47 皇太子妃の来訪
「いっそみんなで逃げない? ねえそうしようよ」
「ダメよ、レモン。この国はどうするの? 民たちの暮らしは?」
「でもさぁ、あの女が産んだ子供を育てるのはソフィア様なのでしょう? 愛情をいっぱいそそぐのでしょう? そんな子を生贄にできるの? しかもレオ殿下も一緒に死んじゃうんだよ?」
「……」
「薬はもうできるんだ。あの女の心臓と不貞相手の心臓なんて屁でもないじゃん? でもそれとセットなのがソフィア様の大切なものっていうのがね……真実の瞳だっけ? 何なのかな」
「本当に何なのかしらね」
「それにしても父親は誰なんだろ」
ソフィアは人魚の女王の話から察してはいたが口にはしていない。
「生まれてみればわかるわよ」
「まあそうだよね。でも例の元伯爵令息か、あのいけ好かない護衛だったら拙いね。片方は死刑確定だし、もう片方は辺境領でいつ死んでもおかしくない状態だもん。あの司祭というのが一番手っ取り早いけれど、ロビン殿下という線も捨てきれないし」
「そうね……誰なのかしらね」
ソフィアは言わないことに決めた。
生まれるまで半年以上あるのだから、決めつけてしまう必要はない。
「誰の子だったとしても、私が愛を注がないといけないのよね」
「試練だね」
「ほんとにね」
「お菓子食べる?」
「え?」
「オレンジピールチョコが手つかずのままだったから持って帰ってきた」
ソフィアはフッと息を吐いた。
レモンなりの気遣いだろうが、今は何も口にする気になれない。
「今はいいわ。レモンはお腹が空いたの?」
「そりゃそうだよ。だってソフィア様ったら丸一日目覚めないんだもん。さすがの私も心配で食欲が出なかったよ」
「では今日からたくさん食べられるわね。だって私は大丈夫だもの」
「うん。さっき厨房を覗いたら、今夜はローストチキンみたいだった」
「ローストチキンか……おいしそうね。私はチキンよりも一緒に焼かれたトマトとか玉葱の方が好きなの」
「わかる! あれは旨いよね。でもお肉もちゃんと食べなきゃダメだよ?」
「うん、わかってる。ありがとうね、レモン」
ソフィアの言葉にレモンがはにかんだような顔を見せた。
窓を開けて新しい風を呼びこんでいるレモンの後ろ姿を見ながら、あらためて自分のやってきたことを考えてみる。
これほどたくさんの人たちに心痛と心労を与えてまで実行すべきことだったのだろうか。
自分さえ良ければいいと思った回帰直後の自分に嫌気がさす。
「何を今更考えているの! すでに賽は投げられたわ」
ソフィアは明日にでもシフォンの店に行きたかったが、状況がそれを許さない。
「大丈夫よ。時間はまだあるのだから」
ソフィアは痛む下腹を押えながらベッドに戻った。
まだ高い位置にいる太陽が、王宮の庭を明るく照らす。
城壁の向こうには人々の暮らしがあるのだ。
「どんなことでも成し遂げてみせるわ」
ソフィアは決意を新たにしつつ、人魚の女王から貰った薬瓶を握りしめた。
レモンが入ってきて来客を告げる。
「どなたかしら?」
「皇太子妃殿下だよ」
「すぐにお通ししてちょうだい」
ソフィアは慌てて起き上がり、ガウンを羽織ってから髪を手櫛で整えた。
「ソフィア、ごめんなさいね」
「ナタリーお義姉様、こんな格好で申し訳ございません」
「いいのよ、むしろドレスなんて着ていたら私が脱がしているわ。とにかく体調を整えてちょうだいね」
「ありがとうございます」
「と言いながら、こんなことを伝えて良いのかどうかわからないのだけれど……」
そう言いながらナタリーが一枚の紙を差し出した。
「あの男の供述よ。これを知っているのはアランと私だけ。取り調べた者たちには絶対の緘口令を敷いたから安心してちょうだい」
「拝見します」
そこにはハリスン元伯爵令息の供述だった。
ブリジッドとの不貞や、どれほど逢瀬を重ねていたかなどが赤裸々に書かれている。
なぜ自分が犯行に及んだのかというところまで読み進め、ギュッと目を瞑ったソフィア。
それを労わる様な目で見ながらも、王子妃として毅然とした対応を願うナタリー。
「あの護衛とも関係があったのですね。そして……ロビンも……」
知っていたことではあるが、他者から現実を突きつけられると心が軋む。
「アランはロビンに罰を与えるつもりよ。ブリジッドと共に追い出すと言っているわ」
ソフィアは慌てて顔を上げた。
「それはお待ちください。ロビンは……確かにロビンは……」
「あなたは知っていたの?」
頷いたソフィアは、結婚してすぐに知ったことや、レオも知っていた事を伝えた。
「ではあのお腹の子はレオ殿下ではない?」
「はい、レオ殿下は一度もブリジッドお義姉様と同衾しておられないそうです」
「何てこと!」
ナタリーが額に手を当てて上を向いた。
「私は今のままでいいと思っています。ブリジッドの相手は他にもいますし、彼女はそのことを悪いとも思っていません。ロビンはすでに後悔していますし、今後あの二人が関係することは無いと思います」
「ソフィア、あなたは本当にそれで良いの? 夫が義姉と関係を持っていたのよ? 許せることではないわ」
ソフィアは視線をテーブルに移し、暫し沈黙した。




