11
忠犬 ~奈良の主はだぁれ?~
彼は桜を見上げていました。
もう、ほとんど花は散ってしまっている桜です。
「時間、遅れていますよ」
私の声に反応をするように彼の手が動いたようでしたが、返事はありません。
桜の木の側で寝転んだまま、彼は何も言いはしないのです。
「お待たせしてしまいますよ」
そこで彼の顔を覗き込んで、初めて彼が眠っていることに気が付くのです。
たぶん私も人を待たせるということを、それほど悪いと思っていないところがあるのでしょう。そういったたころで私は不真面目でした。
自由の中で生まれ育った私にとっても、決められた時刻というのは不得手に決まっているのです。
眠っているのならば起こしてしまっては可哀想だと、待たせている人がいることを知りながらも私は彼の寝顔を眺めていました。
もちろん、遅刻はよくないことだとはわかっています。
自然にしていて、彼が起きるようなことはありませんでした。
「いつまで、何をしているのですか?」
待ち侘びたようでやってきた女性に、漸く私は自分の非礼を改めて自覚します。
「ほら、起きなさい」
肩を揺らして彼を起こせば、呑気に陽気に「おはよう」などと挨拶までしてくださいます。
そんなところがおかしくて私は笑うのですが、それもまた失礼なことでしょう。
「身分の低い方らしいですね。おはようという時間でもありませんし、そもそも人を、ましてこの私を待たせていたのだから、謝罪から入るのが当然ではありませんか。まあ、謝罪したからといって許されることではありませんが。それだとしても、誠心誠意謝って、今後は私の奴隷として生きようと誓うべきです。わざわざ言われないとわからないのですか?」
見下した物言いではありましたが、言っていることの前半は私にも納得のできることでした。
お待たせしていたことも、一言目に謝るべきであることも、事実だと思います。
ここまで言われてしまって、素直に謝るような私ではありません。その対抗心に似た奇妙な心が私の出自の特性でしょう。
「青丹よし奈良ならぬ地の青人草君こそ知らめ慣らふままならで」
身分としても状況としても、私は説教をするような立場にありません。
ですから私が詠んだ歌に驚愕されたのでしょう。
目を丸くして、彼女は綺麗な声で歌います。
「吉野のさくら畝傍山歴史を染めて陽がのぼる大和の国に住む歓びを肩寄せ」
「ストップ!」
返歌のようではありますが変わったもので、こういった形のものもあるのかと私は感心していたのですが、彼がその歌を止めました。
「自分が作った歌のように歌うな、著作権がある。奈良を愛する気持ちを伝えるためにも、そんな方法は止めるんだ!」
今目覚めたばかりの人とは思えない叱咤でした。
彼の言葉に頷いて、女性は再び歌を詠みました。
今度は私が知っている歌の形です。
「春日野の瑠璃空の下杉が枝にむらさき妙なり藤の垂り花」
そして今度は、私が知っている歌なのでした。
「それ、有名な歌ですよね」
どこにもそんな要素はなかったと思うのですが、女性はどこか嬉しそうに私たちを見ていました。
怒っているでも恥じらっているでもなくてです。
「田舎の低俗な方々かと思えば、都のこともよくご存知ではありませんか」
何かを呟いていたようです。
それから謝りもしていない、無礼なことばかりしているはずの私たちに対して言ってくださるのです。
「今回だけは特別に、お許していたしましょう」
それは温かく広い心の現れのように思えました。




