60 それぞれの準備
執務室を出て三人で歩く王宮の廊下は静かだった。
もうこの景色を見ることも無いのだと思いながら、ソフィアはロビンの顔を見上げる。
頂点に差し掛かろうとしている太陽が、レオナードの銀髪を愛でるように照らしていた。
「ソフィア、辺境までどのくらいかかるのだろう? 僕の体はもつかだけが心配さ」
その言葉を聞いたレモンが後ろから声をかけた。
「母さんに運べるか聞いてみようか?」
「そうしてもらえる? できる限りロビンの負担は減らしたいわ。レオナードも一緒だとあまり無理はできないから、馬車だと二週間はみた方がいいわ」
「わかった。すぐに聞いてくるね」
レモンが二人を追い越して跳ねるように駆け出した。
「なんと言うか、自由なメイドだねぇ。どうして不快じゃないのかなぁ。不思議な子だよ」
「ええ、あの子は『大魔女』の娘ですもの」
「そうなの? なんだか知らないことがまだまだたくさんあるね。命が終わる今になって、もっとちゃんと学んでおけばよかったって思うよ。もっともっと知るべきことがあったってやっと気づいたんだ。相変わらず僕はのろまだね」
「長生きしてちょうだい、ロビン」
「ははは! うん、できるだけ頑張る。それにね、僕は神様にお願いしていることがあるんだ」
「なあに?」
「次に生まれてくるときは、ソフィアから生まれたいって毎日お祈りしているんだよ。ソフィアを母と呼びたいなって思っているんだ。母上が嫌だって意味じゃないよ? でもソフィアが母親の王家ではない家に生まれてみたいな」
「ロビンは面白いことを考えているのねぇ。わかった、私があなたを産むわ。でもそれだとお父さんを探さなくちゃね」
ロビンが歩みを止めた。
「もし願いが叶うなら、レオ兄さんとソフィアの子として生まれたいよ。本当なら兄上と結婚するのは君だったんだ。そうでしょう?」
「ロビン?」
「嫉妬とかそういうのではないから誤解しないでね。兄上と婚約していた時、よく二人で庭園を歩いていたでしょう? お似合いの二人だなって思っていたんだ。でもブリジッドがあんなことを言い出してさぁ。なのに兄上はあっさり受け入れたでしょう? どうしてかわからなかったけれど、兄上は全て知っていたのだろう。ようやく納得できたよ。僕たちはこうなる運命だったんだ」
「運命……そうね、運命なのね」
ロビンがソフィアの頬に手を当てる。
「改めて言わせてくれ。ソフィア、本当にありがとう。僕は君が大好きだよ」
涙をこらえるソフィアの顔が歪んだ。
「こちらこそありがとう、ロビン。私もあなたが大好きよ」
再び歩き出した二人の背中を、緩やかな日差しが照らしている。
あまりにも穏やかな顔をしたこの二人が、明朝には死地へと旅立つのだと知っているのは国王と皇太子だけだ。
私室に戻ったソフィアは動きやすい楽な服ばかりを鞄に詰めた。
どういう結果になったとしても、この部屋に戻ることはない。
身の回りの世話をしてくれた侍女やメイドに、形見とは言わずに宝飾類やドレスを分け与え、レオナードの乳母には、レオナードのために準備していた肌着や毛布などをすべて渡すことにした。
文官たちには予てから準備していた羽ペンとインクのセットを渡し、側近たちにはクラバットとタイピンをそれぞれ渡す。
まるで永遠の別れのようだという言葉を、曖昧な微笑みで受けながら、ソフィアは王宮で過ごした三年を思った。
「これはナタリーお義姉様にお渡ししましょう。これはお義母様のお部屋で使っていただければ嬉しいわ」
ソフィアはお気に入りだった刺しゅう絵やひざ掛けを並べ、ふと自分が泣いていることに気づく。
「最後までちゃんとするなんて弱虫の私には難し過ぎるわね」
そう小さく呟いたソフィアは、机に座り便箋を用意した。
『 信頼するダレンへ
いつも私のために手を尽くしてくれてありがとう。実はこのたび辺境領へと向かうことになりました。魔族との決戦に備えるためです。この戦いには国の存亡がかかっていると言っても過言ではないでしょう。私は王家に嫁いだ者として、できる限りのことをするつもりです。何が起こるのかは誰にも分りません。私の命もどうなるかわからないのです。
お願いが二つあります。
ひとつは魔草テポロンをできるだけ早急に辺境領に送ってください。量は多ければ多いほど良いですが、急がなくてはなりません。
そしてもう一つ個人的なことです。
私はもう王城へは戻りません。
当初の計画通り、そちらへ行きますのでその手配をお願いします。
もし私が命を失ったら、私名義の財産は国の復興に役立ててください。鉱山はあなたの名義に変更して下さい。あの鉱山は必ず膨大な利益を産み出すはずから、あなたの一族の繫栄に役立てて下さい。
あなたには最後まで迷惑をかけるけれど、これも何かの縁だと思って下さいね。
ソフィア 』
何度か読みなおした後、封をしてメイドに渡す。
「一番早い便で送ってね」
「畏まりました」
手紙を託したメイドを見送り、部屋の中を見回す。
「やり残したことは無いかしら?」
ふと執務室に置いたままの特製キャンディの瓶を思い出し、メイドに持ってこさせた。
「これは処分しなくちゃね。こんなものを自作するなんて、あの頃は本当に必死だったわ」
残っていた数粒を紙に包んでゴミ箱に捨てる。
瓶は洗って窓辺に置いた。
魔道具はレオが持って行ったので心配はない。
感慨深く部屋を見回していると、いつの間にか起きていたレオナードが、じっとソフィアを見つめていた。
「レオナード、みんなあなたのことが大好きよ」
ソフィアの声に、レオナードが嬉しそうな顔で笑った。
話を聞いたのであろう王妃と皇太子妃が、二人の部屋を訪ねたのは夕食後のことだった。
取り乱すこともなく、穏やかな表情で話す二人に、ソフィアは王家に嫁いだ者の覚悟を見て、自分には無理だと改めて思った。
「ロビン、あなたはいつもレオの後を追っていたわね。レオの足が速くて追いつけないって泣いて悔しがるの。座り込んで泣いていると、レオは必ず戻ってきてあなたの涙を拭いてやっていたわ」
王妃が遠くを見るような表情で言った。
「レオ殿下の優しさは幼いころからなのですね」
皇太子妃の言葉に王妃が頷く。
「そうね、アランは少し年が離れていたし、あの子はずっと皇太子になるための教育を受けていたから、弟たちとはあまり遊んでいないわ。でもあの子も優しい子なのよ?」
「ええお義母さま。それはよく存じておりますわ」
「あら、惚気を言うチャンスを与えてしまったかしら。ふふふ」
気丈に振る舞う二人。
まさに国母と呼ぶに相応しい二人だとソフィアは思った。
「ねえソフィア、ご実家には知らせたの?」
「いいえ、私は親兄弟との縁が薄いのです。もし没落するなら家名が惜しいなとは思いますが、その程度ですわ」
ナタリーがニヤッと笑った。
「だったら潰しても構わない? あなたの実家だからと思って目こぼししていたけれど、さすがにちょっと考えなくちゃと思っていたところなの」
「まあ! お気遣いいただいて申し訳ございません。どうぞバッサリいっちゃってください。腹違いの弟が継いだのでしょうか? それさえも知らないのです」
「そうなの? では遠慮なくいかせてもらうわね。家名だけは残すから安心してちょうだい」
「ありがとうございます」
物騒な会話をする嫁二人をニコニコしながら見ていた王妃がロビンに向き直った。
「ねえ、ロビン。今日のお薬はもう飲んだのかしら?」
「うん、王宮医から出されているのは飲んだよ」
「良かったわ。必ず忘れないように飲むのよ? 約束してね?」
頷いたロビンが、思い立ったように聞く。
「そういえば一度聞こうと思っていたのだけれど、アンナローゼにも痣があるの?」
ナタリーが首を横に振った。
「アンナローゼには無いわ。その頃の私は痣のことを知らなくて、なんとも思っていなかったのだけれど、あれは直系の男児にしか出ないそうよ」
「へぇ……まあそれなら良かったよ。女の子にあんな痣があるなんて可哀そうだもの」
静かな時間が流れていく。
レオナードは王妃の横に置かれたベビーベッドの中ですやすやと眠っていた。
「もう遅いわね。そろそろ戻らなくちゃ」
ナタリーが王妃を促し立ち上がった。
「ええ、そうね……ロビンもソフィアも、明日の晩餐は楽しみにしていてね」
「はい、母上。楽しみにしていますよ。おやすみなさい」
「ええ、あなた達もゆっくり休んでちょうだい」
ロビンが一歩前に出て、万感の思いを込めて母親の体を抱きしめた。




