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序章―対極の月―#3


 ジェスレム皇子から無事に逃れて、レーヴァ邸に帰り着くと、誰からともなく溜息が漏れ出た。


「まさか、本当にダンスを申し込んで来るとは思いませんでした」


 おじ様から忠告は受けていたのだ。おそらく、ジェスレム皇子が私に接触してくるはずだ───と。


 ゾアブラによると、どうも、ジェスレム皇子は私を自分の親衛騎士にしたいと宣っていたらしく────それを聴いて激昂したレド様を宥めるのは、本当に大変だった。


「俺は絶対に来ると思っていた。────ロウェルダ公爵から釘を刺されていなければ、叩きのめしてやったものを」



 ジェスレム皇子は、教会で魔獣に襲われたことがトラウマになっているそうだ。


 その上、レド様に本気で威圧でもされて、それが新たなトラウマになってしまえば────ジェスレム皇子は、今度こそ自室から出て来なくなるかもしれない。それでは、こちらとしても都合が悪い。


 だから、無難に受け流して欲しいとおじ様にお願いされていた。



「だが───これで解ったろう、リゼ。これからは、もっと警戒してくれ」

「はい、気をつけるようにします」


 レド様の言葉に、私は素直に頷く。


 私に向けられた、あの───ねっとりとした視線を鑑みるに、ジェスレム皇子が私に執着しているのは確かなようだ。


 おじ様から話を聴いたときは、ただ単にレド様から私を取り上げたいだけなのではないかと思っていたのだけれど、それだけではないらしい。


 ジェスレム皇子の気色悪い笑顔と視線を改めて思い出すと、鳥肌が立った。言われるまでもなく、近づきたくない。



「旦那様、リゼラ様───ダイニングルームの方に、お茶の準備ができております。一息つかれてはいかがでしょう」


「そうだな。この後にも予定が控えていることだし────着替えて、一息つくとしよう。行こう、リゼ」

「はい、レド様」



◇◇◇



 このレーヴァ邸に迎えの使者が訪れたのは、それから1時間ほど経ってからだった。


 その使者は────“契約の儀”で進行役を務め、“新成人を祝う夜会”では皇王陛下に代わって口上を述べた────あの侍従だ。


 彼は皇王陛下専属らしく、ベテランの風格がある。年齢は40前後くらいに思っていたが、こうして間近でよくよく見れば、皇王陛下と同年代のようだ。


「お待たせ致しました、ルガレド殿下。主の準備が調いましてございます」

「そうか。では、案内してくれ」

「かしこまりました」


 すでに姿をくらませていたジグが、『皇妃に与する者』を対象にした【認識妨害(ジャミング)】をこっそり発動させた。レーヴァ邸を出て、侍従の先導で進む。


 皇子邸や皇女邸との間に広がる庭園には踏み入らずに迂回し、さらに後宮をも避けて通り、その先の────皇王陛下が住まう宮殿へと招き入れられる。


 豪奢だが深閑とした廊下を進み、両開きの扉の前で、侍従は足を止めた。


≪ネロ、お願い≫

≪わかった≫


 姿を隠してついて来たネロが、【索敵】を発動させる。


≪ノルン、お願い≫


───はい、(マスター)リゼラ。使い魔(アガシオン)ネロの【索敵】の結果を、(マスター)ルガレド、配下(アンダラー)ジグ、配下(アンダラー)レナスに共有します───


 ネロの【索敵】によれば、扉の向こうにいる人物は6人。うち2人は、おじ様とロヴァルさんだ。


 それと天井裏や家具の隙間などに8人。ネロの眼に重ね合わせて【心眼(インサイト・アイズ)】で視てみたけれど、どの人物にも敵意や害意は見当たらない。

 うち2人は、常時おじ様を護衛しているロウェルダ公爵家の“影”で────残りは、おそらく皇家が抱える“影”だろう。


 念のため、そのまま、おじ様たちと一緒にいる人物たちも視てみる。うん、敵意も害意もない。大丈夫そうだ。


≪危険は感じられません≫

≪そうか。ありがとう≫


 応えるレド様は、どこか緊張していた。


 安全を確認している間に入室の許可をとった侍従が、扉を開け放って、レド様に道を譲る。


「どうぞ、お入りください」


 中に踏み入ると、まずは、一番扉に近い位置に佇む、おじ様とロヴァルさんの姿が目に付いた。


 次に目に入ったのは、ゼアルム殿下とその親衛騎士───ゲルリオル伯爵令嬢だ。着替えている時間がなかったのか、ゼアルム殿下もゲルリオル伯爵令嬢も、夜会服とドレス姿のままだ。


 そして、一番奥に佇んでいる人物────それは、予想していた人ではなかった。


 ローブにつけられたフードを目深に被り、そこから覗くのは色の抜けた長い髭だ。腰を屈めたその老齢の人物を、私は知っていた。


 ロウェルダ公爵邸で、幾度となく逢っている。彼は、おじ様の遠い親戚で、皇立図書館に勤めているという触れ込みだったはずだ。


「イアム翁…?」


 何故ここに────その疑問が口を()く前に、イアム翁の後ろに立つ騎士を視界に捉える。


 騎士はラムルやヴァルトさんと同年代に見えるが、筋骨隆々とした体格や厳つい顔立ちからは老いなど感じさせない。


 彼は、現アルゲイド侯爵の兄で────嫡男であったにも関わらず、まだ皇子であった皇王陛下をお護りするために、その身分を返上したと聴いている。返上して、親衛騎士となった───と。



「……父上」


 イアム翁を目にしたレド様が呟く。


 イアム翁が、ぴくりと身じろいだ。フードと垂れ下がる眉に隠れて、その表情は窺えない。


「ルガレド……」


 イアム翁───いや、皇王陛下はレド様の名を呼んだものの、言葉が続かずに口を噤んだ。


 公の場では何度も顔を合わせ、緊急会議や辞令式では言葉も交わしている。でも────父子としての交流は、もう何年もできていなかったのだろう。


「せっかくのご対面に水を差して申し訳ありませんが────皇王陛下、時間があまりありません。先に用件を済ませてしまいましょう」


 黙り込んでしまったレド様たちを見かねたおじ様が、口を挟む。


 皇王陛下は、昂った感情を逃すように一息ついた。


「……そうだな」



 私たちは早めに切り上げたが────夜会は未だお開きになっておらず、皇妃たちは大ホールに留まっている。皇妃一派の手駒たちも、夜会にかかりきりの状態だ。


 皇妃一派の目を盗んで密会するには、絶好の機会だった。


 潜り込んでいた“闇兵”を駆逐し、皇族の側付きからも回し者をあらかた排除できたと言っても、まだまだ油断はできない。


 おじ様の仰る通り、夜会がお開きになる前に目的を果たして解散した方が無難だ。



「もう察しているとは思うけど────リゼ、こちらは皇王陛下だよ」


 おじ様の言葉を受けて、皇王陛下がこちらに顔を向ける。


「久しいな、リゼラ」

「ご無沙汰しております────皇王陛下」


 レド様は、物問いたげな視線で私たちを見たものの、時間がないためか言葉にはしなかった。


「こちらは、儂の親衛騎士だ。ガハド=アン・アルグという」

「初めまして───アルグ伯爵。リゼラ=アン・ファルリエムと申します」

「……ガハドでよい」


 アルグ伯爵は、その印象通り、低く渋い声音で呟くように告げる。


「では、ガハド卿と呼ばせていただきます。私のことは、どうぞ“リゼ”、と」

「……リゼラ卿と呼ばせてもらう」


 騎士としての先達にそんな風に呼ばれるのは恐れ多いけれど────愛称で呼ばれるのも、それはそれで恐れ多い気がするので、私は黙って受け入れた。


「こちらは、儂の専属侍従のジルトだ」


 ここまで案内してくれた侍従が、いつの間にか皇王陛下のお傍に立っていて────右手を腹部、左手を腰に添わせて、深々と頭を下げてくれた。


 立場上、私は頷くに留める。



 皇王陛下と私の遣り取りが済んだのを見計らって、おじ様に視線で促されたゼアルム殿下が口を開く。


「お久しぶりです、兄上」

「ああ。壮健なようで何よりだ、ゼアルム」

「ありがとうございます。兄上もお元気そうで何よりです。よろしければ、以前のように“アル”とお呼びください」


 ゼアルム殿下は、嬉しそうに破顔して応える。


 レド様も目元と口元を緩めて、頷いた。


「解った。そうさせてもらう。────アル、こちらは俺の婚約者で親衛騎士のリゼラだ」


 ゼアルム殿下が、私へと視線を移す。


「初めまして───で、いいのかな。ゼアルム=ラス・オ・レーウェンエルダです。よろしく、ファルリエム伯爵」

「ご丁寧にありがとうございます。リゼラ=アン・ファルリエムと申します」


 ドレス姿ではないため、カーテシーではなく───ボウアンドスクレープの辞儀をとり、私は頭を下げる。


「兄上、ファルリエム伯爵───こちらは、僕の従姉で親衛騎士のヴァイナです」

「ヴァイナ=ラス・ネ・ゲルリオルと申します。どうぞ、お見知りおきを」


 踝丈のドレスを纏ったゲルリオル伯爵令嬢は、優雅な動きでカーテシーをとる。


 ミュリアよりも短く整えられた茶褐色の髪と、切れ長の眼に茶色い双眸の───ご令嬢と呼ぶに相応しい物腰ながらも、凛々しい印象の女性だ。


 確か、年齢はゼアルム殿下より2歳上の22歳だったはずだが────同じ年頃のご令嬢に比べ落ち着いた雰囲気なのは、親衛騎士という立場ゆえか。


 ゲルリオル伯爵令嬢も、ゲルリオル伯爵家門の子爵位を継承しているものの────私やガハド卿とは違い、籍が外れているわけではないため、名乗る際には生家の身分が優先される。



「さて───全員が名乗り上げることができたようですし、本題に入りましょうか」


 おじ様の言葉に、和やかだった空気が引き締まった。


「まずは、今後の方針と────それに伴う意志の確認を致しましょう」


 おじ様がそう告げて周囲を見回す。その場にいる全員が肯いた。


「方針としては────皇城を掌握でき次第、分散していた権限をすべて皇王陛下に戻した上で、ゼアルム殿下の立太子を宣下していただきます。同時に、ゼアルム殿下とシェリアの婚約を明らかにして────我がロウェルダ公爵家が、ゼアルム殿下の正式な後ろ盾となることを知らしめる心づもりでおります」


 おじ様はそこで言葉を切って、ゼアルム殿下に問う。


「立太子すれば、これまで以上にお命を狙われることでしょう。そして────生き延びて、皇妃一派を一掃した暁には、この国を背負うことになります。ゼアルム殿下────お覚悟はできておりますか?」

「勿論だよ」


 ゼアルム殿下の表情も声音も穏やかで、答えも簡潔だったが────それでも、確かな意志が覗えた。


「ルガレド殿下────皇王の座を譲るだけに留まらず、いずれは“護国の将軍”としてゼアルム殿下に仕えていただくことになります。異論はございませんか?」

「ない。様々な面から鑑みて────アルが内政を担い、俺が前線に赴く方が効率的だ。何より…、俺に皇王は務まらない。アルが皇位に就く方が、国民の為にもなる」


 レド様は迷いなく答えて、ゼアルム殿下に振り向く。


「アル、すまないな。お前に重責を担わせることになる」


 ゼアルム殿下は首を横に振る。


「謝らないでください、兄上。僕は…、僕の意思で────僕の目的のために、皇王となることを決意したのです。僕の方こそ、本来なら皇王となるべき兄上に、“護国の将軍”という───重責だけでなく、危険が伴う役割を担わせることを申し訳なく思っています」


 ゼアルム殿下が、言葉通り申し訳なさそうに────だけど、意志を込めて返す。その言葉には、些かの虚偽も視られなかった。


「そうか…。────お前こそ、申し訳なく思う必要などない。俺も、俺の意思で、俺の目的のために将軍職に就くことを希望しているのだから」


 レド様は、顔だけでなく、身体ごとゼアルム殿下に向き直って続ける。


「ゼアルム────お前が皇王となった暁には、俺は“護国の将軍”として、お前に忠義を尽くすと誓おう」

「ありがとうございます…、兄上」


 ゼアルム殿下は感極まって言葉を詰まらせながらも、お礼を述べた。


 レド様が“護国の将軍”となって、ゼアルム殿下に忠義を尽くすと決心されたのなら────私は、持てる力を以て、それにご助力するだけだ。


 絶対に、“一度目の人生”と同じ轍は踏ませない────笑みを交わすレド様とゼアルム殿下を見ながら、胸に秘めた決意を改める。


「では────将来的に、ゼアルム殿下が皇王位に就き、ルガレド殿下が“護国の将軍”として国を護る。それでよろしいですね?」


 おじ様に問われ、レド様とゼアルム殿下が肯く。


「皇王陛下が全権を取り戻し、ゼアルム殿下が立太子したとなれば────当然、皇妃一派は黙っていないでしょう。きっと奴らは動き出す────」


 おじ様の双眸に、冷たい───けれど、強い感情が滲む。


「おそらく、ジェミナを使()()()とするはずです。そうなれば────奴らは思い知ることになる。あの毒婦が自分たちの求める存在などではないことに」


「奴ら自身に、皇妃を引き摺り下ろさせる────というわけだな?」


 レド様の指摘に応えるように、おじ様はゆっくりと笑みを()いた。


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