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保元の乱とは

まずは、保元の乱についての説明から。


保元の乱は、保元元年7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。


Wikipediaには、このように書かれてある。


保元の乱をもって、実質、平安の世は終わった。


後白河VS崇徳


後白河とは、後の後白河法皇となる、この時は後白河天皇。


藤原忠通VS藤原忠実、藤原頼長


平清盛、源義朝VS源為義


この時は、平清盛と源義朝は手を組んでいた。


このような構図だったという。そして、『平安末期の応仁の乱』とも表現してみた。


京都が主戦場となり、京都の立派な貴族の屋敷などが次々と燃えて、都が荒廃するに至ったこと。


藤原摂関家か、この乱をきっかけに権威が失墜し、武家が台頭するきっかけになったということ。


摂関家の凋落は、明らかだった。


かなり長い話になるが、まずは白河院政、鳥羽院政から。非常に簡単にまとめた。


1129年、白河上皇が崩御した後、鳥羽天皇が上皇となり、鳥羽院政を敷く。鳥羽上皇は藤原忠実を呼び戻した。


1141年に、鳥羽上皇は崇徳天皇に無理矢理退位を迫り、代わって近衛天皇を起用した。


藤原忠実には、忠通と、頼長という2人の男子がいたが、忠実は頼長を寵愛し、兄弟仲は犬猿の仲とも。


藤原忠通(兄)VS藤原頼長(弟)


また、忠通は崇徳上皇を敵視する。保元の乱では崇徳上皇と対立する後白河側についた。


後白河天皇、藤原忠通VS崇徳上皇


鳥羽院政となり、忠実、頼長父子が重用されるようになり、忠通と、忠実、頼長父子との対立は、修復不可能なほど激化する。


1150年、近衛天皇の元服の儀が行われる。


1153年、近衛天皇が重病におちいる。これは何者かが呪いをかけたという説もある。


1155年、近衛天皇が崩御する。


1156年、鳥羽上皇も崩御する。


藤原忠通は鳥羽上皇の権威を後ろ楯に、崇徳、藤原頼長へ圧力をかけていた。


鳥羽上皇は、自らの遺体を崇徳に見せるな、と言い残し、息を引き取る。葬儀はわずかな近親者のみで執り行った。


その後、崇徳上皇が上皇となる。後白河天皇が天皇となるが、この両者が対立し、保元の乱へとつながる。


このように、いろんな対立があって、お互いに、敵の敵は味方、という感じで、この時は手を組んで、利害関係の一致する者同士が、共に戦っていたわけだ。


さらに言えば、


源義朝(子)VS源為義(父)


平清盛(甥)VS平忠正(叔父)


という構図。父と子、兄と弟、叔父と甥、それぞれが後白河側、崇徳側に分かれて争った。


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