平家にあらずは人にあらず、平家はまことの武士にあらず
平治の乱に敗れた源義朝は、無念の最期を遂げ、その遺志は頼朝、義経らに引き継がれることになる。
平家と源氏と、同じ武家同士、共に手を取り合って、国づくりを行うという選択肢は無かったのか・・・?
保元の乱を制した平家。さらに平治の乱にも勝利し、これにより、朝廷や貴族の内乱も、武士の力で解決することができるということを内外に示した。そしてついに、平家は武家で初めて、政権を取った。
ここまではよかった。しかし、その後だった。平家は武家でありながら、貴族のように振る舞った。
『公家かぶれ』なんて言われるようになった。
実際の公家以上に、公家のような振る舞い。
平家なんぞに政権取らせたのは間違いだった。あの者たちも、結局は自分たちの欲のため、自分たちだけが満足するためには、敵を踏み台にして、政権取った後は、専制的な施策などは知らぬ存ぜぬで、贅沢三昧。
公家=かつての貴族、それだけでなく、平家以外からの反発も招くようになる。
ああ、誰か平家をなんとかしてくれる者たちは、いないものか。
かつての平安貴族は、いつの頃からか、
公家と呼ばれるようになっていた。
亡き源義朝の遺児たち、頼朝は伊豆に流刑となり、牛若丸こと、後の義経は、鞍馬山に預けられていた。
頼朝や、義経が成長し、成人して力をつけるまで、待たねばならなかった。
やがて、このような言葉を口にするようになった。
『平家にあらずは人にあらず』
それほど、平家の権勢が磐石であり、他に並ぶものの無いほどのものであるということを表していた。
清盛を支えていたのは、息子たちだった。
長男 重盛
次男 基盛
三男 宗盛
四男 知盛
いずれ息子たちの代になる、と言いたいところだが、なにしろ父親があの清盛だからな・・・。
親が偉大すぎるのも考えものだ。越えられない親に対する劣等感、人格が歪む要因に挙げられるかも。
強いて言えば、長男の重盛だな。もしも重盛が、そのまま家督を継いでいたら、あるいは源氏との和睦もあったか?それとも、清盛に代わって平家の総大将となり、頼朝や義経や木曽義仲らに対して、果敢に戦いを挑んでいただろうか。
しかし、重盛のような者ほど、先に死ぬというのも、悲しい性と言うべきか。
清盛も、一番目をかけていたのは、この重盛だったかもしれない。もしも重盛が、このまま家督を継いでいたら、あるいは平家の栄華も、もう少し長く続いていたのかもしれない。
この時期は、まだ平家の全盛期であり、平家に対抗できる機運も高まってはいなかった。
虎視眈々と、その機会をうかがってはいたようだ・・・。
一方で清盛は、宋の国との貿易を考えていた。
清盛「わしは、宋と貿易を行おうと考えている。大陸の珍しい物なども入ってくるだろうし、お互いの国にとっての利益につながる。
そして何より、今のこの国の支配者が誰なのかを、示すことができる。」
いわゆる、日宋貿易というものだ。菅原道真によって、遣唐使が取りやめになって以来の、大陸との大規模な交易となった。
その頃、大陸では既に、北宋が北方の遊牧民の攻撃を受け、都を南に移し、南宋の時代となっていた。
清盛は、その南宋との交易に目をつけたのだった。