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記憶喪失 ~一方通行の恋心~
どうにもならないものとして、病というものは目の前に立ち塞がるのでしょう。
どれほど意志を持って僕が決意を固めて願っていたとしても、病の前では逆らえないのでしょう。
心の前にある脳が、愛さえ否定してしまうこともあるのでしょう。
絶対に僕は愛する妻のことを忘れようはずがありませんが、記憶喪失、そうでなくても、認知症といったようなもので自分のことさえわからないまでになってしまうかもしれません。
歳を取って、わけもわからなくなっていってしまうかもしれません。
そして、僕は既に若くはないのですから、それが遠い日の話とも言えないのが、何よりも怖いのです。
身体的な別れも苦しいに決まっていますが、変わらずにそこにいてくれているのに、自分だけが変わらないままに忘れられてしまうというのはどれほど苦しいのでしょう。
耐えられない話であるのは、想像するまでもなくわかりました。
「わたしがあなたのことをわからなくなってしまって、あなたのことを拒絶するようになったら、あなたはどうなさいます?」
僕が聞く前に、妻にそう聞かれてしまいました。
忘れられてしまうだけではなくて、拒絶されてしまうようになってしまったら?
「それでも僕の愛は止まるものではありません。けれど、それでも嫌がられているというのに、無理に迫ろうという気はありません」
「じゃあ」
「僕だけ、涙を堪えて一人で消え去りましょう。いなくなってしまった愛おしい人を追って、一人で消え去りましょう」
「記憶を失ったわたしは、もうわたしじゃないということですの?」
「いつか思い出す日を信じて待っているよりは、少しでも早く、追い掛けたいのです。僕さえいなくなってしまえば、古い記憶を取り戻すことはないようなものではありませんか。新しい幸せを生きてもらうために、そのときにもう愛する人はいなくなってしまったのだとして、僕も消えます」
僕の解答に何を思っているのか、彼女は黙り込んでしまいました。
「わたしが忘れて生きるように、あなたもわたしのことを忘れて生きることは、不可能ですの?」
「病や事故によって僕も記憶を消されてしまったというのならともかく、そうでないのなら、僕には忘れることなど……不可能です。思い出にしてしまうことも、忘れてしまうことも、無理なくらいに愛してしまったのですよ」
「愚かですのね」
「愚か、なのですよ」




