式場に向かう車の中で
「もう、スーツくらいきちんと着れるようになりなさい」
「え? どこかおかしい?」
加奈子は哲朗の乱れた襟を直す。普段自分でも着ない黒い服ではあるが、それでも長年働き続けていた彼女だ。取引先に失礼の無いように違和感のない着こなしをするくらいの技能は備えている。
対して、息子の哲朗はもう二十二になろうかというのに、着ることは出来ても着こなすことは難しく、ネクタイを結ぶのにも四苦八苦する有様だった。
それは別に、彼が無精だとかそういう理由ではない。ただ、彼はそれを着る機会が少なく、ただ知らないだけだった。
曲がったネクタイを直し、すこしのけぞり遠目に見て確認する。
親に服装を正されるという行為。それは青年となった息子には往々にして恥ずかしいことだったが、哲朗はその姿に反抗などしなかった。今日は大事な日だ。主役の妹に恥をかかせぬよう、少しでも見栄えは整えておきたかった。
「よしオーケー。さ、今日はあんたの運転なんだから、……安全運転でね」
「わかってるよ」
丁寧な運転を、という意味を含んだ母親の言葉に、少しだけむくれながらも、それでも真摯に応える。
そう、万が一の事故などあってはいけないのだ。彼らは、加奈子の娘であり哲朗の妹である、芽衣子の待つ式場へ、間違いなく行かなければいけない。
運転席には哲朗が、助手席には加奈子が座る。
直前に加奈子が使った白い軽自動車のバックミラーは哲朗には使えないように調整されている。発車前、車庫の後ろにある工具箱を使い自分用に調整するのは哲朗の癖だった。
ガチャンガチャンと椅子を前後させて、何度かブレーキを踏む。
中年女性の加奈子に合わせたその椅子は、哲朗には前に出すぎており、ハンドルに胸が付くようだった。
丁度いいように直された運転席。
両手でハンドルを握る。
「じゃ、いきますか」
「ええ」
加奈子は窓ガラスに額をつけるようにしながら、力なくそう応えた。
家の前の坂道を下る。
哲朗はふと、その坂道で妹と自転車の練習をしたことを思い出す。
「だってこれ二つしかタイヤが無いんだよ!? 倒れるに決まってんじゃん!」と幼い妹が叫んでいた言葉が今でも耳にこびりついている。
哲朗の誕生日に買ってもらった自転車。そのとき何故か同時に買ってもらった芽衣子だが、やはり年齢のせいだろうか。哲朗はすぐに乗れるようになったのに対し、芽衣子は一ヶ月はかかった。
膝に擦り傷を作ろうとも、顔から地面にぶつかろうとも諦めなかった妹が、初めて乗れるようになったそのときには心底喜んだものだ。
ピンク色のタイヤの自転車でブレーキをかけると、地面にピンクの色が付く。
その色はもうとうに消えてしまったが、哲朗の目にはそれが未だに残っている気がした。
ウインカーを出し、左右を確認する。低い位置につけられたカーブミラーは、トラックがぶつかったのだろう、だいぶ前からそっぽを向いて機能していなかった。
「今頃雄一さんと会ったころかしら」
ぽつりと加奈子が呟く。
雄一、その名前を口の中で反芻した哲朗は、苦々しいような、笑っているような顔をしてそれに答える。
「とっくに会ってるだろ。だいぶ前に向こうに行ってるんだから」
大事な妹を連れて行ってしまった憎き婿殿。理性では納得していても、それでも感情はまだ折り合いがついていない。仲が悪いわけではないが、哲郎は雄一が苦手だった。
「そうよね。また、二人仲良く暮らしてくれるといいけど」
「ちょっと離れてただけじゃんか。それに、仲が悪かったわけでもないし」
横断歩道を渡る子供を待ちながら、哲郎は加奈子を顔を見ようとする。
しかし加奈子は顔を向けず、その向こう側で子供が頭を下げていた。
「あの子もいっちゃって、あんたも出ていくし、寂しくなるわ」
「はは」
哲郎は乾いた笑いで返す。
寂しくなる、などどの口が言うのだろうか。そんな文句を飲み込んで。
妹が小学校に上がったあたりから、両親は共働きになった。
父親の稼ぎが少なかったわけではない。ただ、加奈子が『働いている自分』に価値を置いていたからだ。
その辺りを責める気は哲郎にはない。
だが、文句はある。寂しかったのはどちらだろうか。
学校から家に帰ってきても誰もおらず、いても妹のみ。夕ご飯はカップ麺。お湯を入れれば子供でも簡単に作れるそれが、哲郎にとっての家庭の味だ。
それは、夢を追い店を変えた今ですら、変わっていない。
「いつお店だせそうなの?」
「まだまだ、あと五年は働かないと」
それくらいが最短の道だろう。そう哲郎は考える。
現在哲郎は料理人だ。ようやく見習いがとれ、厨房で作る料理が胸を張ってお客様に出せるようになってはきている。五年もあれば、借金も足して小さな店を出すくらいは出来るだろう。
だが、まだ足りない。
胸を張って出せるだけでは足りない。しかめっ面を笑顔に変えられるくらいの自信を持たなければ、自分は店など持てないのだ。
「……なあ、言ってなかったよな」
「何を?」
初めて加奈子は哲郎の方を向く。その赤い目には、うっすらと涙の膜が張っていた。
「俺が料理人になろうとしたのってさ、芽衣子が原因なんだよね」
今度は気恥ずかしくて、哲郎の方が加奈子の方を向くことが出来ない。お互い、涙を浮かべた目を見せたくないという事もあるが。
「初耳だわ」
「俺が小学校のとき、芽衣子と二人で留守番してた時さ、たまたまカップ麺が用意されてなかったんだよね」
哲郎は目を細める。
懐かしい。自分が料理人を志した原点だ。
「そのとき、俺が冷蔵庫にあった卵を使ってさ、テレビの見よう見まねで卵焼きを作ったことがあったの覚えてねえ?」
「……なんとなくおぼえてるわ」
加奈子も、朧気だがたしかにそれは記憶にあった。
だがそれは、『子供が勝手に火を使った上に台所を汚した』という事に対する説教の記憶だったが。
「そのとき、芽衣子が言ってたんだよね。『お兄ちゃんは、まるでテレビの魔法少女みたいだね』ってさ」
「何よそれ」
加奈子が僅かに噴き出す。それは久しぶりに見せた微かな笑顔だった。
「未だによくわかんねえけど。芽衣子に取っちゃ誉め言葉だったんだよ、きっと」
そう、多分そうだろうと哲郎は思っている。あの頃の小さな芽衣子にとって、テレビで見る魔法少女は憧れの存在だ。自分の憧れの存在との同一視。子供なりに放った、精いっぱいの賛辞の言葉だったのだろう。
「あんたはそんなことで一生の仕事を決めちゃったんだ」
「おう、そんなことだよ」
くく、と笑いながらハンドルを切る。大通りに出た車は、哲郎の踏んだアクセルの通りに速度を上げた。
会話が途切れ、静かになった車内。
窓ガラスを雨だれが叩く音が響いた。
「……雨、降ってきたな」
「そうね」
何となく天気が悪かったが、ついに降ってきたか。今日の予定に影響することはないだろうが、それでも青空の晴れた日に送り出してやりたいと思うのは、兄として思っても仕方のないことだろう。
「親父はもう式場にいるんだよな?」
「ええ。昨日泊まったのはあんたも知ってるでしょ」
沈黙を消すための他愛もない会話も、今の加奈子には切って落とされる。冷たく放たれた言葉に、車内の温度が少し下がった気がした。
だが、空元気でもいい。元気が必要だ。哲郎はそう思った。
芽衣子がいなくなり、気落ちした加奈子は親父ともども、体を壊してしまうかもしれない。
その元気を出そうにも、哲郎自身も出せないのが問題だったが。
「今日どれくらいくるのかな?」
「え?」
「参列者だよ。芽衣子のこと、新聞に出したの、昨日じゃん。今日いきなり休んで、とかそういう人はどれくらいくんのかな、って」
「ああ、そんなこと」
芽衣子の苛立ちが少し哲郎の耳に響いた。
「あの子の友達は知らないわよ。でも、お父さんの仕事関係の人はそれなりに多く来るんじゃないかしら」
「盛大だな」
冗談めかして哲郎は応える。その乾いた笑顔は、車内の空気をより一層冷やすだけで終わったが。
式場の駐車場に入る。親族専用の場所は、もう打ち合わせの時に何度も停めたところだ。
「……さて、行くか」
「ええ」
加奈子は応えたが、その手は動かない。扉を開こうとする気力さえないのか、ただボーっと窓の外を眺めていた。
その肩を叩き、言い聞かせるように哲郎は言う。
「最後くらい笑って見送ってやろうぜ。これから雄一君と幸せになるんだって」
「そう、ね。向こうで雄一さんと、ね」
大きく溜息を吐き、加奈子はドアを開ける。
雨は小降りになってはいたが、空を見上げた加奈子の化粧をした顔を容赦なく叩く。
自動ドアが開き、中へと足を踏み入れる。その奥にいくつも置かれた大きな花束。
それはきっと、それだけ芽衣子が愛されていたという証拠なのだ。
そうだ、まずは芽衣子に挨拶に行かなければ。親父も芽衣子のすぐ横に立っている。
哲郎は気を取り直し、左右に椅子が並ぶ道を真っすぐに歩み、祭壇へと向かう。
加奈子もそれに続いた。
「今日で、最後だな」
哲郎は芽衣子に話しかける。出来るだけにこやかに。しかしその目には涙が浮かんでいた。
それを落とさないのは、妹に対する気遣いか、それとも意地だろうか。
加奈子も芽衣子に駆け寄る。
そして、見えたのは横たわった芽衣子の顔。まだ、まるで生きているかのような。
ガラス越しに見えたその冷たい顔を見て、言葉もなく大きな声を上げて、加奈子は泣き崩れた。