石橋山~上総広常との出会い~千葉常胤、江戸重長との出会い
私は、源頼朝。
石橋山の戦いでは、平家軍との圧倒的な兵力の差を痛感した。我が軍は300余騎、敵方は3000余騎を差し向けてきた。
石橋山の戦いで敗れ、さてこの先どうしようかと、途方にくれていた時に、情報屋と名乗る妙な男が現れ、私に進言した。
「この先、房州に逃れるとよいでしょう。舟も用意してあります。
そして、房州にたどり着いたら、上総広常と、千葉常胤と、それと、江戸重長という人物たちに会いに行き、味方につけるよう、交渉するのです。」
情報屋は、それだけ言うと、姿を消した。
この情報屋とは、何者なのか?半信半疑ではあったが、他に思い当たる策も見当たらず、房州に向かう舟に乗ることにした。
三浦半島から、舟で向かうと、安房の国にたどり着く。
安房の国から、陸路で上総の国へと向かう。そこで我々は、ある一団に囲まれ、その一団の大将らしき者のところへ、連れていかれた。
どうやら、この大将こそが、あの情報屋の口にしていた、上総広常のようだ。
「上総広常だ。」
上総の国を治めているから、上総広常という。
私は、広常を試していた。広常が本当に、私が味方につけるに値する者であるのかどうかを。
広常も、私を試していた。私が本当に、己が加勢するに値する大将であるのかどうかを。
「翌日まで、答えを待て。」
とりあえず、翌日まで待つことに。
翌朝、起きてみると、そこには広常の2万人の軍勢がいた。実は広常は、はなっから源氏軍に味方するつもりだったようだ。
素直に喜びたかったところだが、あえて心を鬼にして、言い放つ。
「遅いぞ!今頃になって来るとは!」
わざと、このように言った。すると、広常は意外な反応を見せた。
「ふはははは、その心意気、義朝様にそっくりじゃな。」
上総広常を味方につけるかどうかで、勝ち負けが決まるといっても過言ではないという、重大な局面だった。
次に、現在の千葉県千葉市の、亥鼻のあたりに向かう。加曽利貝塚も近くにある。
広常「千葉の爺さんに会いに行こう。」
ここの城主は、千葉の爺さんと呼ばれているらしい。ちなみに、今ある亥鼻城は、観光用に建てられた、いわゆる『なんちゃって天守閣』らしい。
全国に今ある城の多くは、いわゆる観光用の『なんちゃって天守閣』で、中身は歴史資料館になっている。
とりあえず、千葉の爺さんに会いに行く。
千葉「おお!広常から話は聞いていたぞ!」
この人物が、千葉常胤。なんと、実にあっさりと、2人目も味方につけた。
しかも、千葉常胤の率いる兵力も、そっくりそのまま、味方につけた。
千葉常胤は、『千葉』という地名の由来になった人物といわれる。
そこから、千葉、稲毛、検見川、幕張、津田沼、船橋、市川と、今の総武線沿線のルートをたどり、江戸川を越えて、やがて今の両国、今は『隅田川花火大会』で有名な、隅田川へとたどり着く。
このあたりの領主は、江戸重長という。『江戸』という地名の由来になった人物であるということは、容易に想像がついた。
しかし、この当時の江戸は、今の東京や、江戸とはずいぶん様相が異なる。現代の姿からは想像もできないような、未開の地。
江戸重長率いる軍勢が、姿を現した。
江戸「上総と、千葉を味方につけたということは、この江戸にとっても味方だということだな。」
なんと、江戸重長も、あっさりと味方についたではないか!これも全て、あの情報屋と名乗る男が、最初に言った通りになったではないか!
まさか、あの情報屋と、上総、千葉、江戸、みんなで示し合わせていたのではないか!?と思ったが、
とにもかくにも、これで3万~4万くらいは集まったか、いや、もっと集まる。
比企とか、畠山とか、武蔵国の坂東武士の兵力を集めたら、ざっと20万人くらいにはなる。
私は最後に、平将門公の首塚が奉られている、あの場所へと向かい、手を合わせた。
いわば、必勝祈願だ。