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平清盛

我が名は、(たいらの)清盛(きよもり)


平家の棟梁となる者だ。


源氏の者たちにとって私は、憎い敵だろう。


しかし、武家が政権を取るためには、たとえどんな残虐な手段、卑劣な手段であっても、取る必要があった。そうでもしなければ、摂関家から権力を奪うなど、できなかったからだ。


1118年、平忠盛の子として生まれる。


父、忠盛は、海賊退治などで名を馳せ、伊勢平氏として初めて昇殿を許された。

俺は、それに付き添った。宮中に入り、(みかど)に直にお目にかかれるということだから。


俺はそこで、藤原頼長と出会った。


頼長は俺より2つ年下だが、階級は上というエリートだという。


後に、保元の乱では敵同士になる者同士の、これが初対面だった。


若い頃は、俺は気ままに過ごしていたものだ。桓武平家の棟梁になることも考えずに、勝手気ままに生きていた。


父、忠盛は、武士の待遇改善、地位向上のために、尽力していた。俺はそんな父の背中を見て育った。


そんな父が、病に倒れたのは、1153年のことだった。


忠盛「清盛よ、父はもう長くはない。わしが死んだ後は、そなたが平家一門を盛り立てるのだ。頼んだぞ、清盛。」


公卿の仲間入りを果たす目前での、無念の最期。清盛は、この時の光景を忘れなかった。


この時、30代半ば、ようやく平家一門の棟梁としての風格も芽生え始めていた。


保元の乱では、叔父の平忠正、源氏の源為義らが、崇徳上皇側についた。


忠正「清盛、おぬしも崇徳側につかないか?」


誘いもあったが、結局は源義朝らとともに、後白河側についた。これで、源氏同士、平家同士が、敵味方に分かれて争うことは避けられない状況になった。


平忠正は、宇都宮家5代当主、宇都宮頼綱の祖父にもあたる。身内同士が敵味方に分かれて争う、非情な戦いともなった。


戦いの結果は、我々、後白河側についた者たちの勝利となった。


一方、崇徳上皇側についた者たちはというと、藤原頼長は戦死。


叔父の忠正は、この清盛が自らの手で処刑した。

巨万の富と権勢を手に入れた父や俺を、疎んじていたという。

そして、源為義は捕縛され、源義朝の手によって処刑されたという。


こうして、俺は名実ともに平家一門の棟梁としての地位を手に入れた。


義朝も、源氏の棟梁としての地位を手に入れた。


義朝の源氏と、俺の平家が、二大勢力と呼ばれるようになるが、それも束の間、今度は、保元の乱で勝った者同士が、今度は相争うことになる。それが、平治の乱だ。


後白河は、すっかり気を良くしていた。この後、この男も天皇を退いた後に、表向きは退いたということにして、上皇と名乗り、さらには法皇と名乗る。後白河法皇と名乗る。


そして、平治の乱。俺は義朝と戦った。


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