源氏の世こそ、まことの武士の世、鎌倉へ
以仁王は怒っていた。
「もはや我慢ならん!これではまるで、清盛が帝ではないか!」
以仁王。高倉天皇の兄であったが、安徳天皇が即位したことにより、次期天皇の芽は絶たれる。
「かくなるうえは、清盛を殺し、正しき世を取り戻すのだ!
安徳だと!?はん!あのガキ、本当に天皇家の正当な血筋なのかどうか、わかったものではない!
なにしろ、生母は清盛の娘、徳子なのだからな。」
「以仁王の令旨」が発布された。
以仁王は、後白河法王の第三皇子。
第一皇子は第78代天皇の二条天皇、その二条天皇の皇子が第79代天皇の六条天皇。
二条天皇は若くして死去、六条天皇もやはり若くして死去。
以仁王の弟の高倉天皇が第80代天皇となる。
その高倉天皇が清盛の独断により、高倉院政を行うことになる。
そして、これも清盛の独断により、高倉天皇の妃となっていた娘の徳子に産ませた、
わずか3歳の安徳天皇が第81代の天皇となったという経緯だ。
以仁王「筋からいっても、私が次期天皇になるところを!清盛め!」
源頼政「わしも、以仁王に賛同いたす。」
以仁王や、源頼政らが、清盛を殺そうとしたものの、この計画は、事前に清盛に知れてしまう。
1000騎ほどの兵で迎え撃つも、多勢に無勢となり、以仁王、源頼政らは討ち死に。
以仁王が挙兵したことは、伊豆の頼朝のもとにも伝えられる。
頼朝「以仁王様・・・、あなたさまの死は、決して無駄にはいたしませぬ。」
頼朝が挙兵を決意。ここから、武家と公家の物語は、また動き始める。
「亡き父、義朝の無念を晴らすため、以仁王様、頼政殿の無念を晴らすため、この頼朝、ただ今より挙兵いたす!」
表向きは、このような理由。しかし裏では、
「いつまでも、あのような公家かぶれの、公家の猿真似をしているような者どもに、任せておけるか!
清盛の威光がなければ、何もできぬような連中ばかりではないか!」
というのも、理由の一つだったのかもしれない。
頼朝「まずは、こちらの味方を増やすことだ。誰を味方につけるかによっても、勝ち負けに関わる。
敵方であっても、有能な者は、こちらの味方につける。敵方よりも好条件をだせば、寄ってくるというもの。
結果的に、敵方の戦力をそぎおとし、こちらの戦力は増大する。」
頼朝は、平家打倒の第一歩を歩み始めた。