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貴族の衰え、武士の台頭

時は平安時代中期、平安貴族の最盛期、まだ武家が貴族に取ってかわる機運は無かった。


1051年に、前九年の役に源頼義が陸奥守として赴き、その約20年後の後三年の役に源義家が陸奥守として赴いた。

朝廷の命令を受け、命令通りに任務を遂行するというのが、武家の役割とされていた。




平安京に都が移り、都で平安貴族たちが華やかな生活をしているさなか、地方では国司(こくし)と呼ばれる役人が、その権限を利用してやりたい放題。


国司(こくし)は、都に納める分の税金さえ確保すれば、残りは自分たちのものにしてもよいという権限が与えられた。だから国司(こくし)は、たくさん税金を取ることに励む。そのため庶民の生活は苦しくなり、不満が高まる。


まともに働いても、働いても、いくら働いても、みんな国司(こくし)に税金として取り立てられてしまう、だから、まともに働くのがバカらしくなる。

そのため、治安が悪化していく。

その一方で、都でも、泥棒が貴族の屋敷に入り込むことがたびたびあった。


そうした中で、自分たちの身を守るために武装する、一方で貴族たちも、そうして武装した者たちを金で雇う。そうして、武士のおこりとなる。


武器を持って戦うことで実力を示し、そうして文字通り、武勲を立てる。上に立てるかどうかは全て、実力次第という世界。


都では、藤原道長という者が実権を握り、他に並び立つ者は無し、という状況だった。


『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』


まさに、この歌の内容の通りの権勢、栄華。


2024年の大河ドラマ『光る君へ』にも、藤原道長は登場する予定だ。


道長は、娘4人を次々と天皇の妃とし、さらには、その娘たちが産んだ子たち、道長から見て、孫にあたる、その3人の孫たちが次々と天皇になるという、まさに他に並び立つ者は無し、という無双状態といえた。

道長は、摂政(せっしょう)関白(かんぱく)太政(だじょう)大臣(だいじん)を歴任し、その政治手法のことを『摂関(せっかん)政治(せいじ)』と呼ぶようになり、藤原氏のことは『摂関(せっかん)()』と呼ばれるようになる。

周囲も、摂関(せっかん)()にいかに取り入って良くしてもらうかということばかりを考えるようになっていた。

1028年に道長が没した後も、子の頼通が後を継ぎ、藤原氏の栄華は続いた。

頼通は、道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、家督を継いだ。

しかし、1074年に頼通も没すると、貴族の力が次第に衰えていく。


藤原氏はもとより、貴族自体の力が衰え、いよいよもって、武士の時代に移り変わっていく。


貴族の支配体制への失望と、武士への期待。それもあったやもしれぬ。


摂関(せっかん)()は、鎌倉時代に入ると、近衛(このえ)九条(くじょう)一条(いちじょう)二条(にじょう)鷹司(たかつかさ)五摂家(ごせっけ)に分かれることになる。


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