第十七章―密やかに存在するもの―#6
白狼が、こちらへ来たときと同様、湖の水面に下り立った。
白狼の足元に魔力が集まっているのを感じ、【心眼】で見てみると、足元に魔力を集めて固め、宙に浮いているようだ。
これは────固定魔法?
白狼の真似をして、皆が歩けるように、水面に【結界】を応用した“魔素の道”を創り出してみる。
水面に下り足場が安定しているのを確認してから、湖岸に立つ皆の方へ振り向いた。
「道を創りましたから、私の傍に下りてみてください」
真っ先に下りたのはレド様だ。ジグとレナスが続いて下りると、アーシャが元気よく飛び下り、ラムルとカデアが恐る恐る下り立った。
「不思議な感覚だな」
「ふふ、そうですね。────さて、後を追いましょうか。皆、私の傍から離れないでください」
ジグとレナスは、ますます忍者みたいだな────なんて思いつつ、水面に魔素の道を敷きながら、先を歩く白狼の後を追う。
湖の上を渡る風が意外と強く、遮蔽物もないので、髪や装備が翻弄される。それに気づいたレド様が、私に当たる風を遮るように、さりげなく立ち位置を変えてくれた。
「ありがとうございます、レド様」
「気にするな」
そう応えてくれたレド様に、私は何となく手を繋ぎたくなって────レド様の手を握る。
レド様は、いつものように握り返してくれた。
ふと一番小さくて軽いアーシャが心配になって、後ろを振り返った。カデアが、アーシャを風から庇うように並んでくれている。
カデアはアーシャのことを何かと気にかけ、可愛がってくれているようで────アーシャもカデアに懐いているみたいだ。
アーシャに良くしてくれるカデアに、後で何かお礼をしたいな。
湖の真ん中まで来ると、声を上げたくなった。
陽光に煌く水面は光の平原のようで、いつまでも歩いていたいような美しさがあった。
そんな私に気づいたレド様が、優しい声音で囁いた。
「また時間を見つけて、一緒に来て────ゆっくり散歩しよう」
レド様の言葉が嬉しくて────初めてサンルームを案内してくれたときを思い出して、胸が熱くなるのを感じながら、私は頷いた。
湖を渡り終えた白狼は、森の中へと入っていった。
後を追って森に踏み入ると、すぐに鬱蒼とした木々に覆われた。木々が作り出す闇を、木漏れ日が柔らかくしている。
不意に、蛍のような小さな光の塊が、ふわりと横切った。
見回せば、幾つもの光球がふわふわと漂い、木漏れ日と共に闇を和らげている。
その光景に見入っていたら、草木の合間に小さな動物が見え隠れしていることに気づいた。
どの子も、円らな瞳を覗かせて────興味津々といった感じでこちらを見ている。
その様子が物凄く可愛くて、眼が合った子に微笑みかける。それにつられたのか、ひょっこりと姿を見せた。
栗鼠に似ているその子は器用に木の枝を伝い、歩いている私の肩に跳び移ってきた。白炎様のように、私の頬に頭を擦りつける。
すべすべの毛が気持ち良くて、思わず口元が緩む。
すると、似たような子が、次々に肩や頭の上に何匹も跳び乗ってきた。小鳥に似ている子もいる。
<<<こら、神子姫を困らせるな。後にしろ>>>
前を歩く白狼が振り向いて言うと、瞬く間に誰もいなくなった。
……後ならいいの?
◇◇◇
「…っ」
白狼の先導で森を抜け、そこに辿り着いたとき、あまりに幻想的な───現実とは思えない、その美しい光景に、私は息を呑んだ。
ぽっかりと空間が現れたのは先程と同じだったが、そこにあったのは、湖でなく────あの湖に匹敵するくらいの大樹だった。
一体、どれくらいの時を経ているのか────小さな町くらいはある。
全長も周囲の森の木々などより遥かに高く、下手をすれば小さな山より高い。ところどころ苔むした幹に、木漏れ日が模様を描いていた。
これが────ネロが話していた“精霊樹”。
この大樹だけでも、現実とは思えない光景なのに────その精霊樹を取り巻くように、木漏れ日を受けて銀色に煌めく鱗を纏った魚たちが、宙を泳いでいる。
森を抜け出た私の横を、“リュウグウノツカイ”という深海魚に似た───平べったい銀色の魚が、解いたリボンのようなその身体と赤い背びれを閃かせ、通り過ぎていく。
頭上には、“エイ”によく似た魚が、“凧”のように宙を滑空している。
よく見ると、透き通った“クラゲ”のようなものも、辺りを漂っていた。
「すごい…。海の中にいるみたい…」
差し伸べた私の手に、“クマノミ”に似た───色鮮やかなオレンジ色の小魚が群がる。
<<<あれらが海より来たものたちだと、よく解ったな>>>
それまで淡々としていた白狼が、驚いたようにこちらを振り向いた。
「あれは、海に棲む生き物なのか?」
レド様の声音にも、驚きが滲んでいた。
そうか───内陸に住んでいたら、魚とかクラゲとか知らないよね。魚が料理に出たとしても、レド様の場合は調理された状態だろうし。
「この子たちも、あちらを泳いでいるのも、“魚”という生き物です。本来は、水の中に生息するものなんですが…」
「あれが、魚なのか…」
レド様が、あどけない子供のように呟く。レド様だけでなく、他の皆も声は上げていないけれど、かなり驚いているようだ。
「ふふ。行きましょう、レド様」
興味深げに辺りを見回すレド様の手を引いて、再び歩き出した白狼の後を追う。レド様は、私の手を握り返して歩き出しながらも、周囲を見回すのを止めない。
そんなレド様が可愛くて────余計に笑みが零れた。
白狼は精霊樹の許へ向かい、幹に沿って精霊樹の裏側へと回る。白狼を追いかけて精霊樹に近寄って、改めてその巨大さを思い知った。
それにしても、精霊樹から放出される魔素が濃い。あまりにも充満していて────少し息苦しく感じた。
白狼が立ち止まったので、私たちも足を止める。
白狼が顔を向けている方に視線を遣ると、土へと潜る精霊樹の太い根元の合間に嵌るようにして蹲る───レド様のお邸ほどもある純白の塊が目に入った。
最初は、それが何か判らなかった。
“それ”は、私たちの存在に気づき、その身を起こした。長い首を擡げて、こちらを向く。
「まさか────ドラゴン…?」
誰が呟いたのか────その存在に圧倒されていた私は、認識できなかった。
そう、目の前にいる“それ”は────滑らかな純白の鱗と湖に降り注いでいた陽光のような金色の瞳を持つ、古より数多の生物に君臨するという────巨大なドラゴンだ。
私たちは言葉を失って、ただ立ち尽くす。
ざわ───と項の下に鳥肌が立った。白狼が、私たちに姿を現してまで懇願した訳が理解できる。
見た目からは判らないが、ドラゴンは確かに魔素に蝕まれている────“禍”に蝕まれていた白炎様のように。
私は、無意識に【心眼】を発動させて、彼の竜を視る。
【聖竜アルデルファルム】
すべての精霊・精霊獣を統べ、「精霊王」と称される古より存在する竜。海より出でて、神竜ガルファルリエムに仕えていたという聖竜。
その身の9割がたを、魔素に呑まれており、魔獣化しつつある。
「“聖竜”…?」
“聖竜”という名称は聞いたことがないが、“精霊王”の方は聞いたことがある。まさか、ドラゴンだったなんて─────
このドラゴンが────魔獣化?
考えるだけで血の気が引いた。魔獣化されてしまったら、おそらく被害はこの森だけでは済まない。
“聖騎士の正装”を纏って討伐することはできたとしても、被害は相当なものになるはずだ。
でも、このドラゴン───アルデルファルムは、魔獣化の危機にあって、何故こんな魔素の濃い場所にいるのだろうと思ったものの、すぐに精霊樹の根が魔素を吸収していることに気が付いた。
根から魔素を吸い上げて、幹から放出しているの?────少し疑問に思ったけど、検証は後回しだ。
アルデルファルムはこちらを見ていたが、その視線は一点に注がれていた。白狼でも私でも、後ろに控える仲間たちでもない。
その視線の先は────
<<<まさか────ガンドニエルム…、貴方なのですか…?>>>
アルデルファルムが、レド様を真っ直ぐに見つめて、感極まったように呟く。
ガンドニエルム────それは、神代に神々が築いたという“楽園”の名だったはずだ。
このドラゴンは、どうしてレド様をそう呼ぶのだろう。
レド様も、困惑したような表情を浮かべている。
「俺はルガレドだ」
<<<そうか…、転生なさったのですね>>>
レド様の魂魄の根源である、ガルファルリエムと神子の間に生まれた子供は“ガンドニエルム”という名だった───ということ?
だけど────何故、それが楽園の名に?
<<<ああ───最期に、こうしてまた貴方に逢えようとは────>>>
最期────その言葉に、衝撃を受けたように、レド様は眼を見開いた。
確かに、アルデルファルムは魔素を何とか押し止めているようだが────それも時間の問題だ。
<<<ガンドニエルム────いえ、ルガレド、お願いです。魔獣化して、この精霊の棲まう最後の森を────私の可愛い子供たちを襲い、食い潰してしまう前に…、どうか────私を貴方のその手で屠ってください>>>
<<<そんな────長…!>>>
白狼が、叫ぶ。
「俺が────この手で…?」
レド様も動揺を隠せない。声も手も────心なしか…、震えている。
ああ…、記憶はなくとも、このドラゴンはレド様にとって大事な存在なんだ。
それならば────私のやるべきことは一つだ。
「レド様、大丈夫です。私に───私に任せてください」
「リゼ?」
「ここで見ていてください、レド様」
レド様の眼を見て告げると、レド様は一瞬眼を見張った後、息を吐いて動揺を治めて口を開いた。
「……解った。リゼに任せる。どうか───無茶だけはしないでくれ」
私はレド様に頷いてから、アルデルファルムの方へ向かって歩き出す。そして、白狼に擦れ違いざま、笑いかけた。
「大丈夫────あなた方の長を、きっと助けてみせますから」




