安徳上皇
安徳天皇が生きていた!京の都でも話題になり、そして公家たちも、てんやわんやの大騒ぎ。
しかも、三種の神器の中で唯一行方不明になっていた、宝剣を持ってきたという。
しかしこれは、例えば誰かが、安徳天皇の名を騙る偽者だと指摘すれば、その場にて成敗されても、そのままうやむやにされてしまう、というリスクもある行動だった。
一同に会し、安徳天皇を出迎えることを決めたのだが、その安徳天皇が発した言葉は、意外なものだった。
安徳「朕は、天皇の地位を後鳥羽に譲り、安徳上皇と名乗る!後鳥羽、あとのことは、よきにはからえ。」
安徳天皇は正式に退位を発表。後鳥羽天皇への譲位を決めた。
「よきにはからえ」は、表向きは、もうあとはお前の好きなようにやれ、という意味だが、長らくこの国では、上皇が裏で天皇を動かしていたのだから、裏から糸を引いて、動きを牽制する、監視するぞ、という意味で、代わりの人間にすぐにすげ替えられる、ということなのか。
その後、母の建礼門院徳子が、地元の漁師らの手によって助け出されたことを知るや、一目散に駆けつける。
「母上!」
「安徳!安徳ではないか。一度はそなたを道連れに死のうとしたこの母を、母と呼んでくれるのですか?」
その後、平家一門の菩提を弔うこと、祖父の清盛のための供養搭を建立することを決め、これで天皇としての職務を終え、安徳上皇として、平家の落人たちのいる農村で、スローライフを満喫することを決めた。
上皇自らが、農民に混じって農作業。こんなことは、歴史上初めてのことだ。仮にも現人神だぞ、天皇は。その天皇が、自ら農民とともに、田植えをしたり、稲刈りをしたり、畑を耕して野菜などを栽培し、堆肥を撒いたりするという。
やっぱり天皇は、ただ上に乗っかっているだけのお飾りの人形で、実際には、蘇我とか藤原とか平家とかが動かしていたんだ。
その後の安徳天皇。
「平家を滅ぼした後の源氏の大将たちが、その後、どうなっていったのかも、ちゃんと見届けたよ。」
安徳、12歳。あの時、檀ノ浦で八艘飛びを披露した義経は、平泉の地で藤原泰衡の軍勢に討ち滅ぼされ、その後、泰衡もまた、頼朝に討ち滅ぼされる。こうして奥州藤原氏は、その歴史に幕を下ろした。
しかし義経は死んではおらず、その後、蝦夷地に渡ったとも、さらにそこから大陸に渡り、チンギス・ハーンになった、というような話もあるという。
史実では8歳までしか生きられなかったんだから、今度は、長生きするだけ長生きしてやろうと。
徳川慶喜の、将軍辞めた後の隠居の日々みたいだな。かつての政敵が次々と死を迎えるのを見届けるまで、長生きしたという。それこそが、実はかつての政敵に対する復讐でもあったのか。
安徳、15歳。この年、後白河法王が逝去する。
頼朝が、鎌倉幕府を開き、守護や地頭などの制度を整える。
そして、さらに時が流れた。歳月は時限爆弾の如く、命を奪うともいう。
安徳、22歳。頼朝が落馬して命を落とし、ここから幕府内部での権力争い、殺し合いが始まる。
源氏の嫡流は、わずか3代で途絶え、代わって京の都から、4代将軍として藤原【九条】頼経が迎えられる。ああ、こいつも自分と同じく、飾り物の人形だな。この時、安徳は42歳になっていた。
そして、後鳥羽上皇が承久の乱で敗れ、隠岐に流罪になるところまで、見届けた。