一ノ谷、屋島
私の名は、平敦盛。この一ノ谷の地で、最期の時を迎えた。
後白河「実はのう、平家の都落ちの時に、三種の神器が持ち去られたのだ。」
三種の神器とは、剣と、勾玉と、鏡のこと。
三種の神器の名前は?
古代から連綿と現代に伝わる「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「八咫鏡」(やたのかがみ)は三種の神器と呼ばれ、日本国の象徴である天皇家に受け継がれてきました。
後白河「その、三種の神器が平家に持ち去られたのだ!
三種の神器が失われることの無いように、以後の戦いは、慎重にな。
間違っても、私怨に駆られ、攻め急ぐことのないように、慎重にな。」
その、三種の神器が無いと、天皇の即位の儀式が執り行えないから、というのが理由だ。
公家連中がまた、無理難題を吹っ掛けてきた。
無理難題の解決もあるが、とにかく平家との戦いの決着を着けたい、というのが本音だった。
頼朝「倶利伽羅峠での敗戦から、都落ち、平家軍の戦意はかなり落ちていると思われる。
この機会を逃すことなく、平家を討ち滅ぼすべく、出陣する。
敵が態勢を立て直すより前に、これを攻め、そして一気に叩く!」
義経「西国を中心に、まだ平家の力は根強い。
放っておけば、平家軍は態勢を立て直し、我らの前に立ち塞がる。
その前に、こちらから攻めに行く。」
平家軍は、一ノ谷に集結しているという。
義経「兄から、我らに助言をしてくれる情報屋がいると聞いたのだが、そなたか?」
情報屋「房総の武将、武蔵の坂東武士たちを味方につける時も、私が頼朝様に助言をしたのです。」
義経「して、この坂を下れば、平家の陣地に奇襲を仕掛けられると聞いたのだが?」
猟師「とんでもありません。なにしろ、このあたりの坂は、鹿くらいしか通ったことが無いのですから。」
情報屋「鹿が通れるなら、馬も通れるかもしれません。」
義経「何!?そうか、鹿が通れるなら馬も通れるのか。」
兵士「なんと、そのような戯れ言を信じると!?」
義経「戯れ言かどうか、試してみよ。手綱さばきは誤るな、ものども続け!」
義経は、華麗な手綱さばきで坂道を駆け下りる。
兵士「義経様に続けー!おくれをとるなー!」
後に続く兵たちも、次々と坂道を駆け下りる。
突然の攻撃に平家軍は、慌てふためき、騎馬武者も、弓兵も、長槍兵も、みるみる数を減らしていった。
この戦いのさなかに、ある平家一門の者を見つけた。平敦盛だ。
熊谷直実と、平敦盛とのエピソードも有名。
熊谷直実が見つけた時は、抵抗するそぶりも見せず、ただ「首を取れ」と一言。直実は泣く泣く首を取ったという。
わずか17歳の、笛を吹いているような、温厚な少年までも、平家の大将だからという理由で切らねばならぬ、熊谷直実の苦悩がうかがえる内容だ。
この戦いも、源氏の一方的な勝利。平敦盛をはじめ、平家一門の多くが戦死。その後も、平家一門を一人残らず根絶やしにするまで戦いを続ける構えとなった。
範頼軍は平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、義経・安田義定軍は、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われている。
ただし、『平家物語』や『吾妻鏡』など文献によって戦死者は多少異なっている。この戦いで一門の多くを失った平家は致命的な大打撃をうける。
どれほどの人数か、正確な人数も把握できないほどに、多くの者たちが戦いに散っていった。
特に、清盛の孫世代である、将来の平家一門を率いていったはずの者たちの多くを失ったことが痛かった。
平敦盛、平知章などは、平家一門が存続していたなら、平家一門の第三世代の中心人物になっていたやもしれない。
ただし、この戦いでも三種の神器の奪還はならず、屋島、檀ノ浦と、戦いは続いていく。
三種の神器も戻らず、なおかつ安徳天皇も平家軍が連れ去り、こうなれば、安徳天皇に代わる天皇を擁立しよう、という話が、公卿たちの間から持ち上がった。
こうして擁立されたのが、第82代天皇の後鳥羽天皇だった。安徳天皇の異母弟にあたる。
こうして史上初、三種の神器の無いまま、即位の儀式が行われた。
公卿「かくなるうえは、安徳はもはや用済み、病死した、あるいは賊に襲われたとか、何でもいいから、適当な理由をつけろ。」
一方で、平家軍の疲弊は大きく、三種の神器をなんとか死守することが目的のようになっていた。
一方で、源氏軍は、あの情報屋の正体が気にかかっていた。
義経「なぜだ、我々に有利な助言を与えながら、自らは正体を明かそうとしない。
噂では、この時代の者ではなく、未来の、遠い未来から来た者で、この戦いの結末を知っていて、あえてそれを伝えに来ているのではないか・・・?」
頼朝は、例の情報屋が習ってきた歴史について聞いていた。
頼朝「なるほどな、兄弟喧嘩はほどほどに、また新たな戦の火種にならないように、という警告もしてきた。
言っておくが、あやつの言うことを完全に信じておるわけではない。不都合な史実であれば、変えてみせるとも。
わしが、鎌倉に幕府を開いた後に、落馬して死ぬだと?それはあり得ない。」
頼朝は、少しニヤリとした。それを裏で聞いていた情報屋も、少しニヤリとした。
屋島の戦いは、那須与一が扇の的を射抜いたというイメージしかないだろう。
『平家物語』の『扇の的』で有名な話。その後、
五十才くらいの鎧武者が船上で踊り始めたので、
義経が、あれも射よと那須与一に命じた。そして、那須与一は見事にあの鎧武者を射抜いた、という話がある。
範頼の率いる軍勢が、山陽道から九州に進軍。
九州も既に範疇に収めたことで、平家軍はいよいよ追い詰められ、最後の決戦の地、檀ノ浦で迎え撃つことに。