第二十八章―邂逅の果て―#16
※※※
慌ただしさが落ち着いたばかりの朝の街を、シルネラは一人で歩いていた。ケイルとドナは連れて来ていない。
宿から出て、商店街を抜け、東門に向かって平民街を進む。
比較的裕福な平民が住むエリアは見知らぬ街並みのようにしか思えなかったが、貧民が住む家々は、薄汚れて所々朽ちていて劣化してはいるものの、建物自体は昔のままで────記憶にある風景と重なって、懐かしさが込み上げる。
感傷に浸りながら、しばらく進んでいると、道の突き当りに東門が現れ────その手前にある、目当ての建物が目に入った。
その建物は周囲の家々よりも規模が大きいだけでなく、様式も違っていて、普通の民家ではないことは明らかだ。
遠目に見る限りでは、その建物───“寺院”は何も変わっていないように感じた。ラギの言葉から大々的に改装したような印象を受け、何となく身構えていたシルネラは安堵した。
しかし、門扉の前まで辿り着くと、変わっていないと思ったのは勘違いだったと判って、その変貌ぶりに思わず足を止めた。通りすがりに一目見るだけのつもりだったのに、黒い柵の隙間から見入る。
中心となる塔と南棟に設けられた玄関だけは、記憶の通りだ。
だけど、西棟と東棟の後ろ側に建物が増築され、南棟の両側に畑が設けられていて────シルネラの中に残っていた印象と大きく違っている。
特に、畑があることに違和感を覚えた。この“寺院”は周囲の魔素を自動的に取り込むため、庭の土壌は魔素が常に不足して、草木は育たなかったはずだ。
それなりに広い畑を見渡していて────ふと、子供たちと共に畑の世話をする女性に眼が吸い寄せられた。
「…っ」
その人は────黒地に白い襟と袖がついた質素なワンピースを着て、頭には襟と袖と揃いの白布を被っている。
教会の活動が盛んだった時代に見られた“修道女の勤め着”に似ているが────襟と袖の形状は、その元となった“聖女の勤め着”の方が近い。
白い襟や袖から伸びる、その細い首も指も───子供たちを優しく見守る目元や微笑みを湛えた口元にも、深い皺が幾つも刻まれ───白布から覗く髪は色が抜けてしまっていて、記憶にあるよりずっと年老いてはいるが、間違いない。間違えるはずがない。
あれは────
「イルネラドリエ……」
シルネラは、長い間口にすることのなかったその名が、自分の唇から零れ落ちたことに気づかなかった。
それは傍にいても聞き取れないくらいに小さな声だったが────耳に届いたのか、その人は顔を上げた。そして、シルネラを目にした瞬間、眼を見開いて────
─────ディルカリダ…?
確かに、そう呟いた。
◇◇◇
「中は意外と変わっていないんだな」
畑の世話と幼い子供たちを年長の子に任せたイルネラドリエは、シルネラを“寺院”の中に招き入れ、南棟の2階にある自分の執務室へと先に向かわせた。
ここに来るまで通った廊下や階段は記憶にあるままで、淹れたばかりのお茶を持って入って来たイルネラドリエにそう言うと────彼女は、柔らかな微笑みを浮かべた。
懐かしいその笑顔に、シルネラは親友に再会できたことを実感して、胸が熱くなる。
「また逢えるとは思わなかった……」
バナドルの側妃としての────“ディルカリダ”としての生を終えてから、900年弱。
転生するたびに、イルネラドリエがいることを期待してこの“寺院”に足を運んだが、一度として遭えたことがなく────もう、諦めていた。
「そうね。私も───もう二度と…、“イルネラドリエ”として貴女に逢うことはないだろうと思っていたわ」
イルネラドリエは、改めて、喜びの満ちた笑みを浮かべる。
シルネラ───ディルカリダと違い、イルネラドリエは肉体が死を迎えたら記憶は魂魄の奥深くに埋もれてしまう。転生して出逢えたとしても、それは別人と同じだ。
「────サリルには…?」
イルネラドリエに問われ────シルネラは、目の前の親友と同じくらい大事な存在が思い浮かび、胸が締め付けられた。
放っておけなくて世話を焼いたことを恩に着て、バナドルを助けたいというディルカリダの願いを叶えるべく献身してくれた────サリル。
【記憶想起】を発動する役目を担わせたせいで、あの子は魂魄に損傷を負ってしまった。
「今から二代前かな────出逢えたよ。だけど、“サリル”としての記憶は断片的にしかなくて────おそらく、また生まれ変わっているとしても、もう…、“サリル”としての記憶は────私たちのことは思い出すことはないと思う」
「そう…」
応えたイルネラドリエの声音には、哀愁が滲んでいた。
できれば、イルネラドリエにも“サリル”とお別れをさせてあげたかった。でも、それはもう叶わない。
「それでは…、貴女が探していた───魂魄の損傷を回復させる方法は見つかったのね?」
「いや…」
シルネラは、首を横に振る。
ディルカリダは、愛するバナドルの為とはいえ、多くの人の魂魄を損傷させてしまったことを悔いていた。
バナドルを看取り、跡を彼の息子に任せて────魂魄の研究に専念したものの、回復する方法は見出せなかった。何も進捗がないまま死を迎えることになると悟ったディルカリダは、生まれ変わってからも研究を続けることを決意した。
しかし────今に至るまで、魂魄の損傷を回復する術を編み出すことはできていない。
だけど、何代にもわたって研究を続けた結果、判ったことがある。
「人為的に回復させる方法は見つかってはいないが────どうやら、魂魄は自然に回復していくみたいなんだ。
これは、まだ推測の域を出ていないけど────生まれ変わるまでに時間を置いた魂魄ほど、回復が速い傾向にある。
それと、魂魄に蓄積された記憶を引き出すには、肉体の強弱も関係してくるようだ。強い肉体…、つまりは魔力量の多い肉体ほど比例して、前世、前々世とかなり遡ったところまで記憶を引き出すことができ────弱い肉体では、前世の晩年、多くてもそこから少し遡った程度の記憶までしか引き出せない」
シルネラが、ディルカリダの記憶まで思い出せるのは、自分の魂魄に魔術式を書き込んで細工をしているからだ。
「魂魄の回復が進めば進むほど、肉体の強弱に拘らず記憶は引き出せなくなり────やがて映像が過る程度となる。
その次に生まれ変わったときには────おそらく、魂魄が完全に回復して、記憶は一切引き出せなくなるはずだ」
「そう…、それは良かったわ。もう新たな“記憶持ち”が生まれることもなさそうだし────これで、一安心ね」
安堵の溜息と共に零されたイルネラドリエの言葉に疑問を覚え、シルネラは聞き返した。
「もう───新たな“記憶持ち”が生まれることがない?」
「あら、教会の件は聴いていない?」
「……教会を魔獣が襲ったという話なら聴いている」
噂ではジェスレム皇子の仕業とされているが、ガレスの話によると、ディルカリド元伯爵───サリルの血を引く男が魔獣を放ったらしい。
ディルカリダが考案して確立した、エルドア魔石の精製法が悪用されたのだと悟って────シルネラは、罪悪感を感じずにはいられなかった。死傷者が出たと聞いては猶更だ。
「私もすべてを知らされているわけではないから、これは聞かされた話と噂からの推測だけれど────“研究施設”が修復されて、貴女が整えた出入口は塞がれたと考えて良さそうよ」
「“研究施設”が…、修復された────?」
イルネラドリエが語った内容は信じがたく、シルネラは愕然として問いかける。
「一体、どうやって…?」
この皇都の地下に広がる研究施設に使われている素材は、現代の技術では復元できないはずだし────今ある素材で代替したとしても、皇都が築かれている箇所は勿論、森となった個所も埋め立てられて久しく草木が深く根付いているために、まず修復作業に取り掛かることすら難しい。
莫大な資金が必要になることも踏まえると、何十年───下手をすれば何百年かかっても、修復できるかどうかだ。
それなのに────外部に知られることなく、修復できた?
「“双剣のリゼラ”という冒険者は知っている?」
イルネラドリエにそう訊かれて────そういえば、近況を話していないどころか名乗ってもいないことに気づく。
「ああ、知っている。今の私はシルネラ=セルクという名で、冒険者ギルドの幹部をしているんだ。リゼとは、会えば言葉を交わす仲だ。この寺院が、リゼの所有となっているとの情報も得ている」
「それなら、リゼがルガレド皇子と主従の契約を交わしたことは聞いているでしょう?」
「ああ。守護者───レーウェンエルダでは“親衛騎士”と言うのだったか。その親衛騎士となったんだろう?」
「ええ、その通りよ。リゼとルガレド皇子は条件を満たして────【契約】を成功させたみたいなの」
「………【契約】?」
予想もしていなかった言葉が出て来たことに、シルネラは眼を見開いた。
「まさか────この国では“誓約”に【契約魔術】を利用しているのか?」
シルネラの疑問に、今度はイルネラドリエが眼を見開く。
「────貴女が、【契約魔術】を置いたのではなかったの?」
「いや…、そんな覚えはない」
確かに【契約魔術】を利用することは考えたことがあったが────ガルファルリエムへの“誓い”に反することになるので、すぐに断念した。
「……貴女が置いたものとばかり思っていたわ」
「【契約魔術】が存在することは、いつ知った?」
「いつだったかしら…。当時の皇女が“契約”を成功させたと噂になったのよ。レーウェンエルダ史上二度目の成功例だということだったから────もっと以前から設置されていたのだと判って、貴女が遺したものだと思ったの」
「その一度目の成功例については、耳にしたことがなかったのか?」
「……聞いた覚えはないわね。私は、長寿であることを悟られないために定期的にここを離れていたから────もし、それが大々的に噂になったのだとしても、不在だった期間に起こったのなら判らないわ」
「そうか…」
シルネラも、これまでの長い年月の中、研究のために放浪生活をしていたことに加え、ドルマやアルドネで生まれることが多かったこともあって、この国で過ごした期間はそんなに長くはない。
狭い範囲での一時的な話題など、その期間が外れたら知りようがなかった。
「一体、誰が【契約魔術】を置いたのかしら……」
イルネラドリエが、ぽつりと呟いた。それはシルネラも気になるところだが、それよりも────
「【契約】を成功させたのなら────リゼとルガレド皇子は、【支援システム】で能力や魔術式…、それに魔導機構を手に入れた────ということか?」
「ええ、そういうことになるわ。この寺院も、リゼが修復と増築をしたのよ。それも、一日もかからずに。ここは正式にリゼの所有となっているから、拠点登録をして【最適化】を施したのでしょうね。突然、改築されたことを周囲に訝しがれている様子もないから、【認識妨害】も施されていると思うわ」
「もしかして────“研究施設”も?」
「ええ、おそらく同様の方法をとったのだと思うわ」
ディルカリダが防御システムをすべて無効化していたから、部外者であるリゼラとルガレド皇子でも拠点登録することは可能だっただろう。
「だが…、地下部分だけとはいえ、あの広大な“研究施設”を【最新化】するには────たとえ【魂魄の位階】が昇格して魔力量が増大していたとしても、二人の魔力をすべて注ぎ込んだところで足りないと思うが…」
「いえ───あの二人の魔力量なら…、共有魔力まで合わせれば、おそらく間に合ったはずだわ」
「………そんなに多いのか?」
イルネラドリエはシルネラの問いに肯くと、再び口を開いた。
「リゼは、“神子の座”を開き“深淵”への門を出現させ────“禍”に蝕まれたティルメルリエムを浄化して…、新たな姿を与えたのだそうよ」
「“禍”を────浄化した?」
“禍”────“呪い”とも“穢れ”とも呼ばれる、魔素あるいは魔力の成れの果て。
魔素は適量なら、摂取した生物にとっていい影響を与えるが────摂取量の度を越せば、身体のみならず魂魄まで蝕み、果てはその在り方を根源から歪ませてしまう。
浸食の度合いによっては神々ですら浄化することは不可能で────だからこそ、“禍”に魂魄の核まで蝕まれていたティルメルリエムは眠り続けるしかなかったのに、それを浄化したばかりか────死した状態だったとはいえ、神であるティルメルリエムに新たな姿を与えた?
「それが事実なら────リゼは……」
「あの子は…、類を見ない────複数の神より加護と祝福を一身に受けた神子よ」
リゼラが加護と祝福を受けた神子────
それも、“禍”を浄化することのできる、特殊な存在────
「……ここ数ヵ月、ある地域で冒険者の死亡率が不自然に上がって────詳しく調査をしたんだ」
唐突にそう語り出したシルネラを訝る様子もなく、イルネラドリエは耳を傾ける。
「そこはフィルト王国との国境となる町で────死亡率だけでなく、冒険者自体の数が急増していた。死亡者はほとんどが新人で────ほぼ、フィルトから流れて来た者だった」
フィルト王国で育った者は、魔素をそれほど摂取することができないために、内包する魔力量が少なく身体能力も低い。
加えて、魔物に馴染みがないこともあって、魔物と遭遇したら高い確率で命を落としてしまうとのことだった。
「気になって調べてみたら、フィルトと国境を接する他の町や村にも、フィルトからの流民が増えていた。流民に事情を伺ったところ────フィルトでは不作が続き、至る所で飢饉となっているそうだ。国からの援助も当てにならず、どうしようもなくなって、故郷を捨て周辺国へ避難してきた───と」
「不作って────まさか…」
「近年は天候が安定していたから────おそらくは…、魔素不足だろう」
イルネラドリエの顔色が、明らかに悪くなる。そうなる気持ちは、シルネラにも理解できた。
フィルト王国には────あの地の奥深くには、“邪霊”とされる存在が封じられている。
格としては“精霊”ではあるが、限りなく“神”に近く────ティルメルリエムはこの“邪霊”を討伐しようとして果たせず、“禍”を食らう破目になった。
フィルト王国の魔素が他の地域よりも極端に少ないのは、この“邪霊”の封印を維持するために使われているからだ。
魔素が減少しているのは、この封印に何らかの不具合が生じているのかもしれないと考えると、シルネラは平静ではいられなかった。
たとえ、別に原因があるにしても、魔素の減少が続けば封印に綻びが生じる恐れがある。
「今回、私がこの皇都に出向いたのは────魔物の集落の様相だけでなく、魔物を率いていた魔獣も異様だったと聴いたからなんだ。────リゼたちが討伐した魔獣のことは?」
「ギルドに運ばれていくところを見たわ。────毛色が黒くて、肌も黒ずんでいた……」
「あれは【魔導巨兵】だ。過去に遭遇したものに比べたら、体格も小さくて雑な造りではあったけれど────高貴エルフ特有の魔法で造り出されたものだった」
リゼラがどうやって討伐したのか疑問に思っていたが、イルネラドリエの話を聴いて納得した。
リゼラは双剣ではなく片手剣で魔獣を討ち取ったと聞く。多分────リゼラは【聖剣】もしくは【神剣】を所持しているのだろう。
「純粋なエルフはもう存在していないはずなのに────どうして、高貴エルフが……?」
「それは判らない。だけど────水面下で何かが起こっているのは事実だ」
“邪霊”が封印された土地の異変と、仄めかされた高貴エルフらしき存在。
立て続けに耳に入ったのは、偶然の可能性も捨てきれないと考えていたが────リゼラが祝福を授かった神子だと判って、シルネラはこれはただの偶然ではないとの確信を得た。
リゼラとルガレド皇子が【契約】によって能力や魔術を得たのも、研究施設と【転移港】を手に入れたのも、ティルメルリエムの復活も────こうして、シルネラがイルネラドリエと再会して情報を交わしたことさえも、きっと偶然などではない。
「リゼにすべて打ち明けることができたらいいのだが────“誓い”があるからな…。まだ命をとられるわけにはいかない」
「大丈夫よ、ディルカリダ。あの子なら…、きっと自分で辿り着けるはずよ。それでも、万が一のときは────私がすべてを話すわ」
口を開こうとしたシルネラの先を制して、イルネラドリエは続ける。
「少し前にね、聖竜との繋がりが切れたの。今の私は、ただの人間で────死を待つだけの存在よ。もう、【神聖術】の一つも使えない。でも、貴女は違うでしょう?やれることがあるはずだわ」
イルネラドリエは、昔と変わらない柔らかい微笑を湛える。
「だから────それは私に任せて、貴女はやるべきことをして」
「イルネラドリエ……」
「貴女にまた逢えて────私が私であるうちに逢うことができて…、本当に嬉しかったわ、ディルカリダ」
そう言って笑みを深めたイルネラドリエに、共に過ごした日々だけでなく、逢いたくて───でも逢えなかったこの数百年が頭を過り、様々な想いが込み上げる。
聖女の中でも群を抜く資質を持ちながら、権力者の偏った思想に阿ることを拒否して実験体とされた────真っ直ぐな心根のイルネラドリエ。
魔術式の構築以外に能がなく、魔術の研究以外に興味もなかったディルカリダに、彼女は感情というものを教えてくれた。
「…っ」
想いが喉に閊えて、言葉にならない。それでも────シルネラは、何とか応えた。
「私もだ────イルネラドリエ」
イルネラドリエが、シルネラに向かって両手を伸ばす。反射的に掌で受け止めたイルネラドリエの手は、小さくて骨ばっていた。
死に別れたら────今度こそ、もう二度と逢えない。
イルネラドリエの残り少ない時間を共に過ごすために、何もかも投げ捨てたい衝動に駆られる。
でも───それは無理だと解っていた。イルネラドリエが言うように、自分には、まだやれることが───やらなければならないことがある。
シルネラは、手の中の温もりを記憶に深く刻み込むべく、溢れそうになる涙を押し込めるべく瞼を閉じた─────
この章の最後まで書き切ってから投稿しようと考えていましたが、思ったほど執筆時間がとれなかったのと、何度も書き直したせいで書き終わりませんでした。
次回の投稿分で最後の伏線回収をして終えようと思います。間が開かないよう頑張りますので、お待ちいただけたら幸いです。