2 出立
一条教房が、わずか八歳の御子・内政に家督を譲り、隠居なされるという一大事。その報に接した家臣らも懸命に御心を翻そうとしたが、教房の決意はあまりにも堅く、ついに誰ひとりとしてこれを止めることは叶わなかった。事は静かに、されど確かに、前へと進んでいった。
数日後……
東小路教行は、庭の池のほとりに佇んでいた。小石を拾っては、黙って池に投げ込んでいる。
「……はぁ~」
ぽちゃんと水音が広がる。
「……はぁ~あー」
口から漏れるのは、ため息ばかり。まるで魂が抜けたかのような虚ろな瞳で、水面の波紋を眺めていた。
「東小路殿」
背後から名を呼ぶ声が聞こえた。
ちらりと振り向いた先には、飛鳥井雅量の姿があった。
「……お傍に、宜しゅうございますか?」
東小路は、言葉なく頷いた。それを見て飛鳥井は、静かに隣へ腰を下ろした。
またひとつ、小石が池へ。
「ぽちゃん……」
それを見届けてから、飛鳥井が口を開く。
「……お怒りで?」
東小路の手が一瞬止まる。だが、すぐにまた小石を拾い、池へ。
「ぽちゃん……」
「……怒ってなど、おらぬ。ただ…… ただただ、残念でな……」
「……はい。私も、同じ思いにございます」
「上様は、五摂家の筆頭となりうるだけの御器量と御見識を備えておられた。それを…… それを、あのような形でお捨てになられるとは……」
「民草思いの、まこと優しきお方ですから…… お心が、耐えられなくなったのでしょう」
ふたりの間に沈黙が落ちる。
東小路がまたひとつ、小石を投げた。
「ぽちゃん……」
それを見ていた飛鳥井も、小石をひとつ拾い、そっと池へ。
「ぽちゃん……」
飛鳥井が言葉を継ぐ。
「……東小路殿は、いかがなさいますか?」
「ぽちゃん……」
「決まっておろう。京に残る。内政様はまだ八つ。私が見守らねば…… 飛鳥井殿は?」
「……私は、上様にお供しようかと存じます」
「……」
「ぽちゃん」
二人の会話が止まり、ぽちゃん…… と水面を叩く小石の音だけが、静かに広がっていった。
飛鳥井は、そっと東小路に視線を向けた。
東小路殿…… そなたも、本心では上様のもとへ馳せ参じたいはず……。されど、己の務めを違えぬ。その御心、しかと受け止めましたぞ……
「私は、決して都が嫌になったわけではございませぬ。ただ……」
東小路は、じっと飛鳥井を見つめた。
「ただ?」
「ぽちゃん……」
「……上様の御心が、いつ変わるやもしれませぬゆえ。そばに在るのが、一番かと……」
東小路の手が、ふと止まった。
「……もしや?」
「ええ。時間をかけて…… 必ず、お心を変えてみせます」
東小路は、ゆるやかに立ち上がった。
「お頼み申す、飛鳥井殿。都には…… いや、この本朝には、やはり上様が必要にございます」
「まこと、その通りにございます。今のような乱れし世こそ、上様のお力が…… 再び必要なのです」
「それまでは、この東小路が、微力ながらも留守をお預かり仕る」
二人は静かに目を合わせ、無言のうちに誓いを交わした。
数日後。
一条教房は家督を内政に譲り、いよいよ奈良への出立を控えていた。
長年にわたり一条家に仕えてきた者たちは、総勢百二十四名。
そのうち、教房とともに奈良へ向かうと申し出たのは三十二名。
飛鳥井雅量も、その中に名を連ねていた。
「では…… 東小路」
「ははーっ!」
「内政を、都を…… 頼んだぞ」
「御意。この命に代えても、お守りいたしまする」
教房は、何度もゆっくりと頷いた。
それきり一度も振り返ることなく、静かに歩みを進めた。
東小路は、飛鳥井と目を合わせる。
頼むぞ、飛鳥井殿…… 上様を…… その御心を、なんとか……
言葉にはせずとも、飛鳥井は静かにその想いを受け取った。
目を細め、わずかに頷く。
見送りの列には、数名の家臣が整列していた。
その中に、まだ幼き内政の姿もあった。
内政は袖をぎゅっと握りしめ、父の乗った牛車をただじっと見つめていた。
その傍らに立つのは、教房の正室、将軍足利義政の妹である義春だった。
彼女は静かに立ち、ひとつも涙を見せぬまま、ただ牛車を見送っていた。内政がすすり泣くたび、彼女はそっとその手を握ったが、その目はどこか遠くを見ていた。
上様…… どうぞご安心あそばせ。内政は、この私が必ずや、関白に育て上げてご覧にいれましょう。
その面に浮かぶのは、母としての揺るぎなき覚悟、将軍の妹としての誇り、そして一人の女としての気高き威厳であった。その口元には、ごく僅かに、確かな自負の笑みが浮かんでいた。
やがて、教房の乗った牛車の車輪が、ゆっくりと回り出す。
ぎぃ…… ぎぃ……と、木の車輪が軋む音が、門を越え、空へと溶けていく。
その牛車は、やがて木々の間に隠れ、見送りの者たちの胸に静かな余韻だけを残して、姿を消した。