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即興小説集  作者: quiet
2/10

Drain(制限時間:30分)(お題:初めてのぬるぬる)

 排水溝ってどこまで掃除するものなんだろう。


 十八歳、春。悩み事なんかそのくらいしかなかった。


 四月だった。しかも初旬だった。一人暮らしを始めていた。しかも初めてのことだった。今日は燃えるごみの日で、きっちり朝の七時に起きて、今週一週間に生産したごみを指定の場所に捨ててきて、それで今はこうして立ち尽くしている。


 排水溝ってどこまで掃除するものなんだろう。

 目下のところ、悩み事はそれだった。


 ごみ受けの部分を掃除しているところまではよかった。いやあ春でも意外にこういうぬるぬるってついちゃうものなんだなあと思いながら、食器を洗うのとは別のスポンジを新しく下ろして、しゅこしゅこ磨いていた。


 問題はその先。

 ごみ受けが取り外せてしまった。

 そしてシンクの底に向けって、排水管が続いているのが見える。見えている。肉眼で。


 排水溝ってどこまで掃除するものなんだろう。

 そればかりが今はわからず怯えている。十八歳、春。窓からは暖かな風に吹かれて桜だって舞い込んできているというのに。部屋の中なんて桜まみれだというのに、そればかりが気にかかっている。


 手を伸ばせばどこまでも届いてしまう気がするのである。

 試しに一センチ擦ってみようじゃないか。ほら擦れた。ではもう一センチ擦ってみようじゃないか。ほら擦れた。では二センチ。人差し指の第一関節まで入ってしまったよ。


 これがもし、さらさらの排水管であれば話は違うのだ。

 さらさらのものを擦ったりする必要はない。綺麗なものは磨く必要がない。問題はこの排水管がそれなりにぬるぬるであることなのだ。ぬるぬるであるということは汚れがついているということで、汚れがついているということは磨きがいがあるということである。どちらが新生活の部屋にあってうれしいかといえばそれは間違いなくさらさらの排水溝であって、憎き憎きぬるぬるの排水溝よ、お前をさらさらに変えるために我が指は震えるのだよ。


 じっと排水溝を眺めていると桜の花がひとひら、排水溝に落ちていった。ふとそこで思いつくのである。あの木の葉が落ちる頃を死するときと見定めるように、あの桜の花が落ちるところまでを私の領土と見つけてやろうじゃないか、と。


 ぬるぬるに絡め取られてぴたりと配管に張り付いた花びら。ほら指を埋めるよ。股のところまでだ。おやさらに下の方に落ちてしまったねえ。困ったやつだ。その先に何があるわけでもあるまいに。それじゃあ次は手を入れこむよ。今度は生命線まで。あら。手首まで。おいおい。肘まで。君ってさ。肩まで。もしかするとさ。頭まで。


 こんなものなのかよ。


 ふと気が付くと、私はまた部屋の中に立っていた。

 何の変哲もない部屋である。何もない部屋である。春。十八歳の部屋なんて、これからである。


 手元を見る。

 ごみ受けは元の場所に収まっている。


 手をよくよく洗ってベランダに出ると、青空一面から青という言葉を奪い取って桜空と名付けんばかりの一面の花びらが頭上に広がっている。


 ふと隣を見れば、隣の部屋に住む人がそこに立っていて、私はこんな風に声をかける。


「綺麗ですねえ」


 そうかな、とその人は言う。


「知ってると思うが、あれってぬるぬるしてるんだぜ。汚いったらありゃしないよ」


 そうですかねえ、と私は応える。

 最初だけだぜ、と男は言う。

 綺麗に見えるのがですか、と私は聞く。


 いいや、と言って、


「追い求めたくなるのが」


 部屋に戻れば、やはりそこに排水溝がある。

 私は聞く。


「磨いた方がいいのかい」



 来るな、と声は返ってきた。


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