37 人魚の涙
「どういうことだ?」
レモンがココアビスケットに手を伸ばしながら普通な口調で続けた。
「なぜ必要なのかを説明して納得してもらわないと分けてはくれないんだよ。前回は母さんが潜って人魚から分けてもらってきたけれど今回はダメなんだ。同じ者に二度はくれないから。人魚っていうのは時空の外で生きているから、前世も今世も関係ないんだ」
ソフィアがおどおどと聞く。
「私が? 私が湖に潜って、人魚に会って事情を説明して貰ってくるってこと?」
「うん、そうだよ。ソフィアは泳げる?」
「わたし……泳いだことなんてないわ」
「じゃあ問題なく沈めるから良かったね」
「良かったって……そんな。死んじゃうじゃない」
「大丈夫、死なないようにするし」
「どうやって?」
「母さんの魔道具を渡すよ。それを咥えていれば息はできる。鰓呼吸のようなもんさ。人魚は必ず来るから落ち着いて話すんだよ? 涙を分けてもらった後は人魚が水面まで送ってくれるから心配ない。とにかく落ち着いて。魔道具を落としたら一巻の終わりだ」
「心配……ない?」
「うん、たぶん?」
この母娘は重要なことを言った後、必ず『たぶん?』と言うのはなぜだろうと、ソフィアは現実逃避をするように考えた。
遠くでレオがレモンに抗議しているようだが、ソフィアの耳には入ってこない。
「そうか……私が行くんだ……」
どうやらレモンも軽い魔法なら使えるようで、怒り狂うレオは動きを封じられているし、ワンダを見ると、すでに縄でぐるぐる巻きにされて床に転がっていた。
「わかった、行くわ。どうすればいいか教えてちょうだい」
意を決したソフィアは半泣きの顔でこちらを見るレオに頷いて見せた。
「死なないわよね?」
「うん、それは保証するよ。ソフィア様に死なれちゃ元も子もないじゃん?」
「そうよね、うん。そうよ。それにしても水の中で涙を貰うって可能なの?」
「大丈夫だよ。彼らの涙は命の雫と呼ばれているけれど、液体に見えて液体じゃないのさ。もし受け取れたらどこでもいいから自分の素肌に押し付けるんだよ。そしたら吸収するからね」
「吸収したものをどうやって取り出すの?」
「チクッと針で刺したら出てくるよ」
「針で刺す……わかった。やってみるね」
やっと拘束を解かれたレオがソフィアに走り寄った。
「ダメだ! ソフィア! 危険すぎる!」
レモンが不貞腐れた。
「じゃあ諦める? 出現するかどうかわからない『魔消しの者』に望みを託すのかい? そしてあんたが命を引き換えにするってか? 不合理かつ不安定だ。何の生産性もない」
ソフィアがレオの頬を両手で優しく挟む。
「大丈夫よ、レオ。少しでも確率が高いのだったら絶対にやるべきよ。それに成功すればあなたは死ななくて済むかもしれないでしょう? その可能性が毛筋でもあるなら、私にとってはやる価値があるわ」
「ソフィア……」
「必ず成し遂げてみせるから。あなたは安心して予定通りの行動をしてね」
「……嫌だ。行かないことにする。ソフィアと一緒に湖に行って、私が湖に潜る」
「ダメよ、レオ。それこそ元も子もないわ。あなたを死地になるかもしれない辺境に行かせるのは私だって嫌よ? でもあなたは私に聞き分けろと言ったわ。今回はあなたが聞き分けて」
「ソフィア……ソフィア……ああ、そうだな。すまない、君の言う通りだ。私たちにはこの国を救うという大義があるのだったな。しかし……」
「私は絶対に死なないわ。それだけは約束する」
「わかったよソフィア。君に託そう」
そう言うとレオは痛いほど力強くソフィアを抱きしめた。
ソフィアは大魔女やプロントと話すうちに、薄っすらと気づいたことがある。
おそらく『選ばれし者』は、ただ生き続けることだけが役割ではないはずだ。
今回の役目こそ、自分が選ばれた理由ではないだろうか。
それなら命を賭す価値は絶対にあるはずだ。
「レオ、私は負けないから」
「ああ、私も最善を尽くすよ」
じっと見つめ合った後、レオが静かな声を出した。
「ロビンを頼むよ、ソフィア」
「ええもちろんよ。一日でも長く生きて貰わなくちゃ」
「ああそうだな。こんな展開は初めてだから、もしかするとロビンの寿命も変わるかもしれないし」
「ええ、ロビンには長生きしてもらわなくちゃ。もう愛し合う夫婦にはなれないけれど、同僚? 戦友かな? そういう気持ちなの。彼はとてもいい人だわ」
「不貞を犯した弟をそんな風に言って貰えて嬉しいよ。君のようなバディを持ったロビンが羨ましい。ロビンの命が少しでも長くなることを、私も辺境の地で祈っている」
「ロビンと私がバディなら、あたなと私は何かしら?」
「義兄と義妹……悲しいがそれが現実だ。でもね、ソフィア。私にとってあなたは唯一の人だよ。心の中では恋人であり妻であると思っている。一度目は恋人、二度目は妻だったのだ。三度目には私の方が距離をとってしまい、結果としてソフィアは死を選んだ。記録も記憶も無いが、おそらく三度目の時も、私はソフィアを愛していたと確信している」
「レオ……」
「要するに何度巻き戻っても、私はソフィアしか愛せない。ずっと愛している。死ぬまで愛している。いや、死んでも愛しているよ」
「ありがとう、レオ。泣いても笑っても今回が最後なのね」
「ああ、もうやり直しは無い」
「だからこそ為すべきことを為しましょう。あなたは王族の勇者として。私は神に選ばれた者として」
二人の目にはもう涙は無かった。
コンコンと音がしてドアが開き、ロビンが目覚めたとの声が耳に届く。
「すぐに行きます」
「私も行こう」
二人が立ち上がると、レモンがニコッと笑った。
「わたしも行くよ。おいしいお茶を淹れるね。さっき怒ったからレオ殿下には少し渋めにするけど。ああ、ワンダは白湯で十分だ」
「ありがとうレモン。目が覚めたら一緒にオレンジピールチョコレートを食べようって約束しているの」
ワンダがハンカチで洟をかみながら声を出した。
「私もお供いたします。オレンジピールチョコは大好物です」
「ワンダ? あなた泣いたの?」
「お二人の崇高な愛に感動してしまいました。私は何があろうと最後までお供いたします」
レオがフッと息を吐いた。
「ありがたいがワンダ。お前は少し肩の力を抜け」
レモンがたたみ掛ける。
「そうだよ、甥っ子。脱力こそが人生の極意だぞ」
「はあ……善処します」
レオがソフィアをエスコートしてロビンの私室へと向かう。
死地に赴こうとする者と、それを微笑んで見送ろうとする者が並び歩いている。
誰かが閉め忘れた窓から忍び込んできた秋の匂いが、ゆっくりと歩く二人を包み込んだ。




