第二十八章―邂逅の果て―#15
ポニーテールにしていた濃紫の髪は短くなっているが────間違いなく、ユリアさんだ。
「私の実名は────ミュリア=アス・ネ・ノラディスと申します。血縁としてはノラディス子爵の姪でありますが、現在は養女となっております」
ユリアさんが、ノラディス子爵家の養女?
「それが、何故────冒険者に?」
公爵家門に生まれた者は、ほとんどが騎士職につくと聞いている。魔術を連発できるほど魔力を持っているだけでなく、剣の腕もあるユリアさんなら、騎士になれそうなものだけど。
「私の母は先代ノラディス子爵の息女で、イルノラド公爵家の私兵である父と結婚して平民となりましたが────私たち姉妹は主家のご息女と年齢が近かったため、ノラディス子爵家に娘が生まれていないこともあり、いずれ側付きとなることが決まっておりました。
側付きは主よりもいくらか年長である例が多く────それに倣って、姉がファミラ様、私がリゼラ様の側付きの候補となりました」
ユリアさんが、私の側付き───側近もしくは護衛の候補だった…?
「まさか───私が原因で…?」
「いえっ、違います!そうではありません!」
ユリアさんが慌てた様子で、首を横に振る。
「ファミラ様が15歳となった───3年前…、姉はファミラ様の側付きとなるべく、準備をしておりました。ですが、直前になって、イルノラド公爵家から、ファミラ様より年少の娘を側付きとする旨のお達しがありました。
ファミラ様より年少となると、私の妹しかおりません。当時、妹は十に満たず、側近は勿論、護衛など務められるはずもなく────祖父…、先代ノラディス子爵が交渉した結果、ファミラ様と同い年である私が子爵家の籍に入り、ファミラ様の側付きとして上がることに決まりました」
公女の側近────使用人たちが噂していたのを覚えている。
確か、あれは────長引いていたアルドネ王国の件が片付き、ようやく皇都に帰り着いて、イルノラド公爵邸に寝るためだけに寄ったときだ。
就いたばかりの側近を公女が癇癪を起こして追い出したことを、メイドたちは茶化して笑っていた。
「何故、そのようなことを?」
人を馬鹿にする嫌な笑い声を思い出してしまったこともあって、イルノラド公爵に訊ねる声が低くなる。
あの公女を諫めるのは、年上だって難しいだろうに────何だってそんなことをしたのか理解できない。
「いや───それは、ファミラが言い出したことらしい。バセドも関与していたようだ。あの当時、俺は任務で帰れそうになかったため、ファミラの側付きは成人と共につけるつもりでいた」
どうして公女が自分より年下であることに拘ったのかは、何となく想像がつく。それから、あのクズ男がそれに賛同した、もしくは誘導した理由もだ。
従順にさせるには少しでも未熟な方が都合が良かったのだろう。
公女の方は、剣術の腕が自分より勝る者を傍に置きたくなかったというのもありそうだ。
「では、ノラディス子爵との養子縁組は誰が?」
「それは、ノラディス子爵領を預かる私の妻と、先代ノラディス子爵である父が行ったようです」
私はユリアさんに視線を戻し、言い難いだろうと思い、こちらから水を向ける。
「公女の側近は、就任して1ヵ月も経たずに解任されたと聞いていますが────」
「はい、仰る通りです……」
ユリアさんは震える声で応え、項垂れた。ユリアさんに代わって、ファルお兄様が続ける。
「ファミラが、お茶会で些細な粗相をした男爵令嬢を跪かせようとしたらしい。しかも、その日はガーデンパーティーだったそうだ」
貴族の女性が人前で両膝をつくのは、不義を働くなどの重罪を犯し───罰せられるときだけだ。公衆の面前でそんなことをさせられるのは屈辱であるだけでなく、土がむき出しの庭ではドレスも汚れてしまう。
「それを諫めて────公女の反感を買ってしまったということですか?」
「はい…。その場で烈しく罵倒され、邸に戻ったところで任を解かれました。私は、自分の荷物を持ち出すことも許されず────着の身着のまま、邸から出されました。その際、主に逆らうような者を寄越した責任をノラディス子爵家に問い、また私を勘当するよう命じること、イルノラド公爵家は元より、家門、傘下すべての貴族家に、職業に拘りなく私を登用しないよう通達をすることを、家令であったバセドから言い渡され────私は…、ノラディス子爵家にも生家にも戻ることを断念しました……」
「………それで、冒険者となったのですね?」
「はい。剣は支給された品であったため取り上げられましたが────ノラディス子爵家より与えられていた魔術陣は取り上げられることがなかったのが幸いでした」
ユリアさんは剣を扱えるのに、魔術師として冒険者登録したのは、そういう事情からか。
「誰一人として────ユリアさんの状況に気づかなかったのですか?」
イルノラド公爵を始めとした、向かいにいる男性陣に問いかける。ユリアさんの心境を思うと、怒りで声が震えた。
ユリアさんが公女の側近となったことを知らなくても、ノラディス子爵家と連絡を取れば発覚したはずだ。
私の怒りに当てられてか誰も応えることなく、気まずい沈黙が降りる。しばらくして、ようやくノラディス子爵が口を開いた。
「旦那様と私が、公爵邸へ帰れたのは、その件から半年以上経ってからでした。それも、ゆっくり滞在する間もなく、グリムラマ辺境伯軍より救援要請が入り、すぐに出立することとなり────その後、現在に至るまでエリアエイナに留め置かれ、皇都に帰還したのは数えるほどで、それも数日滞在するだけで────ファミラ様の側付きを手配する余裕もなく、妻や父と遣り取りすることはあったものの、内容は領地に関する事柄のみでした」
「俺は…、その頃に“デノンの騎士”に任じられ────この3年、任務で各地を転々としていた。皇都に帰還しても、余程の用事がなければ、皇城内にある宿舎に滞在して、公爵邸には帰らなかった。セグルも、俺に付き合って、休暇中に子爵領に帰ることもなかった」
ファルお兄様の罪悪感が滲んだ声音に、少しだけ冷静さを取り戻す。
ファルお兄様だけでなく、他の三人も、悄然としている。
気づいてあげて欲しかったとは思うけど────ユリアさんの苦境は、この人たちが強いたわけではない。悪いのは、公女とクズ男だ。
それに、私は責める立場にはない。
「すみません、ちょっと感情的になり過ぎました。────バセドがノラディス子爵家や各貴族家に通達をしていたら、事態は発覚していたはずですよね。脅しだった、ということですか?」
「ああ。ノラディス子爵家にも、他の貴族家にも、そのような通達はなされていない。そもそも、レミラの名を借りたとしても、家門や傘下の貴族家に命令を下す権限などない」
クズ男に改めて怒りが募るが────あの男は罪を償うために過酷な鉱山へ送られることが確定しているのだから、と怒りを鎮める。
「冒険者ギルドでの緊急会議には、ユリアさんも参加していましたよね。もしかして、あれで再会して発覚したのですか?」
「その通りです。公爵閣下と養父に合わせる顔がないと考えていたので、目立たぬようにしていたのですが────義兄に見つかってしまいまして。事情を訊かれて────ファルロ様から公爵閣下へと話が行き…、すべての事実が発覚しました」
「そうでしたか…。何はともあれ───ユリアさんが戻れることになって良かったです」
「…っありがとうございます」
ユリアさんは感極まったように礼を言い、再び頭を下げた。
そういえば、片膝をつかせたままだった。悪いことしたなと思いながら、もう一つだけ気になったことを訊ねる。
「お姉さんは、側付き候補から急に外されて支障はなかったのですか?公女より年上だったということは、外されたときには15歳を過ぎていたのでしょう?」
見習いとなる年齢は過ぎていたはずだ。無事、他の職業に就けたのならいいのだけど。
ユリアさんは虚を衝かれたような表情をした後、顔を綻ばせた。
「イルノラド公爵領軍の騎士見習いとなることができたようです。年下の同期たちに混じって頑張っていると聞いています」
「そうですか…。良かったです」
あの人たちの身勝手な行動のせいで、人生が狂わされてしまったわけではないと判って、安堵する。
答えを聴けたので、ユリアさんに立ち上がってもらおうと口を開きかけたとき、レド様が先に口を開いた。
「ユリアも、イルノラド公爵領軍に入るのか?」
「あ、いえ────私は…」
ユリアさんは言いよどみ、口を噤む。そして────意を決したように、その表情を引き締めた。
「リゼラ様────どうか、私を…、貴女様に仕えさせていただけないでしょうか」
「…え?」
「私は、貴女様にお仕えしたいのです」
思いも寄らなかったことを言い出されて、私は眼を見開いた。
「リゼラ様に初めてお目にかかったとき────私は…、側付きを全うできなかったことに加えて、ノラディス子爵家より与えられた魔術陣を護りきれずに奪われ、失意の中にいました。ようやく購入できた粗悪な剣では、弱い魔物を傷つけるのが精一杯で────討伐をこなせなくなった私は、採取や雑用、大口の護衛依頼などを受けるしかなく…。少ない稼ぎは宿と食事代で消え、装備を補強することも叶わず────悪循環に陥っていた私は…、希望を持てずにいました」
当時の思いが甦ったらしく、ユリアさんは眉を寄せて目を伏せ────再び視線を上げた。
「そんなときに────何気なく受けた護衛依頼で、貴女に出逢いました。
公爵邸に滞在中、リゼラ様は引き籠っていると聞かされていたものの、お食事などを運んでいる様子がなく、疑問に思っていたこともあって────お名前と貴族令嬢であるという噂、何より…、黒髪と蒼い双眸という初代奥方様と同じお色から、貴女がイルノラド公爵家のご息女であると、すぐに思い至りました」
ああ、だから───初対面から『様』付けで、敬語だったんだ。
「貴女は────共に護衛任務を受けた冒険者たちの中で最年少だったにも関わらず…、依頼主の信頼も厚く、盗賊や魔物の襲来を事前に察知してみせたばかりか、ご自身の剣術や戦技が優れているのは勿論、私たちへの指示も的確でした。被害を出さずに任務を終えられたのは、貴女のおかげと言っても過言ではありません。
移動中も、私を含めた女性陣や低ランカーたちを何かと気にかけてくれて────貴女は…、かつて私が思い描いていた仕えるべき主そのものでした。
本当は、あのとき出自を明かして────傍に置いて欲しいと懇願したかった…。けれど、子爵家より与えられた魔術陣を失っただけでなく、剣術が未熟な私では、貴女をお護りするどころか足を引っ張りかねない────そう思うと、断念せざるを得なかったのです」
ユリアさんはそこで言葉を切って、悔し気に一度唇を閉じた。
「私は…、次こそは願い出ることができるよう────それに見合う力を着けることを心に決めました。
それからは、なるべく護衛依頼を受けるようにしました。そのうち指名依頼も入るようになって、稼ぎも増えてきて────剣術を磨く傍ら、徐々に装備を充実させることにも成功しました。
以前のようにサポーターとして魔物討伐に携わって、やがて魔獣討伐にも参加できるようになり────私は、ようやくBランクへと昇格することができました。
今回、この皇都の危機に駆け付けることができたのは、偶然ではありません。成人されたリゼラ様に側仕えにしていただくべく、皇都に向かっていたからこそ、駆け付けることができたのです。
あの緊急会議での堂々としたお姿、魔獣を仕留めた勇姿、杖を賜った際のお言葉────どれをとっても主として仰ぐに相応しく…、私は、貴女にお仕えしたいと改めて強く思いました。
ですから────どうか…、お願いいたします。私を貴女様のお傍に置いてください」
ユリアさんの真剣な眼差しを受けて、私は迷う。
ユリアさんは実力も明らかだし、今は一人でも戦力となる人材が欲しいところではある。だけど────ユリアさんには帰る家があって、お姉さんのように公爵家の騎士になることもできる。
セレナさんの場合は、皇妃との確執があって難しい立場だったから、迷うことなく受け入れられた。
ユリアさんがレド様自身に仕えたいのならともかく────私のために、茨の道になるかもしれない道行きにつき合わせてしまっていいのだろうか。
「ノラディス子爵───貴方は賛同しているのですか?」
「はい。先程、宣言した通り────籍を外れたとしても、貴女が主家のご息女であることに変わりはないと思っております。ミュリアは、元々、貴女の側付きとなるべく育てられました。反対する理由はございません。
それに…、一度失くした───主を護るために与えた魔術陣が、このタイミングでミュリアの手元に戻ってきたのは、単なる偶然とは思えません。貴女とミュリアにはご縁があるのでしょう」
ノラディス子爵は、どこか感じ入るように述べる。
確かに───これは偶然ではなく、祝福の賜物だろう。
それまで私たちの会話を黙って聴いていたレド様が、不意に口を挟んだ。
「それでは、ユリアがリゼの側仕えとなっても、ノラディス子爵家の籍から抜くつもりはないのだな?」
「勿論です。魔術陣も返却させるつもりはございません」
「そうか…」
ノラディス子爵にそう応えると、レド様は私の傍で片膝をついているユリアさんへと顔を向ける。
「ユリア───跪くのをやめて、立ってくれ」
「かしこまりました」
「リゼ───ユリアの傍に立ってみてくれ」
「解りました」
レド様の意図が判らず首を傾げながらも、言う通りにする。
ユリアさんと並ぶと、いつもよりヒールの高い靴を履いていても、私の身長はユリアさんの肩を超す程度しかなかった。
「いいかもしれないな…」
「レド様?」
「リゼにも側近をつけたいと思っていたんだ。ユリアは養女とはいえ貴族籍があるから、身分が問われるような場にも連れて行けるし────この身長差なら、俺の不在時にはエスコートも任せられそうだ。しばらくはエデルに兼任させるしかないと考えていたところだったから、ちょうど良かった。ユリアなら信者だし────安心して任せられる。何よりも、男でないことがいい」
………信者?────というか、一番最後の理由に尽きるのでは…。
まあ、でも───貴族籍に関してはレド様の仰る通りではある。
それに、もし本当に差支えがないのなら…、ユリアさんが傍で援けてくれるのは嬉しい────そこまで考えて、私ははっとして、先手を打つべく言葉を紡いだ。
「そうですね。ユリアさんの実力はガレスさんのお墨付きですし、側近としての素養もすでに身に着けているみたいですから────私の…、ファルリエム子爵の側近として雇わせてもらいます」
私の宣言にユリアさんの顔がぱっと輝き、対照的にレド様は無表情になった。
今度こそ、絶対に譲るわけにはいかない。レド様に言い包められる前に、何としてでもユリアさんと話を着けてしまわねば…!
「ユリアさん、私の側近となってくれますか?」
「はい、喜んで…!」
「では、早速、雇用契約書を作成しておきますので────」
「あ───リゼ、雇用契約書の草稿ならできているよ。後は役職名と金額を入れて、署名して印章を押印するだけで、すぐに提出できるからね」
「ありがとうございます、おじ様」
さすが、おじ様…!
「……余計なことを」
「ルガレド様、ここはリゼラ様のお気の済むように致しましょう。どうせ、結婚するまでの短い期間です。皇子妃となれば、予算から賄われることになりますから」
「……しかたがない」
ディンド卿の言葉を受けて、レド様が溜息混じりに呟くのが耳に入り────思わず、勝利の笑みが零れる。
私は笑みを浮かべたまま、隣に佇むユリアさんを見上げた。
「それでは────契約を交わしましょうか、ユリアさん」
「はい!」
こうして────ユリアさんが私の側近となったのだった。
◇◇◇
契約書を完成させ、おじ様に預ける。
ユリアさん改め───ミュリアさんは、これまで旅暮らしだったために最低限の必需品しか所持していないらしく、全ての荷物をこのお邸に持ち込んでいるみたいなので、このままお邸へと連れ帰ることとなった。
こっそりと、ラムルに【念話】でその旨を連絡しておく。
懐中時計で時間を確認すると、もう午後9時を回っている。そろそろ解散すべきなのだろうけど────その前に、一つだけ確認しておきたいことがあった。
「お疲れのところ、申し訳ありませんが────ファルお兄様とノラディス子爵令息にお訊ねしたいことがあるんです」
「何だ?」
「ヴァムの森で魔物の集落が発見される前日に教会を襲った魔獣は、“デノンの騎士”が討伐したと聞いています。ファルお兄様とノラディス子爵令息も参戦されていたのですか?」
「勿論だ」
「魔獣と戦ったとき、何か違和感はなかったですか?」
「違和感───というと?」
「魔獣との間に見えない防壁のようなものがあって、攻撃が届かない───とか」
「ああ、なるほど────リゼも、防壁を張る魔獣と戦ったことがあるのか」
「……ファルお兄様も遭遇したことがあるのですか?」
「一度、遭遇したことがある」
「そのときは、どうやって…?」
「セグルの魔剣で防壁を崩して、再び防壁を張られる前に総攻撃を仕掛けた」
「魔剣?」
ファルお兄様から、その後ろに控えるノラディス子爵子息に視線を移す。
「ノラディス子爵令息は」
「家名では呼び難いでしょうから、どうぞセグルとお呼びください」
「では、セグル卿と。────セグル卿は魔剣をお持ちなのですか?」
「はい…、あ、いえ───所持していた、というべきでしょうか」
「どういうことですか?」
「“デノンの騎士”に任じられた際、ノラディス子爵家に代々伝わる魔剣を引き継いだのですが────先日のスタンピード殲滅戦で、例の────リゼラ様が討伐してくださった変異種によって折られてしまいまして…」
あの黒い【霊剣】に折られた────ということか。
「その魔剣は、ノラディス子爵家に代々伝わっていたとのことですが────どういった謂れのものなのですか?」
私の問いに答えてくれたのは、セグル卿ではなく、ノラディス子爵だった。
「我がノラディス子爵家は、軍国主義時代に行われたエリアエイナ遠征で、当時のイルノラド家当主の命を救って取り立てられました。その際、褒美として───また信頼の証として、イルノラド家初代当主が愛用していた魔剣を授けられたのです」
「イルノラド家初代当主────先程、公爵閣下が宣誓で出された“イルネラドリエ”という人物ですか?」
「いや、“イルネラドリエ”は、初代当主デゼロ=アン・イルノラドの母親だ。イルノラドという家名は、“イルネラドリエ”にちなんでつけられたそうだ」
「変わった響きですが…、出自は?」
「それは伝わっていない。確かに、このレーウェンエルダや周辺諸国では聞かない名だな…」
イルノラド公爵は、珍しい名であることを気に留めていなかったようだ。
もし、ディルカリダ側妃を心配していたというイルネラドリエと同一人物だとしたら────イルノラド公爵家は軍国主義時代に興ったはずだから、少なくとも400年は生きていたことになる。
それとも、ディルカリダ側妃のように、記憶持ちで同じ名を名乗っていただけ…?
「ところで────防壁を張る魔獣とは?」
イルノラド公爵が、ファルお兄様と私のどちらともなく、訊ねる。
「遠征中に───正面に見えない防壁を張ることのできる、オーガの魔獣と交戦しました。おそらくは魔力で構築している壁のようなものと思われますが、眼で捉えることができなかったため定かではありません。防壁は、通常の武具では破ることは叶わず、セグルの魔剣でなら破ることができました。
火や雷の魔法を使う魔獣は知られていますが────こういった魔法を使う魔獣と遭遇したのは初めてで、聞いたことすらなかったため、確認してみたところ、他にも遭遇した小隊があったようです」
「その小隊は無事、切り抜けられたのですか?」
「ああ。小隊に魔剣を所持する者がいなかったから、かなり苦戦を強いられたようだが────防壁が正面にしか張られていないことに気づき、何とか広い場所におびき寄せて背後をとって攻撃したそうだ」
確かに、正面にしか張られていなかったかもしれない。
私たちのように視認できなくても、斬り崩す手段を持たなくても、状況を見極め、切り抜ける方法を見出せたことに────人間は工夫ができる生き物なんだと、改めて感心する。
それに、“デノンの騎士”の実力にもだ。
魔獣の一方的な攻撃を凌ぎつつ活路を見出すことも、知性を持つ魔獣をおびき寄せることも、聞くほど簡単ではなかったはずだ。
「この件については、“デノンの騎士”だけでなく、騎士団や領軍とも情報を共有しておいた方がいいと思い、報告を上げておいたのですが────やはり、通達はされていなかったみたいですね」
セグル卿が、そう言って溜息を吐いた。
報告が上まで届かなかったのか、それとも、ビゲラブナが軽んじて握り潰したのか────どちらもありえる。
「防壁を張ることのできる魔獣か…。我々も用心しておこう。防壁は正面にしか張ることができないのなら、囲うのが一番いいか…」
「そうですね」
イルノラド公爵が呟き、ノラディス子爵がそれに応える。
『正面にしか防壁を張ることができない』と限定してしまうことに危惧を覚えた私は、口を挟んだ。
「私たちが交戦した魔獣は、防壁の大きさを自在に変えていました。四方八方に張られている防壁も見たことがあります。正面にしか張ることができないとは限らないかと」
「本当か?」
ファルお兄様が眼を見張る。
「はい。防壁の大きさは、展開にかかった時間に比例していたようです。囲うだけでなく───防壁を拡張する、あるいは新たな防壁を張る時間を与えないよう心掛けた方がいいかもしれません」
「解った。他の小隊にも報せておく」
後で冒険者ギルドにも報告しておこう。商人ギルドや傭兵ギルドにも情報を共有しておいた方がいいかもしれない。
【結界】を破る方法を模索するつもりではいるけれど────その間にも、固定魔法を使う魔獣と遭遇しないとも限らない。
「他の騎士団や、自軍で魔獣討伐をしている貴族家には、私の方から通達しておくよ」
「お願いします、おじ様」