21 皇太子夫妻の怒り
冷めた目でその景色を見ながら、ソフィアはポツンと呟く。
「あの子が……あの子さえいれば」
ソフィアは去年よりも瘦せてしまった自分の腹に手を当てた。
ほんの数か月の間に、自分の身に何が起こったのかを振り返る。
まるで天国から地獄へと落とされたような気分だ。
「まるでルシファーのようね……ルシファーはサタンになったのだわ。サタンか……だとしたら私はレオに殲滅されるべき存在なのだわ」
名前さえ贈ってやれなかった我が子を心の中で抱きしめながら、それでもソフィアは頑張って政務を続けていた。
責任というより逃避のような感覚だったが、ロビンやブリジッドと顔を合わせるくらいなら過労死した方がマシだとさえ思っている。
ソフィアは会えなかった我が子がいる場所へ少しでも早く行きたいと願っていた。
「ソフィア妃殿下、パーティーでもあるのですか? 久しぶりですね、これほど豪華なドレスを仕立てられたのは」
ソフィアは顔を上げた。
「ドレス? 何のこと?」
「あっ……いえ……」
「その書類をこちらへ」
バツが悪そうに書類を持ってきた文官に礼を言い、ソフィアはじっくりとそれを読んだ。
「なるほど、これを私が仕立てたってことね? サインは……まあ! ロビンじゃないの。ねえ、悪いけれど便箋と封筒を持ってきてくれる?」
ソフィアはロビンと王太子と王太子妃に同じ内容の手紙を書いた。
今のソフィアにとって恐れるものは何も無い。
不敬罪だと処刑するなら願ったり叶ったりだとさえ思っていた。
『 この度、私が異国の生地を使った夜会用ドレスを仕立てたとの書類が回って参りました。
まったく身に覚えのないことで困惑しております。
もしかすると誰かが意図的に第三王子妃である私の予算を流用しているのかもしれません。
私も含め、王家に連なる者は、民が納めた血税で暮らしている存在です。
このような不正はたとえ銀貨一枚だとしても許すべきではないと思い、こうしてお手紙でお知らせした次第でございます。
何卒早急の調査をお願いしたく存じます ソフィア 』
すぐにその手紙はすぐに届けられた。
予想通り、一番最初に反応を示したのはロビンだ。
「ソフィア! 手紙の件だ。部屋に入れてくれ!」
対応に出た侍女がおろおろとこちらを見ている。
「いいわ、入っていただいて。お茶の準備をお願いできる? それと護衛騎士二名も同席させて。皆もここに留まってちょうだい」
駆け込むようにして執務室に入ってきたロビンは、薄っすらと額に汗をかいていた。
「お久しぶりでございます。第三王子殿下」
「ソフィア……」
ロビンはソフィアに手を伸ばそうと近づいてきたが、全員の鋭い視線に怯み、大人しくソファーに座った。
「手紙を読んだよ。誤解なんだ!」
「誤解? 私はドレスなど購入しておりませんわよ? しかも第三王子殿下の承認サインがございましたがどういうことなのでしょう」
「だから! それが誤解なんだ。あれは確かに君のドレスではない。ちょっと予算が足りなくなって……申し訳ないが使わせて貰ったんだよ。それを説明しようにも、君は僕と会うことを拒んでいたし、支払期日が迫っていると泣きつかれて仕方が無かったんだ。でもね、来年度の予算が入ったら必ず補填すると誓うよ。だから今回だけは目を瞑ってくれないか?」
「何を言っている? お前が不正を働いたと認めたという認識で間違いないか?」
王太子であるアランの声だ。
その後ろには王太子妃であるナタリーもいる。
「あ……兄上……どうしてここに……いえ……これは違うのです。不正ではなく」
「自分の妻の予算であれば自由にして良いとでも思ったか? このバカ者が!」
ナタリーが気を利かせて全員を退出させた。
ここに留まるようソフィアに言われた者たちは、困惑の表情を見せたがソフィアが頷くとホッとした顔で素早く退出していく。
怖かったからとはいえ、無理に同席させて悪かったとソフィアは思った。
「ソフィア、辛かったわね。あなたの体調も最悪だというのに。それでロビン殿下? 何に流用されましたの?」
まさか長兄夫妻にまで知られていると思わなかったロビンは、顔色を悪くしておろおろしている。
鋭い視線で睨まれ、ソフィアに助けを求めるような表情を浮かべたが、もちろんソフィアに助けるつもりはない。
「あれはブリジッドが使ったのです。どうやら彼女は自分の予算が底をついていることを知らずに買い物をしてしまったようで。でも、買ったのは生まれてくる子供の物で、それなら仕方が無いと……あっ……ごめんソフィア、そんなつもりじゃ……」
あの時守られた子供のために、子供を失った自分の予算を流用したというのか。
どこまで自分は虐げられなければいけないのだろう。
実家の爵位が低いからか?
それとも家族との折り合いが悪く、後ろ盾が無いから?
ブリジッドよりも華やかさに欠けるからかもしれない。
それなら最初から私などを選ばなければよかったのだ。
しかも私は……子を失った女だ。
「ソフィア!」
ナタリーが慌ててソフィアの頬をハンカチで押さえた。
どうやら泣いていたらしい。
目を伏せるロビンの頬を王太子が思い切り殴った。
「あ……兄上?」
「お前には心底失望した。レオには私から知らせておく。あれも清々したと言うだろうな。ブリジッドが子を産んで落ち着いたら二人で出ていけ。いや、三人か。生まれた子に継承権は与えない。産ませてやるだけありがたいと思え。お前には私が保有する子爵位を餞別としてやる。ブリジッドは出産と同時に死んだことにして戸籍抹消だ。お前の愛人として連れていけ。領地はあるがスローヌ山脈の麓だから、苦労するだろうが自分で招いたことだ。それまでは一切の仕事にかかわるな。あの女の面倒だけみていればいい」
「そんな! たったこれだけのことで僕が子爵? あんまりだ! 酷すぎるよ! ブリジッドだって可哀そうじゃないか。レオ兄上が放っておくから拗ねてしまっただけだろ? 生まれる子はレオ兄上の子だよ? 僕らは幼馴染なんだ。僕まで見捨てたらブリジッドはどうすればいい?」
ナタリーが冷たい視線を投げた。
「それだけですって? あの日ソフィアの身に何があったか知らないとは言わせないわ。ソフィアはブリジッドを庇って刺されたのよ? それなのにあなたは何をしたの? 子が流れたのは刺されたことだけが原因では無いと聞いているわ。あなたも聞いたはずよ。出血しているのに馬に乗るしかなかったからだわ。ソフィアの気持ちがあなたには分からないの? 私ならあなたとあのバカ女をくくって湖に投げ捨てているわよ! それにあなたは忘れているようだけれど、あなたの妻はブリジッドではなくソフィアよ? 間違えているのではなくて?」
ロビンはもう何も言わなかった。
誰も口を開かないまま気まずい空気が漂う。
「ここに居たの? ロビン。早く食事に行きましょうよ」
ブリジッドが入ってきた。
後ろに見える使用人たちの顔色が悪い。
おそらく止めるのも聞かずに乱入したのだろう。
それを見た王太子がロビンに言う。
「ほら、お前のお役目だ。お前はもう二度とソフィアに近づくな。あの女も近づかせるな。王族は離縁できないからソフィアも子爵夫人となるが、私たちが王城で必ず守る」
両手で顔を覆い絶望に打ちひしがれるロビンの手を引きブリジッドが言う。
「まあ! お義兄様もお義姉様もいらしたのね? あらソフィア、今日はいつにも増して顔色が悪いのね。早く立ち直った方がいいわ。それまでは私がロビンの面倒を見るから安心して」
ナタリーがロビンの腕を引くブリジッドの顎を掴んだ。
「今は妊婦だから何もしないけれど、絶対に今の言葉は忘れないわ。あなたも覚えておくことね」
ぎりぎりと指先に力を込めてブリジッドをにらみつけるナタリー。
「お義姉様? 痛いわ……なぜ? 私はソフィアのためを思って……」
返事をせずナタリーが手を引いた。
ブリジッドの顎先から血が滴る。
「きゃぁぁぁぁぁ! 怪我をしたわ! 私の顔にお義姉さまが爪を!」
「黙れ!」
怒鳴ったのはロビンだった。
アランはブリジッドの血で汚れたナタリーの指先を、丁寧にハンカチで拭いている。
「ナタリー、医務室に行こう。すぐに消毒をしないと。バカが伝染したら大変だ」
「まあ! それは恐ろしいわ。ねえ、ソフィアも来てくれない? 私不安なの」
「はい、ナタリーお義姉さま」
三人が部屋を出ると、癇癪を起したようなブリジッドの声が廊下にまで響いた。
「ありがとうございます、お義兄様もお義姉さまも。本当に感謝しています」
「良いのよ、あの程度で済ませるなんて私も丸くなったものだと情けないほどだもの。ああ、あなたの執務室は消毒させておくから安心してね」
ナタリーの言葉にアレン王太子が肩を竦めた。
「ね? ソフィア分かるだろう? 私が恐妻家になるのも仕方がない」
そんな言葉とは裏腹に、愛おしそうにナタリーを抱き寄せるアラン。
二人を見ていると、まだ結婚に夢を抱いていた頃の自分を思い出した。




