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六波羅探題成立

再び、承久の乱のような反乱が起こらないようにするため、朝廷の動向を監視する必要性に迫られた。


そこで、朝廷の公家たちの動向を監視するために、六波羅(ろくはら)探題(たんだい)が成立した。

六波羅(ろくはら)探題(たんだい)は、北方と南方に分かれる。

北方は赤橋家、常盤家、普恩寺家が務め、南方は大仏家、金沢家、佐介家と鎌倉に居所を構える北条氏一門で独占された。


分かりやすくいえば、公家たちを狭い御所の中に囲い込み、首根っこを押さえつけるという役割だ。


これ以降、江戸の幕末に至るまで、天皇、公家は、武家の監視下で過ごすことになる。


いわば、この時代から天皇は既に象徴天皇制となっていた、ともいえる。


しかしながら、よくよく考えてみたら、この時に

ひとおもいに、朝廷を完全に潰そうと思えば潰せた、という機会はいくらでもあったのではないか。


それをしなかったのは、幕府もまた朝廷の力を自分たちの都合のいいように利用していたから、ではないか。

蘇我氏に始まり、藤原氏も、そして平家、源氏、さらには北条も、朝廷と持ちつ持たれつで、朝廷の威光があるから幕府もまた威光を保てる、さしずめ、そういったところだ。


六波羅探題は当初、北条泰時、時房が、承久の乱の後にそのまま京都にとどまり、乱後の処理にあたったという。


1224年に、2代執権の北条義時が死去すると、3代執権となるため、泰時は京都から鎌倉に戻ることになる。


その後、泰時は初めての武家のための法律となる

()成敗(せいばい)式目(しきもく)』を制定する。


武家のための法律を作る。それは武家にも決まりごとを守らせることで、再び朝廷に反撃する機会をつくらせないこと、そして、武家が公家と対等な関係であること、そのためのものだったと考えられる。


後に、徳川家康も『武家(ぶけ)(しょ)法度(はっと)』を制定する際に、『()成敗(せいばい)式目(しきもく)』を参考にしている。


泰時の時代になると、朝廷と幕府のパワーバランスも保たれ、幕府の組織、制度もほぼ整い、比較的安定期に入ったようだった。


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