003話 森
眠りは水の中に例えられることがある。
深い眠りの水底から、一息ごとにゆっくりと目覚めの水面に向かって浮かんでいく。ゆっくりと、しかし確実に浮上を続ける。
だんだんと瞼に光を感じるようになっていき、横になった身体が自然と起き上がろうとする。
一層光を強く感じるようになり、その眩しさに微睡が急速に覚めていく。
僕は恐る恐る目を開けた。そしてそこには、眩しい光を受ける緑の輝きがあった。
いつの間にか眠っていたらしいと気づく。
眩しい光は、木の枝葉の間から漏れる木漏れ日だった。
首筋や耳元で僅かに何かが刺すようなチクチクとした感触を感じ、自分が草の上に寝ているというのに気付いた。
上を見れば漏れる太陽の光と共に、ざわめく広葉樹の葉の重なりが見えた。
どこか幻想的で綺麗だと思える光景は、まるで夢の中に居るような気持ちにさせる。
耳には木々の葉が擦れる音が流れてくる。
頬に風を感じ、それに合わせるように聞こえる音は、僕にはとても大きな音に思える。どこか懐かしい香りに、小さな頃を思い出す。虫の王様を探して、虫取り網と虫かごとを抱えて森の中を駆け巡った思い出だ。
そう、森だ。ここは森だ。
自分が森の中に居ることを半ば確信しながら、二度ほど瞬きをする。
段々と頭がスッキリとしてきた気がして、上半身だけを起こしてみると、目の前にはとても深い森が見えた。いや、目の前だけでは無いようだ。
首を捻るように左右を見渡せば、前を見つめた時と同じような光景が見える。どうやら僕は、かなり深い森の中に居るらしい。
ここは何処だろう?
さっきまで、店の中に居たはずだと思い返してみる。
どう見まわしても、ここが駅前の店の中には見えない。
そういえば、何かしらに落ちていくような感覚があったと思い出す。
もしかしたら、ここは店の地下なのだろうか。
いや、それも無いだろう。
上から降り注ぐ日は間違いなく太陽の光だ。地下に落ちたのに太陽が照っていれば、地球の反対側まで突き抜けたことになる。
そんなことはあり得ない。
「とりあえず、ここでじっとしていても仕方が無いな」
誰に言うでも無く、呟いて立ち上がる。若干汗ばんでいたのかもしれない。
僕の背中には小さな葉っぱや草が張り付いている。
立ち上がる時に動いたからか、パラパラと地面落ちる。中々頑固な奴もあるみたいだ。軽く肩やお尻に付いたそれらを払う。
幸いにも、鞄は無事だったらしい。手に持って、鞄に付いた葉っぱも軽く手の甲で払うようにすれば落ちていく。
どの方向に進めば良いのかも分からないが、なんとなく右手の方に進んでみることにしよう。枝葉の茂りが若干濃い気がする。
たぶん、こっちが南だろう。南に行けば、ここが何処かの手がかりぐらいは掴めるかもしれないし、選択肢も増えるだろう。
植物には水と光が必要だ。
逆に言えば、森があるということはその両方があるということだろう。
植物が群生しやすいのは当然光が良く当たり水気の多い所。森を南に進めば、日の当たる所を常に進むことになるし、水辺の傍を歩くことにもなる。
そのうち陽だまりか水場が見つかれば目印になる。
しばらく歩いていると、サラサラと何かが流れる音が聞こえてきた。
やった。運が良い。きっと水の流れる音だ。
肌に感じる湿り気は、間違いなく近くに水があることを教えてくれている。
緑の香りが強くなり、気温も心なしか下がった気がする。
耳を澄ませながら音のする方へ歩いて行く。
未だにここが何処か分かっていない。不気味さを感じないわけじゃない。
「あった、川だ」
思わずほっとしてしまう。
知らず知らずに緊張していた肩の力が、フッと軽くなった気がする。
とりあえず訳の分からない場所で何もできずに、のたれ死ぬことは無さそうだ。
川に近づいて手を入れてみる。
とても冷たい。まるで冷凍庫の氷を触ったときのように感じる。
きっとそれだけ体が火照っていたからなのだろう。
水は熱を奪う。
川の温度は同じでも、奪われた熱が多いほど冷たく感じるものらしい。
鞄をそっと体の横に置く。
思い切って両手を入れ、手でお椀のような形を作って水をすくってみる。
腕を伝って幾分か零れていくのを感じるが、気にせずに口元まで手勺を運ぶ。
そのまま手首のあたりに口を付け、上に傾けて水を飲む。
美味しい。
甘味さえ感じるような潤いが喉を下っていく。
身体に力があふれる様な錯覚さえ生まれる。体の隅々まで染み渡る。
落ち着いてみれば、心なしか薄暗くなってきていることに気づく。
まだ十分に明るいものの、日が落ちて来ているのだろう。
これからどうしようか。
いきなり自然の森の中というのはどう考えてもおかしい。不自然だ。
何が起きているにしろ、異常事態の可能性は高い。
異常事態には、落ち着きが肝心だ。
川も見つかった。ここが何処かを知る手がかりなのは間違いない。
ならば焦る必要はない。暮れてきた日を考えれば、まずは夜をこの森で過ごす。そんな覚悟をすべきだろう。友人や家族が捜しているかもしれない。目印になる所から下手に動かないほうが良いかもしれない。
ここで一晩を明かそう。
人は水が無くては生きてはいけない。
それはつまり、水があれば生きていける逞しさが、人にはあるということなのだろう。一つの理として。