。
いや、無茶は相棒の専売特許だったか。
「わはは、ならばハヤテ、これからは私の事を兄弟子と敬え」
「何でそうなるんだよ」
「照れるな、弟よ」
「はは、やめろ、気色の悪い」
笑いながら肩を組んでくる伯爵。
こうやって同性の友達とじゃれるのも、久しぶりかもしれないと、僕もついついこのノリに乗ってしまう。思わず笑ってしまった。
まあどうせ試験なんて受からなくても良いわけだから、僕らは気楽な物だ。
そんな友情の深まった僕らを尻目に、例の黒づくめの人が呼ばれた。
「アンノウン、前に出ろ」
その名前に思わず僕は反応してしまった。
名前が如何にも怪しい。
名無しという名前の人間が、この世界で当たり前なのならともかく、そうでないならあからさまな偽名だ。
団長も、面接やらでこの名前に気付かなかったのだろうか。
いや、気づいていたからこそ僕らが潜入させられたのか。
やはりこの人が本命なのだろうか。
「お手柔らかにお願いします」
凛とした女性の声。
怪しいと思って聞いてみると、どこか妖艶にも思えるから不思議な物だ。
ここは見逃せないだろう。
「アント、例の人だ」
「ん? おお、本当だな」
一体どんな戦いを見せるのか。
或いは何の目的でここに居るのか。
一挙手一投足を見逃すまいと気合を入れる。
彼女が手にした武器は、やはりと言うべきだろう。剣だった。
それも諸刃の剣をわざわざ選んでいる所を見ると、その腕前には自信がうかがえる。
顔色は伺えない物の、立ち居振る舞いは自然体に思える。
対する騎士は、団長と審判を交代したおっさん騎士。
武器は剣だが、こちらは長剣のようだ。
お互いに構える。
そして、団長の号令が部屋に響いた。
――はじめっ




