院政
院政とは、天皇がその座を退いた後に、上皇となって後ろから政治を操る、そうして実権を掌握し続ける、という政治のこと。
武家の時代になっても、前の将軍や執権が、その座を退いた後に、大御所となって、裏で政治を操り、実権を掌握し続ける、ということは、実はよくある話だった。
白河天皇という天皇がいた。摂関家から実権を奪い、約40年にわたり上皇として君臨し、院政を行ったという。
1074年に藤原頼通が死に、さらに1075年には、藤原道長の五男の教通が死去する。実力者を相次いで失った摂関家。
白河天皇は、父である第71代天皇の後三条天皇から天皇の座を譲り受け、第72代の天皇に即位する。
最初に院政を行ったのは、この白河天皇だったが、実は最初から院政に乗り気ではなく、いろんな複雑な事情があって、結果的に院政を行う形になったという。
第73代天皇の堀河天皇に譲位し、白河上皇と名乗る。
藤原氏は、頼通、教通が相次いで死去した後に、師実、さらにその子の師通が関白となる。
しかし、師通が働き盛りの年齢で死去する。
働き盛りの年齢で死去するということは、まだ医療も未発達の時代、急病死も珍しくなかったのかもしれないが、科学技術も未発達の時代、迷信が信じられていた時代、怨霊の仕業とか、あるいは呪いをかけられて殺されたという憶測もあった。
さらに、譲位した堀河天皇が病没。
それからさらに、師実も2年後に死去。
藤原氏は、頼通、教通、師実、師通と、相次いで当主が死去。
そして、第74代天皇に鳥羽天皇が即位する。
それ以降、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽と、院政の時代になる。
さて、藤原氏から、院政となり、上皇が政治を行う時代になっても、武家は相変わらず、朝廷の家来としての宮仕え、あるいは地方の領主、というような立場だった。いつの日か、天皇や貴族に取って代わり、武家の時代を築く、そのためには、武家がその頂点に立つしかない。
貴族たちを追い落として、武家がその立場に立つ、という思いを、代々、ずっと抱いていた。そのためには、貴族に対して戦を仕掛ける、というのが一つの手だ。
平和な時代が幻想となり、平安の世が音を立てて崩れ去っていく。
武家の時代の足音が、ひたひたと迫っていた。