武家の動向、公家の役割
なんと恐ろしい、もともと戦いをなりわいとするとはいいながら、昨日の友が今日の敵になるという、武家という世界。
ある戦いで、味方となって手を組んで戦っていた者同士が、その戦いに勝利して、天下を取って、政権を担うこととなり、主導権を争うとなった途端に、手のひらを返すようにして、今度は敵同士となって戦う。そしてまた殺し合う。
時折、麿は外の様子を見に行くことがある。
公家とて、そうそういつも御所にばかり、こもっているわけにはいくまい。
見た感じ、百姓の子と思われる少年が、公家である麿に対して、このようなことを言っておった。
「公家なんて、自分たちでは戦いもしないで、武家に戦いを任せて、自分たちは御所の中にいて、武家同士戦わせて、裏で操って、高見の見物しているだけじゃないか!
それで、戦いの結果がどっちになっても、有利な方になびくんだろ?
これだから公家は、武家に取って代わられたんだよな!」
実際、源氏と平家を争わせて、内心は、力を使い果たすまで戦を続けて、最終的には源氏も平家も、共倒れになってくれれば、などと、よからぬ考えがあったのも、また事実だ。
御所に戻る。帰るなり、ある人物に呼ばれた。
そこには、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者となる、藤原定家がいた。
定家「なに、公家というのは、本来、戦いには赴かず、和歌を詠んだり、書を書いたり、蹴鞠に興じたりして、穏やかに、緩やかに時を過ごすものなのじゃよ。
早う、戦が無くなり、和歌や蹴鞠ばかりを、興じておれば良いような世に、ならぬものかのう。」
定家の言うことも一理あり、と感じた麿であった。
源氏の動きが気になる。以仁王が挙兵したものの、事前に平家方に知られ、討ち死にされたというのは、まことに残念至極。
以仁王の勅命が、頼朝や、九郎義経の耳にも入り、頼朝は伊豆から抜け出し、石橋山にて平家軍に戦いを挑むとか。
義経は、木曽義仲のもとへ。そして、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡を頼るとか。恐らくはこの後、平泉から関東に下り、兄の頼朝と合流するというのは、間違いない。
武家の世に移る中で、公家の役割とは何なのかと、このところよく考える。
政治的、軍事的な貢献だけが貢献ではない。文化的な貢献、古来よりの伝統的な楽器や和歌、装束のまとい方、整え方、そして何より、古典文学作品の継承。
後の世の、国語という授業で習う、古典文学作品の継承。そして何より、歴史書、歴史に関する資料の継承だ!
戦などで失われる懸念のある文書を書き写し、その内容を継承していくのが、役割の一つである。