豊水の浄瓶
あれからどれくらい時間が経っただろうか。
飽くことも倦むこともなく文字通り一瞬たりとも休むことなく歩き続け、周囲を高い壁で囲まれた街の入口に辿り着いていた。
「すみません、ここはラレスの街で合っていますか?」
「ああ、その通りだよ。ようこそラレスの街へ。しかしまだ日が昇ったばかりの時間に旅人とは珍しいね。ていうか君、何も荷物を持っていないじゃないか。まさか盗賊に奪われたのかい?」
さっそく入り口にいた二人いた衛兵のうち、右のほうに立っていた人に話しかけるが、初っ端から怪しまれてしまった。
「はあ、まあそんなところです。それより、ここに豊水の浄瓶があると聞いてきたのですが」
「それよりって君ねえ――確かにこの街には聖具、豊水の浄瓶があるよ。あれのおかげでいままで慢性的な水不足だったこの街も今ではすっかり豊かな暮らしができるようになったよ」
そう自慢げに話す衛兵。
「でもここだけの話だが、おかげで周りの村々からはずいぶんと恨まれるようになったんだぜ。まあ、いきなり水に困らなくなったこの街に対するただのやっかみなんだけどな」
「おい、あまり大きな声で人聞きの悪いことを話すなよ」
「いいじゃねえか。俺だって元々はそんな村の一つの出身なんだ。この街への恨みを時々愚痴をこぼすことで発散するくらいは許してくれてもバチは当たらねえだろ」
「ううん、そりゃ、まあな。この街が仕事を独占しちまってる状況はよくないとは思うけどな・・・・・・」
突然話に割り込んできた左の衛兵。
それをたしなめる右の衛兵だが、返してきた言葉に応える術がないらしい。
「じゃあ、別にこの街が豊水の浄瓶を失ったとしても、まったく生きていけなくなるってわけじゃないんですね」
「まあ、元の生活に戻るだけと言えばそうだが――そういえばあんた、一体この街に何しに来たんだ?」
「ええ、ちょっとその豊水の浄瓶を破壊しに」
冗談で言ったつもりは全くなかったのだが、一瞬きょとんとした顔をした二人の衛兵に爆笑された後、盗賊に襲われて一文無しになったという扱いで入門税をタダにしてもらった上、豊水の浄瓶がある場所の簡単な地図まで書いてもらった。
どうやら衛兵たちからは少し頭の弱い人間と思われたらしい。
最後には二人に肩を叩かれながら頑張れよと励ましの言葉までもらった。
彼らが一体どういうつもりでそう言ったのかは分からないが、俺は頑張るつもりはないし、頑張らないつもりもない。
ただ淡々とやることをやる。それだけだ。
豊水の浄瓶がある場所、街の中央部に位置する噴水広場に辿り着いた時、時間はすでに朝食時だったらしく、大勢の人が整備された石畳の上を所狭しと行き交っていた。
周囲には市場が立ち、様々な物品の販売の他に、観光客目当ての屋台も軒を連ねていた。
その活気の中心というべきものが、鮮やかに噴き出している噴水の中央に鎮座する豊水の浄瓶だった。
まさに賑わいの中にあるラレスの街だが、今の俺には食欲も必要な道具も何もない。
他に見るべきものも見当たらなかったので、脇目も振らずにまっすぐ豊水の浄瓶がある噴水へと突き進む。
そして、人々が噴水に触れられるように柵も何もない石造りの淵に辿り着いたその時、久しぶりにあの声が頭の中に響いてきた。
「ようやくたどり着いたね。まあ、僕にとっては時間の概念なんてあってないようなものだから、辿り着いてさえくれれば他のことはどうでもいいんだけどね」
こちらの感覚に合わせているのだろうか、俺がゆっくりと噴水を見渡す間はなぜか声は沈黙を守り続けた。
水際で涼し気に楽しむ親子、その様子を離れたところで目を細めながら眺める老夫婦、仕事の合間に一時の涼を求めたといった感じで素足を浸す大柄の男。
まさに老若男女が一様に豊水の浄瓶の恩恵に預かる、平和そのものの光景だった。
「そんな平和を今から徹底的に破壊しようとしているのが哲太郎君なんだけどね。どうだい?この光景を見て何か思うことはないのかい?」
「いえ、特には」
俺は噴水の淵に足をかける
「君は多くの人々の幸せを奪おうとしているんだよ?」
「知らない人ばかりですから」
靴が濡れるのも構わずそのまま水の中にに足を浸す。
「ちなみにこの噴水には豊水の浄瓶を守るために複数の魔法障壁やトラップが仕込まれているんだ。だからここにいる人たちは噴水の中に入ろうとはしないのさ」
「俺には効かないですね」
一瞬何か硬いものに当たった気がしたが、すぐに割れるような音と共に何の抵抗も感じなくなった。
「それだけラレスの街の人達はこの聖具を大切にしているということさ」
「俺にとっては大切じゃありませんね」
足元の穴から何十もの槍が飛び出すが、俺に触れたものは片っ端から自壊していった。
「ほら、みてごらん。哲太郎君の行動を見た人たちが悲鳴を上げ始めたよ。彼らを見て、君は何も感じないのかい?」
「見る必要を感じないので」
次第に騒がしくなっていく大勢の声の中、構わず噴水の中心に向かって突き進む。
「さすがにこれだけの騒ぎになれば警備兵が出てくるよね。ほら見てごらん哲太郎君、みんな必死で君を止めようとしているよ」
「まったく止められてないですけどね」
確かに、背後には騒がしいまでの水音と、腕や足に尖った何かが当たったり掴まれる感触は感じる。
だが、その一切が俺の歩みを止めるまでに至っていない。というより、何の障害にもなっていない。
そのうちに俺を止められずに無力感に襲われたか、それとも俺の体に無理に掴まっていたせいで怪我でも負ったのか、噴水の中心に辿り着くころには俺の周りから誰もいなくなっていた。
「まあ破壊不能オブジェクトに対してこの世界のどんな存在も影響を与えることはできないから当然の結果なんだけどね。さあ、そうこうしているうちに到着だよ」
「これが、豊水の浄瓶ですか」
形と大きさは小さめの水差しそのもの。
だが、芸術的な装飾と青色に淡く光る輪郭が荘厳な雰囲気を醸し出している、そんな現実離れした代物だった。
「お、さすがにこのまま終わりというわけではないか」
とりあえず持ってみようと手を伸ばした瞬間、その声と同期するように白い光でできた格子が天から降ってきて豊水の浄瓶を取り囲んだ。
「へえ、光牢結界か。これは千人分の魔力をぶつけないと突破できない強力なものだよ。これを設置した魔導師はこの聖具の重要さをよくわかっていたようだね」
「それ、俺に関係ありますか?」
「いや、まったく関係ないね。でもまあ、ちょっと考えてほしいところではあるかな」
おそらく俺の行く手を阻んでいるこの結界も、この手でつかめばあっけなく破壊されることだろう。
そう思って光の格子に手をかけようとした俺を、正体不明の声が止めた。
「――何をですか?」
「今の哲太郎君には力がある。そして僕が与えたものだけど、一応目的もある。だからこそ、一つの世界を丸ごと敵に回す、その覚悟があるかと聞いているんだよ」
「ありませんよそんなの」
パキイイィン
まるで飴細工のような脆い音を奏でながら俺の手に掴まれた光の格子は崩れ去り、豊水の浄瓶を守る最後の砦はあっけなく陥落した。
「ほら、耳を澄ましてごらん。多くの人の声が、叫びが、嘆きが。このすべてが哲太郎君一人に向けられた言葉だ。彼らが願っているのはただ一つ、君に豊水の浄瓶を破壊ほしくないだけだ。別に哲太郎君の力を知っているわけではなくとも、本能的に危機感を持ったのだろうね。そして、彼らの願いをかなえることはとてもたやすい。さあ、哲太郎君、君は多くの人々の幸せを、願いにどう応える?」
「応えません。強いて応えろというなら、これが俺の答えです」
俺は目の前にあった豊水の浄瓶を無造作に片手でつかんで頭上に振り上げ、勢いそのままに思い切り薄く張られた水面に叩きつけた。
カシャアアアアアアァン
それなりの重量だった聖具は水の力だけでは衝撃を吸収しきれずに無数の破片となって周囲に飛び散り、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った広場にその破砕音が響き渡った。
シン
ワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!
一瞬の静寂の後、沸き起こったのはあらゆるネガティブな感情が無秩序に入り混じった絶叫の嵐。
それは単に音だけでなく、剣、槍、ナイフ、木材、陶器、果物、攻撃魔法と思しき色とりどりの光の玉など、物理的なものも含まれていた。
ただ一点、俺めがけて。
だが、それらは全て俺には効かない。俺には届かない。俺の心に何の影響ももたらさない。
「やっぱり人間というものは無駄の塊だな。こんなことをしている暇があったら聖具の代わりになりそうな対策の一つでも考えればいいのに」
そう呟きながら、俺は来た道を引き返すことにした。
「おいおい、そんな風に街の人達の感情を逆なですることもあるまいに」
「他に街を出る道を知らないんですよ」
周りからしたらこの返事も独り言にしか聞こえていないんだろうな。
そんなことを考えながら、俺は次々に襲い掛かってくる殺意に目もくれずにひたすら前だけを目指して進んでいくのだった。