Prologue
私の趣味は迷子になることです。
朝蜘蛛さんは自己紹介のとき、決まってこう言う。大抵の人は、表情を引き攣らせるけど。
でも、そんなことは朝蜘蛛さんにとって重要な問題ではない。というか、彼女という人物は、そんなことを気にするほど、敏感でも神経質でも自己中心的でもない。だからすぐ迷子になるのだろうなと、余計なお世話を考えていると、彼女は枕元に置いてあった恐竜図鑑を手に取り、付箋が貼られた四十九頁を開く。
掲載されているのは、俗に言う始祖鳥。学名アルカエオプテリクス・リトグラフィカ。その体長は、しばしばカラス程度と形容される。ドイツ南部バイエルン地方で、ジュラ紀後期の石灰岩中から発見される。骨格から獣脚類恐竜と推定されたが、羽毛の痕跡を持つなど、鳥類の特徴を有する。
昔から朝蜘蛛さんは何故か生物学が好きで、ヒトならざるものに対する興味は一種の信仰と呼べるほど強いものだった。小学生時代の登下校中も、野良猫を追っかけ回しては森林を彷徨い、水面の煌めきに手を伸ばしては河の流れに飲み込まれ。今も命あるので良かったが、彼女の危険極まりない行動は、大人たちの胸を大いに騒がせた。迷子になる前に寄り道せず真っ直ぐ家に帰っておいで、お母さんに叱られているのを見たことがある。少なくとも十指では数えられないほど。まさに耳に胼胝ができていても不思議ではないが、朝蜘蛛さんは、手だろうが耳だろうが、胼胝ができていても気にしないような子どもだった。彼女の悪癖を改善できた人物はひとりもいない。勿論、この私もだ。
「なのはーなばたけーに いりーひうすれー」
寝台に寝っ転がりながら『朧月夜』を口遊む朝蜘蛛さん。気づいていないのか、単に羞恥心が欠如しているだけなのか、スカートの中身が丸見えだ。桃色の下着を見せびらかしながら、彼女は恐竜図鑑と音楽の教科書を持ち替える。ぱらぱらと数カ所折れ曲がった頁を捲り、歌詞とある程度の音程を確認する。
「みわたーすやまのーはー かーすみふかしー」
私は、朝蜘蛛さんが置いた恐竜図鑑を読み始める。天然色の図版が散りばめられた各頁には、年季を感じさせる黄色い染みがある。彼女はヒトならざるものに限らず、書籍に対して強い関心を抱いていた。暇さえあれば書店に赴き、興味の湧いたものを値札も見ずに購入しようとするスタイル。そのせいで私の財布から金銭を提供しなければならない事態もなかった訳ではないが、彼女が頬を紅潮させ喜びまくっているのを見ると、憎めないやつだと笑って諦めるしかない。それが、彼女との付き合い方だ。
「はるかーぜそよふーく そーらをみればー」
彼女の下着をまじまじと拝見しながら、ある日わが家で発見した、姉が購入したと思われるえっちな下着の存在を思い出す。誰かが移動させてない限り、今も簞笥の奥底に眠っているはずだが、あれを朝蜘蛛さんに着させたらどうなるだろうか、と考える。この清廉なボブヘアが妖艶な下着を着用しているというのは、もはや魔性の女そのものだが、私個人は、今彼女が穿いている、幼稚園児が着ているような桃色の下着の方が、えっちだなと感じる官能性過激派であるのは誰にも内緒。
「ゆうづーきかかりーて にほーひあわしー」
旧仮名遣いで再生される彼女の歌声。朝蜘蛛さんは、いわゆる表記揺れとか順不同に対して手厳しい人物なので、当時の時代背景を考慮して旧仮名遣いで歌っているのだろう。現代仮名遣いで歌うときと比べ、明確な差異が生まれているかと言われれば、ノーコメントとしか返答できないけど。
「天気予報では、もうじき雨が降るらしいですよ、朝蜘蛛さん」
「雨の日に散歩をすると学園ドラマの主人公になれた気分になれますので、おすすめですよ、梅原さん」
「丁重でありながら躊躇なく遠慮させていただきますよ、朝蜘蛛さん」
冗談めいた会話劇を遮るように、夕立が疎らに降り始める。次第に、この部屋は、雨滴が地面に飛び跳ねる音に包まれていく。白く平坦な直方体の中に、ふたりぼっち。卓上のクッキーの袋をひとつ摘まむ。朝蜘蛛さんは、基本的に食に関して頓着を持たないので、きっとお母さんが来客用にと買ってきたものなのだろう。袋を縦に裂いて、前歯で軽く齧ると、芳醇なバターの匂いが広がる。少し湿気ているけど、そこはご愛嬌ということで、妥協できる範囲の不満だ。そもそも、私に偉そうなことを言う資格は微塵もない。
「雨の匂いと呼ばれるものには、原因物質があるのですが、ご存じですか、梅原さん」
「いえ、特に知りませんよ、朝蜘蛛さん」
「降り始めの匂いと、雨上がりの匂いとでは、原因物質が違うと言われています。降り始めの匂いは、ペトリコールという油が原因だと考えられています。種子が落下した土壌に水分が不足している場合、発芽を阻害する役割を果たすのですが、雨が降り始めた途端に、溶け出して匂いを発するらしいです」
「なるほど、思ったより理にかなっていますね」
「雨上がりの匂いは、ゲオスミンと呼ばれるアルコールの匂いです。土壌中の微生物が生成するとか」
突然の降雨に逃げ惑う鳥の羽音が、雨の軌道の隙間を縫って、私の鼓膜を刺激する。水溜まりに雫が融ける音が木霊する。午後の静寂を破る、たくさんの音。
この頽廃的な会話は雨音に掻き消され、他の誰にも届くことなく消滅していく。
私たちは無意味な知識を蓄え、無価値の音色に耳を傾け、人類という種から外れてしまった可哀想な社会不適応者として、奇異と軽蔑と憐憫の視線を浴びながら生きている。人類は私たちを遠ざけ、見て見ぬふりをして、当然のように社会を回す歯車としての役を受け持って生きている。
私たちは、傍から見れば呪われた生き物同然だろう。
しかし、明るく元気に人類共通の倫理に従い、善良なる小市民を振る舞い、近しい距離にある人間と社会的関係を結び、流行に身を委ね、当たり障りのない嗜好に時間を費やし、誰が見ても非の打ち所がない生活なんて、否応なしに演じなきゃならない日が来るはずだ。私たちは人類なのだ。楽園を追われ、兄弟を殺し、天空まで届くであろう塔の青写真を焼失した、哀れな生き物だ。その子孫として、せっかく与えられたものが、この栄誉ある頽廃の時代なのだ。楽しまずして何を楽しむ。
湿気たクッキーが喉の奥でざらついている。甘い香りを纏いながら。