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残業OLとバーとたこ焼き

作者: 夕空

お酒は大人になってから。

目の前に巨大なチョコレートがそびえ立っている。実際には、板チョコを思わせる形と色合いの扉があるだけだ。ショコラティエが創り出す繊細なそれは、見ただけで口に入れるまでの期待感を高めてくれる。眼前の重厚な扉をチョコレートのように思うのは、先に進むことへの期待かもしれない。



6月。多くの日本人にとって鬱陶しい梅雨時期は、大学から社会へ飛び立つ前の就活生にとって特別な季節。就職人気ランキング上位の大手有名企業が、こぞって面接試験を開始するからだ。もちろん先に選考が進んでいる者、内定が出ている者もいるわけだが。


「就活か、懐かしいなぁ」


心の声が思いがけず口からこぼれてしまい、慌てて周囲を見渡す。スーツ姿の男性が目立つ東京駅に停車中の新幹線内で、私の独り言に気づかれた様子はない。社会人になってから始めた一人暮らしのせいか、浮かんだ言葉をうっかり声に出してしまう癖ができたようだ。

気を取り直して、手元の鞄から書類を取り出す。『A社大阪面接会場運営代行について』と題された書類は、この4泊5日の出張で課される仕事、4日に分けて行われる面接選考会での業務内容がざっくりと書かれていた。


人手不足を背景に、常に人の確保、すなわち採用活動が行われる今日この頃。やれ求人だ、選考案内だ、面接だ、入社手続きだ…と忙しすぎる人事の皆様から、採用に関する事務作業を請け負う『採用アウトソーシング』業は、政府主導の『働き方改革』も相まって、盛り上がりを見せていた。求職者からの電話問い合わせに対応したり、選考日時の案内メールを送ったりといった具合に、誰でも対応できるような事務業務を代行するのがこの仕事だ。


私もその一端を担う者として、今回は大手クライアントが大阪で開催する面接会場の運営チームに入った。にっこり笑顔で面接会場に来た就活生を出迎え、必要書類を受け取り、出欠を記録。そして面接官が手書きで書いた面接結果を、PCに打ち込むまでが仕事だ。時に就活生をトイレまで案内するくらいのイレギュラーは対応する。


この仕事は正直なところ、面倒くさいという気持ちが心の半分を占めている。なんせ春先からこっち、就活生と企業の動きが集中したせいで、毎月80時間前後の残業や土日出勤続き。いくら私がまだ20代前半で、先輩から「あんたも就活生に毛が生えたくらいの若さだろ」と言われようと、疲労は蓄積していた。昨日だって終電まで仕事をしていたのに、本来休日である土曜日の今日、なぜ荷造りして新幹線に乗り込まねばならぬのか。


とはいえ、普段は東京のオフィスに引きこもりだが、外で仕事をするのには少し心が躍る。私にとっては非日常な「出張」という言葉も楽しい。しかも面接選考会が終われば、あとは自由時間ときた。明らかに通常勤務よりも労働時間は少ないはず。あいにく大嫌いなセクハラクソ管理職とタッグを組まされたが、『出張時のホテルや新幹線の手配は各自行う』という、従業員20名程度の中小企業らしいルールのおかげで、仕事以外はヤツから距離を取ることもできた。


無事、何事もなく終わってほしい4泊5日。できるなら、楽しいことがあるともっといい。そんな気持ちで車窓の外を見つめていると、新大阪に到着した。東京から2時間半なのだ、あっという間である。不慣れな土地で、乗換案内や構内掲示板を頼りに乗り換え、在来線で大阪駅まで1駅移動。さらに夜道を20分ほど歩くと、新宿歌舞伎町を少し優しくしたような繁華街真っ只中にたどり着いた。妖しげな風俗店や、一人では入りにくい飲食店に囲まれたビルが、今回予約したビジネスホテルだった。


お世話になるシングルルームは、ほぼベッドだけの狭い空間だった。窓にはまるでラブホテルの窓にあるような、板戸がついている。板戸を開ければ明るいネオンの光が部屋に差し込む。板戸を閉めれば、電気をつけない限り真っ暗。電気をつけても、目に入るのはなんとなく黄ばんだ壁紙と、よそよそしいベッドメイキングのみ。なんとも精神衛生上良くない部屋である。


だが、それでもいい。今回の仕事場から近いホテルはすべて埋まっていたし、唯一空いていたのはセクハラクソ管理職(心の中でヤツのことは、名前で呼ばないようにしている。それくらい嫌いなのだ)と同じホテルのみ。そんな心の休まらない場所で5日過ごすくらいなら、この部屋も愛すべき楽園だろう。


明日、仕事で着るスーツとパンプス、必要な書類などの荷物をセットし、早々に眠りに就いた。昨日までの残業で疲れている分、こんな部屋でも泥のように眠れる気がした。



翌朝、うっかり寝坊し、かつホテルの朝食バイキングを楽しみ過ぎた私は、黒くて地味なパンプスで梅田の街を疾走していた。朝食バイキングといっても大したメニューではないが、東京の小さなワンルームで納豆ご飯をかきこむ日常とはやっぱり違う。いや、今日は日曜日なので、普段ならまだまだ爆睡している時間だったか。くそったれなことに、今回の選考会は初日が日曜日だったため、今週も私の日曜日は「休日出勤」の文字で塗り替えられたのだった。


慣れない土地で朝の繁華街や休日の地下街を走り回り、なんとか集合時間前に仕事場のビルへたどり着く。今回の選考会は貸し会議室を借り切っており、就活生と面接官を各会議室に数人ずつ呼び込んで実施する集団面接スタイルだ。まだ序盤の選考なので、メイン会場の東京より少ないといえども、大阪会場に来場する就活生は随分多い。日本人なら誰もが知る大手企業が今回のクライアントなので、それも不思議はなかった。


階下には商業施設が入るオシャレなビルの上層に位置する、白を基調とした貸し会議室。会議室間の通路にはふかふかの絨毯が敷かれており、朝から全力疾走した私のパンプスと足を優しく包んでくれる。きっと、慣れない靴に足を痛めるだろう就活生にも、同じ温かさで接してくれるはずだ。乱れた髪を直しに入ったお手洗いには、商業施設のテナントで販売されている石鹸やハンドクリームが置かれていた。良い場所の貸し会議室は、結構気が利いている。


なんとか息を整えて、私たちスタッフに与えられた控室に入る。そんな私へ無言で視線を寄越したセクハラクソ管理職に、元気すぎる挨拶をしながら駆け寄った。まだ40代半ばのはずのこの男、実年齢より10歳上に見えるくらいには老けている。肌は黒ずみ、見るからにカサカサ。髪は生えている量が一定ではなく(要するにハゲている)、色も白の方が多いくらいだ。しかもジャケットの下から顔を出すワイシャツの襟は、時々残念なくらい擦り切れていた。なお、なぜか自分は後輩から慕われている「成功した男」だと思い込んでいる節まである。この激務を10年以上続けると、人類はみなこのくらい残念な存在になってしまうのだろうか。


これでいて、若くて従順な女性社員が入ってくると手を出そうとする、既婚者子持ちだ。もちろん、その気持ち悪さから、例外なくターゲットにされた女性は辞めていた(ちなみに私は社内でいえば若いが、従順ではないためターゲット外だ)。それでもこの男が管理職でいるのは、20名規模の中小企業には替えの人材がいないうえに、コンプライアンスもなにも機能しないからだった。それにしても、自分を犠牲にしないと長く働けないうえに、人の心をなくしたセクハラクソ野郎に成り下がるのかと思うと、私もこの会社からの潮時はしっかり見極めなければなるまい。


「じゃあ、今日はまず田中と組んで受付やってくれ」

朝から嫌なもの見ちゃったなぁという気持ちでいたら、セクハラクソ野郎から指示を飛ばされた。その声に反応して壁際の椅子から立ち上がり、関西なまりであいさつしてくる女性がいた。30前後と思われるその女性は田中さんといって、当社がこの選考会の最中に事務員として臨時募集したバイトの1人だった。しかも、この方はバイトさんのなかでも唯一、5年連続うちの臨時バイトに来ているという。もはや私よりベテランだった。


セクハラクソ野郎から受付の仕方や、面接結果をPCに打ち込む際の注意事項などを改めて説明される。バイトさんに交じってそれを聞いた後、私は田中さんと受付対応に向かった。テーブルや受付用の文房具、PCなどをセッティングし終えた頃、黙々と作業していた田中さんが話しかけてきた。


「大阪には、よくいらっしゃいますか」

「いえ、学生時代の旅行以来ですね」

「やっぱり東京の人はそうですよね。大阪にあるものなんて、向こうでなんでも買えますでしょ。逆に大阪にしかないものといったらアレくらいですかね。昨日、行かれましたか」


田中さんは東京のネズミには負けるかしらと、遊園地の話を始めた。私は小学生の頃を最後に遊園地と名のつくものには行ったことがない。田中さんが誇るそれも、名前は知っていたが大阪にあるとは知らなかった。単純に、私の常識がないだけなのだろうか。


「残念ながら昨日着いたのが遅かったので、どこにも行ってないんですよ」

「え!せっかく来たんやから、大阪っぽいこともせな、もったいないですよ」


びっくりしたのかすっかり関西風に話し出した田中さんだが、仰る通りである。遊園地以外におススメはあるか聞こうとしたところで、クライアントから声がかかった。就活生がそろそろ到着すると聞き、田中さんとともに居住まいを正した。



初日はバイトさんたちも不慣れなので、面接結果の入力作業に時間がかかった。結局、どこに寄ることもなくホテルに直帰。2日目はセクハラクソ野郎の別の案件を手伝う羽目になり、面接選考会終了後もホテルの部屋でキーボードを叩いた。聞いていた話と違うとぼやきながら作業をしたのは、言うまでもない。そうしてあっという間に、大阪出張も残り2日となった。


「もう明日でおしまいですけど、大阪楽しまれていますかぁ」

「粉もんはなにか食べました?」


受付の合間に控室で休んでいると、田中さんとは別のバイトさんたちに声をかけられた。彼女たちは面接結果の入力だけを担当しているため、初回の面接が終わるまでは暇なのだ。私は、昨日も一昨日も忙しく、夕飯を食べ損なったことを伝えた。ちょっと大きめの声で言ったので、控室の端でPCを見ているセクハラクソ野郎にも聞こえただろうか。


「ええっ、夕飯食べないとか無理ですわぁ」

「働き過ぎやないですか」


ごもっともである。私も好んで夕飯を抜いたわけではない。20代前半、まだまだ食べ盛りだ。おい、聞いてるかクソ野郎。


「仕事とはいえわざわざ来られたんやし、粉もんくらい食べていってくださいよぉ」

「あそこがおススメですわ!地下街通って―――」


行けるかどうかはわからないが、優しい地元民のアドバイスをとりあえずスマホのメモに入れる。明日は選考会が終わり次第、東京に戻ってオフィスで仕事だ。大阪を楽しむなら今夜しかない。地元民から口々に大阪を楽しめと言われ、なんだか私も謎の使命感を持ち始めていた。



そして遂に、今日は早く、夕方に仕事が終わった。浮かれたセクハラクソ野郎から飲みに誘われたが、運よく別のクライアントから電話が入り、緊急対応が発生したと去っていった。ありがとう、お客様。お金だけでなく、セクハラクソ野郎から守ってくれるなんて感謝してもしきれない。


そうはいっても、今からホテルに帰って、着替えてから出てくるのは面倒だ。一刻も早く大阪を楽しみたい。そんな気持ちで、仕事用の暗いスーツのまま、チョコレート色の扉の前に立っていた。商業施設の外階段を上った先に現れた、妙に重厚な扉。意を決して中に入ると、薄暗い店内にはカウンター席とソファー席が計10席ほど。しかし開店から間もないであろうに、ほぼすべて埋まっていた。


私は、仕事が終わって真っ先に、粉もんを食べるのではなくバーへ来ていた。仕事場の貸会議室からホテルに帰る際に見かけた、商業施設内のオーセンティックバーの看板が気になっていたからだ。20そこそこの若造が入るには勇気がいる雰囲気にドアの前に立ち尽くしてしまったが、もう社会人だと思い直して入店したのである。


アンティークグラスや革張りのソファーが配された、ブラウンのシックなインテリア。緊張しながら、店内をそっと見まわしていると、「こちらへどうぞ」と男性バーテンダーから声がかかる。私が入ってきたドアに一番近い、カウンター端の一席に通され、心地よい冷え具合のおしぼりを渡された。少し癖のあるイントネーションで話す彼は、韓国から日本のバーテンダー技術を学びに来ているのだという。私が東京から来たと話すと、自分も今度東京のバーへ勉強しに行くのだと笑った。


大阪に来て、なぜか銀座や新宿の街について話しながら、出されたメニューに目を通す。じめじめと蒸し暑い梅雨には、さっぱりさわやかなお酒に心惹かれる。私はミントの涼しさを感じるモヒートを注文した。…さも詳しそうに言ってみたが、モヒート以外のカクテルに詳しくないだけである。


「それにしても、初めてのご来店であちらの入り口からお越しになる方は珍しいですよ」


韓国人のバーテンダーと入れ替わるように、別の男性バーテンダーがカウンターの向こうに立った。モヒートは彼が作ってくれるらしい。


「当店は商業施設のなかにありますから、大体のお客様はフロアに面した入り口から、お越しになります」


なるほど、言われてみれば私が来たのとは逆側にも入り口があった。単に知らなかったので、そちらから来なかっただけだ。仕事帰りに『入口はこちら』の案内に沿って歩いてきたらチョコレート扉に行きついただけだった。フロアに面した入り口からだったら、もっと気軽に入れたかもしれない。そんなことを話すと、ロンググラスにミントやレモンジュース、ハバナクラブ3年というラム酒を注ぎ、一つのカクテルへとステアするバーテンダーは、少し笑った。


「先ほど東京のバーの話をされていましたが、大阪でも何軒か行かれましたか」

「いえ、ここが初めてです。仕事が忙しくて、どこにも行けなくて。でもバーに行けばきっと大阪らしい地元の話が聞けると思って、こちらに伺ったんです」


実はここ、気になるお店だと思ってスマホで調べたところによると、かなり有名なバーテンダーの店だった。私は酒にすごく強いわけではないし、知識も乏しいが、そんな方の店なら外さないだろうと踏んだ。大阪を楽しむ使命、今果たさん。


「そうでしたか。私は生まれも育ちも大阪なので、逆に『大阪らしさ』ってよくわからないですよ」


白い紙のコースターに、鮮やかな緑のつまったグラスがそっと置かれる。吸い寄せられるように一口飲むと、一気に飲み干したい気持ちがわいてくる軽やかな味が広がった。窮屈なスーツも、知らない土地での疲れも、セクハラクソ野郎への苛立ちも、すっと遠ざかっていくようだった。


しばらくモヒートの美味しさでひと盛り上がりしたが、いつの間にか話は『大阪らしさ』に戻っていた。


「やっぱり粉もんですかね。定番ですけど。高校生の頃なんて、友達と集まったらとりあえずたこ焼き焼いていましたし」

「たこ焼きってとりあえず作れるものですか?タコ焼き機がないとできないじゃないですか」

「あー、東京の方はやっぱり違いますね。こっちではたこ焼きがない家の方が少ないです。一家に一台は普通にありますよ」


私に水を出しながら、大阪のたこ焼き事情を話すバーテンダーの言葉に、つい笑ってしまう。笑いながら、モヒートを飲み切り、水にも口をつける。そのまま勢いで、ラズベリー・カクテルを2杯目として注文した。彼はカウンターの死角からラズベリーを取り出しつつ、そんなに面白いことを言いましたかね、と首を傾げた。


「まぁ『大阪らしさ』と仰るなら、とりあえず粉もんを食べてみてはいかがでしょう。むしろ食べないと、大阪って感じが全然しないでしょ」


フレッシュのラズベリー、自家製のラズベリージンとラズベリーシロップを1杯のグラスに注ぎながらきっぱりと断言する彼の言葉は、妙に説得力があった。



結局ロングカクテル2杯でかなり酔いが回った私は、最初に応対してくれた韓国人バーテンダーに見送られながら、店を後にした。バーでは3杯楽しめとか、ロングカクテル、ショートカクテル、ウイスキーなどの強いお酒でシメろとか、色々聞いたことはあれど、酒に強くないとできない技だ。もっと話していたい気もしたが、金を払わない客がカウンターに居座るのも野暮というもの。キレイに立ち去ろうじゃないか。心の中でカッコつけつつふと振り返ると、バーテンダーがまだこちらを見送っている。見えなくなるまで見守る彼に、こちらも敬意を表し一礼した。


時が止まったような非日常空間から外へ出ると、梅田の街はすっかり夜になっている。明日はセクハラクソ管理職と、大阪最後の仕事。東京に戻れば、また残業漬けの日々。少しずつ現実に引き戻されるが、酔った頭には「大阪を楽しめ」という声がリフレインしていた。


この後、バイトさんに進められた店でたこ焼きを買って、ホテルに帰ろう。明日は新幹線に乗る前に、駅のたこ焼き屋でも買ってみよう。大阪での時間は、まだ少しだけ残っている。

商業施設、貸会議室の辺りでお察しかもしれませんが、このバーは実在のお店がモデルです。

とても素敵なお店です。ここで題材にしたこと、どうかお許しください。


なお、本作は母校の文芸部誌に、卒業生として参加した際の投稿作品をリメイクしたものです。

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