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チャップリン物語 ——貧困と尊厳  作者: はまゆう


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第五章 世界一有名な亡命者 ——赤狩りと追放

プロローグ 大西洋上の通知


1952年9月5日。大西洋上。


彼は朝のコーヒーを手に、船室の窓の外を見ていた。灰色の海。波立つ水面。遠く、何も見えない水平線。ニューヨークを出てから三日目。ロンドンまではまだ五日。久しぶりの故郷。四十年以上ぶりのイギリス。妻ウーナと子供たちを連れての旅だった。『ライムライト』のロンドン・プレミア。年老いた喜劇役者の物語。自分自身の姿を重ねずにはいられなかった作品。


その映画の公開を、彼は故郷で祝いたかった。母の街で。救貧院の街で。帽子を拾い続けたあの霧の中で。


船室のドアが開いた。ウーナが新聞を手に入れてきたのだ。船上で発行される簡素な新聞。前夜のラジオニュースを活字にしただけのもの。彼は何気なくそれを受け取り、広げた。


その瞬間、世界が止まった。


「アメリカ司法省、チャップリンの再入国許可を取り消す」


彼はその一文を何度も読んだ。何度も。何度も。活字が踊っている。いや、彼の手が震えている。どちらにしても、文字が読めない。移民局長官の声明が続く。


「チャールズ・チャップリンの政治的・道徳的問題について、再審査が必要である。彼がアメリカに再入国することは、国益に反すると判断される」


彼は新聞を膝の上に置いた。廊下から子供たちの笑い声が聞こえる。ウーナが誰かと話している声。全てが遠くなった。まるでスクリーンの中の自分の声のように。遠くから聞こえる。どこか他人事のように。


彼はゆっくり立ち上がり、鏡の前に立った。


そこに映っていたのは、六十三歳の男。若い頃のトレードマークだったあの小さな口髭はもうない。今は整えられた普通の口髭。放浪者の衣装もない。しわ。白髪。老いた映画監督の身体。


彼は鏡の中の自分に問いかけた。


「追放されたのか」


鏡の男は答えない。船は静かに揺れている。彼はその揺れに身を任せた。まるで放浪者が転んだ後のように。まるでいつものように。


「そうか」


彼は呟いた。


その言葉には、驚きと、諦めと、そしてどこか——ほっとしたような——感情が混ざっていた。


なぜなら、この瞬間は突然やってきたのではない。ずっと前から。『モダン・タイムス』の頃から。『独裁者』の頃から。あるいはもっと昔。ロンドンの貧民街からこの国に来たあの日から。ずっと予感していたから。


---


第一楽章 アメリカという夢と現実


1910年、ニューヨーク港


彼は覚えている。1910年。フレッド・カルノー一座の一員として、初めてアメリカの地を踏んだ日のことを。まだ無名。金もない。英国訛りの強い痩せた青年。ニューヨークの港から見た景色は、彼の想像を超えていた。


高層ビル。電灯の洪水。馬車ではなく自動車が走っている。人の多さ。速さ。全てがロンドンとは異なっていた。ロンドンには「歴史」があった。石造りの建物。古い街路。そして何より、生まれた瞬間に決まる階級。救貧院の子供は生涯救貧院の子供。下層階級に上昇の道はない。


だが、ニューヨークには「速度」があった。未来へ向かう国の匂い。可能性の感覚。


彼は後年、自伝『喜劇王自伝』の中でこう書いている。


「アメリカは若かった。野蛮で、粗雑で、同時にエネルギーに満ちていた。あらゆる可能性を持つ国として見えた」


彼はこの国を心から愛した。なぜなら、この国には「ヨーロッパ的な階級制度」がないように見えたから。移民の子供が社長になれる。靴磨きの少年がスターになれる。そういう「神話」があった。彼はその神話を信じた。そして、その神話の体現者となった。


ハリウッドの王


1920年代。彼は世界一有名な男になっていた。


『キッド』(1921年)。『黄金狂時代』(1925年)。『街の灯』(1931年)。『モダン・タイムス』(1936年)。映画館では、彼がスクリーンに現れるだけで観客は拍手した。子供たちは彼の歩き方を真似した。新聞は彼の恋愛を大々的に書き立てた。政治家ですら彼に会いたがった。


彼はハリウッドの邸宅に住んだ。召使いがいた。専属運転手がいた。プールがあった。全てがアメリカンドリームの具現化だった。貧困から成功へ。異邦人からスターへ。


だが、奇妙なことに、彼は「アメリカ人」にはならなかった。イギリス国籍のまま。アメリカへの帰化を求められても、彼は保留し続けた。理由を聞かれるたびに、曖昧に笑った。


「忙しかったんだ」


半分は本当だった。映画製作に没頭していたのは事実だ。だが半分は違う。彼はどこかで深く理解していた。自分は完全には受け入れられていない。スターとしては歓迎される。映画の天才として尊敬される。でも「異邦人」であることは変わらない。国籍も異なる。政治的信条もアメリカの主流とは異なる。貧困への同情も権力への懐疑も、全てが「異邦人」の証だ。


彼はその感覚を、ずっと心の奥に持ち続けていた。成功した移民。だが最後には受け入れられない存在。その矛盾に彼は何も言わず、ただ笑った。放浪者のように。転んでも立ち上がるように。


市民権を取らなかった理由


後年、あるインタビュアーが彼に直接尋ねた。


「なぜアメリカの市民権を取らなかったのですか」


彼は少し考えて、こう答えた。


「私は、誰かの『国民』になるよりも、世界中の『人間』でありたかった。それは傲慢かもしれません。でも、私の映画が言葉を必要としなかったように、私もまた、国籍という言葉を必要としなかった」


その答えは美しかった。だが同時に、悲しみも帯びていた。彼は「属する」ことを最初から諦めていたのかもしれない。あるいは、「属すること」の危険を知っていたのかもしれない。


いずれにせよ、その選択が後に彼を「亡命者」にする。国籍がないから追放されるのではない。国籍があっても追放される。だが、彼は市民権を取っていなかったから、なおさら「異邦人」として扱われた。


皮肉な運命だった。


---


第二楽章 冷戦と赤狩り


1947年、空気の変わり目


第二次世界大戦が終わった。1945年。ナチスは滅びた。ヒロシマとナガサキの閃光が空を裂き、世界は焼け跡の静寂に包まれた。誰もが“これで終わった”と思いたかった。だが、恐怖は形を変えただけだった。今度は、目に見えない思想が人々を分断し始める。ソビエト連邦。スターリン。共産主義への不安。冷戦——世界は再び、“敵”を探し始めていた。


アメリカ社会は急速に変質していった。新しい「敵」を求める執着。新しい「恐怖」を必要とする心理。


「お前はアメリカ側か、それとも敵か」


その二択だけが社会に求められるようになった。中間はない。グレーゾーンはない。黒か白か。友か敵か。


彼はその空気を激しく嫌悪した。なぜなら、それはヒトラー時代とよく似ていたからだ。違う旗。違うスローガン。違う敵。でも同じ「恐怖」が人々の心を支配している。同じ「密告の文化」が広がっている。同じ「思想統制」の空気がある。


ある日、彼は友人に言った。


「彼らはファシズムと戦っていると言うが、その方法はファシズムそのものだ」


この言葉が、後に彼を追放する材料の一つになる。彼はそれを予感していた。それでも、言わずにはいられなかった。


HUACとハリウッド


1947年から1952年にかけて、ハリウッドでは大規模な「赤狩り」が行われた。下院非米活動委員会(HUAC)。その委員会は脚本家、監督、俳優たちを次々と召喚した。


質問はいつも同じだった。


「お前は共産主義者か」


それだけ。脚本の内容は問われない。映画の質も問われない。ただ「政治的信条」だけが問題にされる。


多くの映画人が圧力の前に屈した。身の潔白を証明するために、同僚を密告した。友人を告発した。その結果、多くのハリウッド関係者が映画業界から追放された。いわゆる「ブラックリスト」に載せられた。仕事を失った。家族を失った。人生を失った。


彼はそのリストに載る者たちを何人も知っていた。脚本家のダルトン・トランボ。監督のジョセフ・ロージー。俳優のチャールズ・チャップリン——いや、まだそこには載っていない。でも、いつ載ってもおかしくなかった。


フーヴァーの監視


チャップリンは共産党員ではなかった。だが、FBI長官J・エドガー・フーヴァーは彼を「危険人物」として監視していた。理由はいくつもある。


外国人であること。知識人や左派と付き合うこと。戦争に反対の声を上げたこと。貧困者への同情を表明したこと。『独裁者』でナチスを風刺したこと。そして何より——彼の「影響力」だった。


何百万人もの映画観客が彼を愛している。彼が語れば、その言葉は世界中に伝わる。それが権力にとって危険だった。「笑わせる男」は時に「考えさせる男」になり得る。権力はそうした影響力を警戒した。


FBIのファイルは厚くなっていった。電話の盗聴。手紙の監視。尾行。彼はその監視を何度も感じていた。時々、見知らぬ車が自宅の前をゆっくり通り過ぎる。時々、電話の向こうで誰かが息をしている。彼は受話器を置き、ウーナを見た。


「またか」


彼はそう言って笑った。でもその笑いは昔のようには軽くなかった。


ある時、彼は弁護士に相談した。


「告訴できますか」


弁護士は首を振った。


「証拠がありません。それに、告訴すればさらに注目されます」


彼はその言葉を聞いて、深く息を吐いた。そして諦めた。「彼らに見たいなら、見せておけ」と。


その無力感が、彼の心のどこかに沈殿していった。


---


第三楽章 『ライムライト』と亡命への道


1952年、最後のアメリカ映画


『ライムライト』。年老いた喜劇役者カルヴェロ。かつては大スターだった男。だが時代は彼を忘れた。新しい顔。新しいエンターテイナー。彼の出番は去った。映画の中でカルヴェロは一人の若い女性ダンサーに出会う。彼女も人生に行き詰まっている。二人は互いに励まし合う。だが最終的にカルヴェロは舞台から去る。彼女のために。自分の後進のために。


彼女のために自分を犠牲にすることで、彼は最後に「人間らしさ」を確認する。


この映画は明らかに彼自身の人生を反映していた。「観客は去る。そして新しい顔を求める」——映画の中でカルヴェロはそう呟く。


彼はその台詞を書く時、自分自身の未来を見ていたのかもしれない。観客は去る。そして権力もまた、彼を去らせる。


ロンドンへの旅


『ライムライト』のプレミアをロンドンで行う。それは彼にとって「帰郷」でもあった。四十年以上ぶりのロンドン。母の街。救貧院の街。貧民街の街。帽子を拾い続けた街。彼はその故郷に帰りたかった。映画のプレミアの後、少し滞在して街を歩き回りたかった。かつての自分の場所を見たかった。ウォルワース。ランベス。母が入院していた精神病院。救貧院。


あの霧の中で、彼は「人間」になった。その街へ帰りたかった。


だから彼は船に乗った。妻と子供たちを連れて。大西洋を渡る旅。その旅が「亡命」になるとは知らずに。


出発の前日、彼はハリウッドの邸宅の庭を歩いた。長年住んだ家。プール。花壇。子供たちの遊具。彼は一つ一つを目に焼き付けた。いつ戻れるか分からない。いや——もしかしたら戻れないかもしれない。その予感があったから。


彼は庭のベンチに座り、一服した。煙が青空に消えた。


「行ってくる」


彼は家に向かって呟いた。誰に言ったのか。家そのものか。それとも自分自身か。


---


第四楽章 追放


9月、船の上


その新聞記事を読んだ後、彼は何も言わなかった。ウーナが船室に入ってくる。


「どうしたの」


彼は新聞を彼女に渡した。彼女は読み、顔色を変えた。


「ひどい……」


彼は笑った。その笑いは、昔の放浪者の笑いに少し似ていた。転んだ時の笑い。どうしようもない時の笑い。身体が覚えている笑い。


「まあいいさ」


彼はそう言った。だが本当のところ、良くなかった。彼は四十年以上住んだ国から「戻ってくるな」と言われたのだ。犯罪者ではない。スパイではない。ただ「好ましくない男」として。


その瞬間、彼は突然理解する。放浪者は自分だったのだと。映画の中の虚構の人物ではなく、彼自身が本当の放浪者だったのだと。どこにも完全には属さない。歓迎されても最後には追い出される。帽子を被り、歩き続けるしかない存在。その宿命が彼自身だった。


彼は窓の外を見た。海は変わらず灰色だ。


「これでまた、旅が始まる」


彼は呟いた。


ロンドン到着


ロンドン。到着した時、記者たちが殺到した。イギリスの新聞。アメリカの特派員。ラジオ局のマイク。


「アメリカ政府についてどう思いますか」

「帰国しますか」

「共産主義者ですか」


フラッシュが光る。マイクが向けられる。質問が飛ぶ。彼は疲れていた。本当に疲れていた。だが彼は記者たちを見ながら、静かに言った。


「私は政治家ではない。私は道化師だ」


記者たちは笑わなかった。彼も笑っていなかった。その言葉は半分本当で半分嘘だった。彼は確かに道化師だった。生涯、映画の中で笑いを作ってきた。でも同時に、道化師だからこそ見えてしまうものがあった。権力の滑稽さ。群衆の恐怖。人間の弱さ。人間が人間であり続けることの難しさ。


彼はそれを見てしまった。だから追放された。彼の笑いは、もはや「無邪気な笑い」ではなく「批判的な笑い」になっていた。それが権力には耐えられなかった。


その夜、彼はホテルの窓からロンドンの街を眺めた。霧。遠くの灯り。かつて自分が歩いた街。もう何も覚えていない。いや、覚えている。覚えているから痛い。


彼は長い間、窓の前に立っていた。


亡命の選択


彼は結局、アメリカには戻らなかった。戻れなかった。正確に言えば、「戻る」という選択肢は最初からなかった。再入国許可が取り消されたのだから。でも彼は戻ろうとしなかった。申請すれば審査はされたかもしれない。弁護士はそう言った。でも彼は首を振った。


「もういい」


彼は言った。「あの国は、私が必要としているものを私に与えることができない。そして私は、あの国が必要としているものを与えることができない。それだけのことだ」


その言葉は潔く聞こえた。だが、その裏には深い傷があった。彼を成功させた国。彼に夢を与えた国。彼から夢を奪った国。


その矛盾を抱えたまま、彼はヨーロッパを転々とした。フランス。イタリア。どの国も彼を歓迎した。スターとして。でも彼はどの国にも「属さなかった」。ホテルの部屋からホテルの部屋へ。スーツケースを広げては畳む。


彼はある時、手紙にこう書いた。


「私はもう、どこにも家を持てないのかもしれない。放浪者は、最後まで放浪者でいなければならない。それが私の運命ならば、それを受け入れよう」


---


第五楽章 スイスでの暮らし


コルシエ=シュル=ヴヴェイ


彼は最終的にスイスに移住することにした。レマン湖の近く。フランス国境に近い静かな村。コルシエ=シュル=ヴヴェイ。


そこに邸宅を購入した。山々に囲まれた村。霧。鳥の声。葡萄畑。静寂。ハリウッドの喧騒からは遠く離れた場所。FBI捜査官も来ない場所。新聞記者の群れもいない場所。


彼はその静けさを愛した。本当に愛した。時々、庭に出て葡萄畑を眺めた。収穫の季節には、近所の農家がワインを届けてくれた。彼はそれを飲みながら、昔を思い出した。


だが時々、窓の外を見ながら、アメリカを思い出した。ニューヨークの速度。ハリウッドの光。映画館の歓声。彼はアメリカを憎めなかった。なぜなら、その国が彼に「夢」を与えたから。同時に、その国が彼に「追放」も与えた。その矛盾ごと、彼は愛していた。


ある日、訪問者が彼に尋ねた。「アメリカを恨みませんか」


彼は少し考えて、こう答えた。


「恨む? いいや。あの国は私に全てを与えた。そして、全てを奪った。それは公平だ。人生はいつも公平とは限らない。でもあの国との関係は、少なくとも公平だった」


庭の放浪者


スイスでの二十年間。彼は映画を撮り続けた。『ニューヨークの王様』(1957年)。亡命した国王がアメリカ社会の狂気に巻き込まれる風刺映画。テレビ。広告。赤狩り。密告。警察国家。


全てが彼の独特な身振り言語で描かれている。だが、その笑いは以前より苦い。若い頃の放浪者の笑いではない。老いた男の、諦めに近い笑い。


彼はその映画を撮りながら理解していた。


「自分はもう、世界の中心には戻れない」


だがそれで良かった。彼はもう若くなかった。転びながらも帽子を拾い続けた長い旅の終盤にいた。


時々、彼は庭を歩いた。ステッキを手に。子供たち——彼とウーナの間には8人の子供が生まれた——が走り回る。彼はその姿を見ながら、ベンチに座る。


時々、彼は立ち上がり、ステッキを回した。放浪者の癖。身体が覚えている動き。ウーナがそれを見て微笑む。


「まだやってるの」


彼も微笑む。


「癖なんだ。やめられない」


その動きは、もはや誰のためのパフォーマンスでもなかった。ただ、自分自身のための儀式。自分はまだ「あの男」であることの確認。


創作の孤独


スイスでの創作は孤独だった。ハリウッドのようなスタジオシステムはない。大勢のスタッフもいない。彼は一人で脚本を書き、演出し、時には自分でカメラを回した。


『ニューヨークの王様』は、アメリカで公開されなかった。配給会社が恐れたのだ。政治的反発を。ボイコットを。結局、この映画がアメリカで公開されたのは、彼の死後だった。1972年——彼がアカデミー賞を受賞した年より後。


彼はその事実を知っていた。それでも映画を撮り続けた。誰のためでもない。ただ自分自身のために。自分の人生への証言として。


ある時、彼は日記にこう書いた。


「映画を撮ることは、息をすることと同じだ。やめられない。やめたら死んでしまう。たとえ誰も見ていなくても、私は撮る」


---


第六楽章 帰還


1972年、アカデミー賞からの招待


二十年が経った。アメリカは変わっていた。ベトナム戦争。公民権運動。若者文化。反体制運動。かつて彼を追放した国は、自分たちの過ちに気づき始めていた。赤狩りは終わっていた。ブラックリストに載せられていた多くの映画人は名誉回復を求めていた。


そして、かつての最大の犠牲者の一人——チャップリン——に対しても、態度が変わり始めていた。


1972年。アカデミー賞名誉賞。彼に招待状が届いた。


「アメリカへ戻ってほしい」


という招待。


彼は悩んだ。行くべきか。断るべきか。スイスでの二十年間で、彼の心には複雑な感情が積み重なっていた。アメリカへの愛情。アメリカへの怒り。許し。許さない心。


彼はウーナと話し合った。


「行くべきだと思う」


ウーナは言った。「あなたはいつも、人を許すことを教えてきた。映画の中で。その教えを、自分自身に適用しないのはおかしい」


彼は長い間黙って、最後に言った。


「そうだな」


1972年3月28日、ロサンゼルス


ドロシー・チャンドラー・パビリオン。アカデミー賞授賞式。


彼の名前が呼ばれる。その瞬間、会場が沸く。観客全員が立ち上がった。拍手。拍手。止まらない拍手。映画史上最長のスタンディングオベーション。伝説の十二分間。


若い頃自分を笑った観客。自分を愛した観客。自分を追い出した国。その全てが、今拍手している。


彼は立ち尽くしていた。涙が止まらなかった。何を思ったのか。許したのか。まだ怒っていたのか。複雑な感情を感じていたのか。誰にも分からない。


ただ、彼は小さく頭を下げた。あの放浪者のように。少し照れくさそうに。少し寂しそうに。だが、どこか誇らしげに。


彼は台へ上がり、スピーチをした。その言葉は短かった。


「この素晴らしい瞬間を、私の心の中の全ての放浪者たちに捧げます」


それだけだった。それ以上は何も言えなかった。言う必要がなかった。彼の人生全体が、そのスピーチの中にあったから。


授賞式の後


授賞式の後、彼は誰にも会わずにホテルに戻った。一人になりたかった。スイスの家族を呼ばなかった。ただ、ホテルの窓からロサンゼルスの街を眺めた。


あの頃のハリウッドはもうない。自分が歩いた通りも変わっている。自分が笑わせた観客も、もう若くない。自分が愛した街も、もう違う。


彼は長い間、窓の前に立っていた。そして呟いた。


「帰ってきたよ」


誰に言ったのか。街か。自分か。それとも、かつてそこに住んでいた若い自分に。分からない。ただ、その言葉が自然と出た。


翌日、彼はすぐにスイスへ戻った。アメリカに残らなかった。そこがもう自分の家ではないと知っていたから。戻るべき場所はスイスだった。家族がいる場所。静けさがある場所。彼が「老人」として暮らせる場所。


彼はその選択を後悔しなかった。ただ、一つだけ確かなことがあった。


「アメリカは私の第二の故郷だ。追放されたけれど、それでも故郷だ」


その矛盾を抱えたまま、彼はまたスイスへ飛んだ。


---


第七楽章 永遠の異邦人


どこにも属さない者


彼は最後まで「完全にどこかに属する人」にはならなかった。


ロンドンでは貧しすぎた。ハリウッドでは外国人だった。政治の世界では道化師だった。どこの国にも属せず。どこの階級にも属せず。どこの政治勢力にも属さず。


だが、その「どこにも属さない感覚」こそが、彼を「世界中の誰にでも届く存在」にした。


放浪者には国籍がない。だから世界中の観客が自分自身をその放浪者に重ねることができた。貧しい者。追放された者。愛された者。拒絶された者。その全てが彼の中にいた。


彼はその矛盾を決して解決しなかった。むしろ、その矛盾を生きた。


ある時、孫娘が彼に尋ねた。


「おじいちゃんは、どこが一番好きなの。イギリス? アメリカ? スイス?」


彼は少し考えて、こう答えた。


「スクリーンの中だよ。そこだけが、私が本当に自分でいられる場所だから」


その答えは、子供には難しすぎたかもしれない。だが彼は真実を言った。彼にとって「祖国」とは、物理的な場所ではなく、映画という媒体だった。フィルムの中の光と影。その中だけが、彼が追放されない場所。


晩年


1975年3月。彼はイギリスでナイト爵位を受けた。サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン。かつての貧困の少年が、ついに「サー」の称号を得た。


記者が聞いた。「どう感じますか」


彼は笑ったという。その笑いは何を意味していたのか。喜び。皮肉。複雑な感情。誰にも分からない。


ただ、彼はこう付け加えた。


「母が生きていればよかったのに」


その言葉に、記者たちは沈黙した。彼の母ハンナは1928年に亡くなっている。彼女が生きていたら、この場面を見たかった。自分が産んだ貧しい少年が、サーになる瞬間を。


彼は晩年、スイスの庭を歩きながら、時々ステッキを回した。癖のように。身体が覚えているから。転んでも帽子を拾う。追放されても歩き続ける。痛めつけられても笑う。


それが彼だった。


---


エピローグ 最後の放浪者


1977年12月25日


クリスマスの日。スイスの自宅。彼は静かに息を引き取った。八十八歳だった。家族に見守られながら。誰も泣かなかった。彼がいつも笑っていたから。最期まで笑っていたから。


彼の死を知らせるニュースは、世界中を駆け巡った。映画館では彼の作品が上映された。『街の灯』『キッド』『独裁者』『モダン・タイムス』。世界中の人々が映画館で彼の映像を見た。


その映像の中の放浪者は永遠に生きている。転ぶ。笑う。帽子を拾う。歩き出す。その永遠のループ。その永遠の人間の営みの中に、彼は生きている。


世界一有名な亡命者


彼は「世界一有名な亡命者」と呼ばれた。追放された映画人。政治的に迫害された芸術家。


だがその「亡命」は、実は彼の本質そのものだった。彼は常に「どこかの外側」にいた。だからこそ、「どこかの内側にいる全ての人」に語りかけることができた。その矛盾。その複雑さ。その苦しさ。その美しさ。全てが彼の映画に凝縮されている。


彼はある時、遺稿の中でこう書いている。


「私は旅をしてきた。ロンドンからアメリカへ。アメリカからヨーロッパへ。そして最後にスイスへ。でも、本当の旅は外側ではなく内側で起こっていた。貧しい少年からスターへ。スターから追放者へ。追放者から老人へ。その全ての変化の中で、一つだけ変わらなかったものがある。私はいつも、自分を笑い続けた。それが、私の生きる意味だった」


スクリーンの中の永遠


今日もどこかの映画館で、観客が彼を見ている。その映像の中で彼は死なない。転んでも立ち上がり、帽子を拾う。その営みを繰り返す。


世界中の観客が、その繰り返しの中に自分たちの人生を見ている。それはもはや演技ではない。それは人間の存在そのものだ。チャップリンはその存在の象徴となった。


世界一有名な亡命者。


そして同時に——


世界で最も愛された放浪者。


スクリーンの中の小さな男は、今日も歩き続けている。黒い口髭はもうない。山高帽もない。でも彼の目には、あの頃の輝きが今も生きている。


転んでも。殴られても。追放されても。


彼は帽子を拾う。埃を払う。被り直す。そして歩き出す。


それは彼の人生そのものだった。


それは人間の尊厳そのものだった。


それは永遠の——放浪者のダンスだった。


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