「なあ、剣術チートって知ってるか?」
「なっ、なんだ!?」
いきなり揺れた目の前の茂みを警戒するように祥吾は鋭い声を出し、沙羅も目つきを鋭くする。
緊張感漂う空気だが、何も茂みの中から飛び出してこない。
そんな茂みの様子に拍子抜けしたように祥吾は口を開いて沈黙を破る。
「なんだ、ただの風だったのかな?」
祥吾の言葉に沙羅は頷いて肯定を示す。
「ええ。恐らく風で茂みが揺れたんでしょうね。全く、こんな事で一々ビクビクしているわけにもいかないし、早く森の中に入りましょうか。」
何ともなさげに言っているが、それでも不安を感じていたのだろう。沙羅の顔には一粒の汗が浮かび上がっていた。
そんな沙羅の様子を察してか、祥吾は気楽に軽いステップを踏んで森の方向に歩いていく。
沙羅もその後を追って森の中に足を踏み入れて――。
「くっさ!」
シリアスな空気をぶち壊すように、祥吾は盛大に顔を顰めた。
「何よ、コレ…」
鼻をつまみんでもまだ感じられる何かが腐ったような臭いに、いつもはポーカーフェイスの沙羅でさえも思い切り不快そうな表情をしている事から臭いの酷さが想像できる。
「例えるなら、鯛焼きを鍋の中で水と一緒に煮込んで二時間経った後のような臭いね…」
沙羅の言葉があまりにも意味不明だったのだろう。思わず祥吾はツッコミを入れる。
「いや、鯛焼きを煮込んでもあんこの匂いしか出ないからな!?っつーか、あんこの匂いはいい香りに入るから!」
祥吾の言葉に顰めていた顔を元に戻し、沙羅は答える。
「いいえ。あんこの臭いは世界でも有数の悪臭の内の一つよ。そもそも、あんこ自体がこの世の最悪の食べ物の内の一つじゃない。口に入れた時に感じる甘さ、噛んだ時に出てくる甘さ、飲み込む時に感じる甘さ。」
沙羅の答えに祥吾は質問で返す。
「いや、全部甘さが原因じゃねーか…。あんこ嫌いなのか?」
「いえ、あんこだけではないわ。クリーム、カスタード、砂糖、ココア、フルーツ、チョコレート。あれらの食べ物に入っている味は私の天敵と言っても過言ではないわよ。」
「要するに極度甘い物嫌いなんじゃねーか…」
呆れたように呟いてからふと何かに気付いたかのように祥吾は問いかけた。
「なあ、甘い物が嫌いなんだったら、デザートみたいなメインの後の口直しは何を食ってるんだ?俺達みたいな現代人だったら絶対に何か食べると思うんだけど…」
「その事だったら、パフェにタバスコを一瓶かけて食べているわ。」
「えっ」
「アイスクリームに唐辛子、というのも意外と美味しかったわね。」
絶句している祥吾に構うことなく沙羅は言葉を続ける。
「甘さとは違って、辛さは神が人類にもたらした最高の味よ。口に入れた途端中に広がるピリッとした衝撃、噛んだ瞬間に溢れ出すあの旨味、そして喉を通る時の爽快感。中でも四川風麻婆は最高の食べ物ね。アレを敬遠するアナタ達が同じ人間だとは思えないわ。」
冗談を言っているでもなくあくまで真顔のまま言う沙羅に祥吾は戦慄を覚えた。
本当に辛党などという物が存在したのか、と。
漫画の中のキャラくらいしかいないだろうと思っていた辛党を発見できた事に祥吾は奇妙な感動を覚えていた。
そんな平和なやり取りを繰り広げる二人の目の前で再び茂みが大きく揺れた。
「ッ!?」
「誰だ!?」
茂みが揺れた事にできるだけ警戒して二人は茂みを睨みつけた。
これが森の外側などで起きたのだったらまだ風のせいとして受け流す事ができたが、今二人がいるのは森の中だ。風が吹くはずもないし、何より他の茂みが揺れていない中で一つの茂みだけが揺れている、というのは最早何かが茂みの中にいる事の明確な証拠になっていた。
二人の鋭い視線に晒されてか、茂みの揺れはますます大きくなる。
茂みのガサガサという不安を煽る音もますます大きくなっていき、不安と恐怖で二人の心が塗りつぶされそうになった瞬間、それを見計らったかのように茂みが大きく弾け飛んだ。
「なっ!?」
茂みが弾け飛んだ事に驚愕しながらも二人は元々茂みがあった場所に目線を動かし、その表情をより強い驚愕で彩った。
「なんだ…アレ…」
思わず祥吾は口から呟きを漏らしながらも目の前の魔物を凝視し続ける。
二メートルは簡単に超えるであろう巨体とその全身に刻まれた縞模様はどことなく虎を彷彿とさせるが、白い毛皮の色と背中から生えている赤い棘がそのイメージを壊す。
敵意に染まった真っ赤な目は、その魔物が祥吾達を敵だと認識している事をハッキリと表していた。
魔物は呆然としている二人の方向にその頭を向けて思い切り大きく口を開く。
その喉がゴクリゴクリと動いている事から魔物が何かを飲み込んでいる事は容易に予想できる。
他の生徒達が学業に励んでいる中で一人だけアニメなどの趣味に没頭し続けて、そのせいで不真面目な奴、などという評価を与えられてしまった祥吾。だが、そんな祥吾だからこそ、今魔物がやっている行動には見覚えがあった。
魔物の口が開かれる。
「アレって、よくある魔物が火炎放射する時のポーズじゃねーかッ!?」
思い切り叫びながら祥吾はその手を沙羅の肩に乗せ、力を込めて沙羅とともに地面に倒れこんだ。
祥吾が魔物が火炎放射のような攻撃をしてくると想像していたおかげだろう。
祥吾は地面に無事に倒れこみ、コンマ一秒の差でその頭上を熱の奔流が通り抜けていく。
頭上から熱を感じなくなり、火炎放射が終わったのだと判断して祥吾はその体を起こす。
そして炎が放たれた方向を見て――、絶句した。
「なんなんだよ、コレ…」
あまりにも炎の勢いが強かったのだろう。木々は燃えるという被害を通り越して幹の真ん中からへし折られていた。
そのあまりの威力に祥吾の背中に一筋冷や汗が流れた。
驚愕と恐怖に足を微かに震わせながらも祥吾は考えた。
もしも魔物に見向きもせずにそのまま二人で逃げても、火炎放射で狙い撃ちされておしまいだろう。
祥吾は火炎放射の射程をそこまで長くないと予想していたが、それに反して物凄く遠くまで火炎放射の通った跡があるのを確認し、祥吾はその選択肢の中から「逃亡」の文字を消す。
アニメやゲームの中だと遠距離攻撃が強い敵は近接戦闘に弱いというのが定番だが、目の前の魔物の前足に生えた深紅の爪と牙を見ると魔物は遠距離攻撃ではなくむしろ近接戦闘の方が得意なのではないかと思えてしまう。
そんな相手にわざわざ近接戦闘を挑んでも負けるのが目に見えていたので、祥吾は即座に近接戦闘を選択肢から消去する。
戦闘能力としてマトモに数えられるのは魔素のみで、他は魔素での戦いのバリエーションを増やすサポート、もしくはただの役立たずだというポゼアの説明を聞いていた祥吾には、自分も勇者の仲間の一員だから最後まで誇り高く戦う、などと言っても勝てるはずがない事は分かっていた。
「うう…。ケホ、コホッ…」
地面に倒れこんだ時に土煙でも吸い込んでしまったのだろう。咳をしながら沙羅は立ち上がり、祥吾と同じように火炎放射が通り過ぎていった方向を見る。
「何よ、コレ!?」
驚愕に彩られた声で沙羅が叫んだ時に既に祥吾の中では結論が出ていた。
目の前の魔物には絶対に勝てない、と。
「あぁ…。ダメだこりゃ…。どうしようもできないかなぁ…」
ボソリと祥吾が呟いた言葉に沙羅はキッとその鋭い目線を祥吾に向ける。
「ちょっと、何を言ってるのよ?あの魔物が強い敵なんでしょ?だったら倒せば良いだけの話じゃない。」
沙羅の言葉に力なく首を振りながら祥吾は答える。
その目は諦めの色に染まっていて、黒い瞳は絶望したかのように濁っていた。
「そんな事言ったって、普通に考えれば分かるだろ?あんな化け物には勝てないし、逃げることもできないって。」
「そんな事、やってみなければ分からないでしょう!?」
沙羅の言葉に祥吾は濁った瞳で空虚に沙羅を見返すだけだ。
そんな祥吾に苛立ちのメーターがマックスに達したのだろう。沙羅はいきなり祥吾の制服の襟首を掴んでその整った顔をずいと祥吾の顔に近づける。
「もういいわ。分かった。アンタが何もしようとしないって言うんなら、私一人でアイツを倒す。それで倒した後にアンタを思いっ切り殴り飛ばしてやるんだから!」
逃げるんじゃないわよ、とだけ言った後に沙羅は祥吾の制服から手を離して踵を返し、ゆっくりと魔物の方向に歩いていく。
ダメだ。やられてしまうぞ。そんな言葉が祥吾の喉でつっかえる。
祥吾にできたのは、ただ引き留めるようにその腕を沙羅に伸ばす事だけだった。
「確かに戦闘力なんてないんだろうけど、それでも幻術くらいはあるらしいんだから…」
祥吾を無視して沙羅は魔物の数メートル先にまで歩み出る。
手を重ねて首元に置いた沙羅に警戒するかのようにその爪を地面に減り込ませながらも魔物は口を大きく開けて息を吸い込む。
「だから!せめてその使えない幻術くらいは使えるようにしなさいよー!」
木々の葉で覆い隠されている空に向かって叫んだ後に沙羅は別の方向に駆け出す。
当然魔物は沙羅の走っていく方向に顔を向ける。
何もできないとは分かっていても、沙羅に対するわずかな期待はあったのだろう。だが、今の祥吾の瞳に浮かんでいるのは何かをやるような雰囲気を出しておきながら突然走り出す事しかできなかった沙羅への失望だった。
「あ…」
沙羅が赤色に飲み込まれていくのを見て思わず祥吾はかすれた声を上げる。
「グルッ?」
次はお前だと言うように祥吾の方に顔を向けた魔物は、その瞳に確かな動揺を映した。
祥吾の何メートルか先、沙羅が祈るようなポーズをしていた場所に、五体満足の姿で沙羅が立っていたからだ。
魔物の呆けたような声に祥吾は顔を上げ、立っている沙羅を見て驚愕の表情を浮かべた。
「どう、やって…?」
祥吾の声に答えるように沙羅がいきなり分裂する。
見た事のない現象に戸惑ったのだろう。不可解だとでも言わんばかりの表情をしながら魔物はその太い腕を横に振るって斬撃を飛ばす。
「なっ!?」
沙羅の四肢が斬撃に無残に引き裂かれることを想像していた祥吾は、思わず驚愕の声を上げる。
そして自分のアニメ知識を漁って納得した声を上げた。
「幻術で幻を操っているのか…!?」
祥吾の視線の先では、一方的な戦いが繰り広げられていた。
魔物が爪を振るって沙羅を切り裂くが、切り裂かれた沙羅はぼやけた後に消滅し、新たな沙羅が魔物に襲い掛かる。
「グルッ!」
切り裂かれた体から今度は分裂して三人の沙羅が現れ、それぞれの手に電気を纏わせて一斉に振る。
「意外と速いわね…」
物凄い反射速度で攻撃に反応し、全てを避けきって見せた魔物に感心したように沙羅は声を上げる。
「これじゃあ、どう?」
三人の沙羅がさらに分裂して三十人に増える。
「おお!」
あまりにも鮮やかに魔物を圧倒している沙羅に歓声を上げながらも祥吾は思い出す。
そういえば、アニメのラスボスの中にも幻術を使うキャラはいたな、と。
アニメの中で主人公を簡単に屠っていたキャラを思い出しながら祥吾は考える。よく考えてみれば幻術は最強なのではないだろうか、と。
祥吾は見え始めてきた勝利への希望を感じて期待に目を輝かせる。
だが、そんな期待が簡単に通る程世界は甘くなかった。
「ッ!?」
三十人に分裂して魔物と戦っていた沙羅全員が一斉にぼやけ、消滅する。
祈りのポーズをとった元の場所で膝をつく沙羅を魔物が見つけるのは簡単だった。
「グッ!?」
一瞬で魔物は沙羅の近くまで移動し、その鋭い爪の生えた手で沙羅を地面に押し付ける。
その目には、今まで圧倒された事への怒りが感じ取れた。
「ッ!?…あぁぁ…!?」
魔物は押さえつける力を徐々に強くしているようだ。どんどん大きくなっていく痛みにますます顔を顰める沙羅を見て魔物はニヤリとその口元を吊り上げる。
愉悦に染まったその瞳を数メートル先からボンヤリと見つめる祥吾の耳に、かすれた沙羅の声が入ってきた。
「ぅ…助…け…て…」
微かに目を開けて自分を見てくる沙羅に祥吾は体を震わせる。
助けろ、だと。冗談じゃない。大体お前は、俺が幻術を自由に扱えるお前よりも強いとでも思っているのか。俺はせいぜい剣を上手く使うことくらいしかできないんだぞ。
そんな言葉が喉元まで出てくるが、口に出すような事はしない。魔物の注意がこちらに逸れて魔物に攻撃されるからだ。いや待てよ、今なら逃げられるんじゃないか。
そんな事を考えながら祥吾は沙羅の目線から目を逸らして自分の後ろに広がる木々を見る。
こっそりあの木々の中に紛れ込めば上手く逃げられるだろうか。いや、ここはあえて茂みの中に隠れてやり過ごすしか――。
そこまで考えて祥吾は愕然とする。
自分はそんな事を普通に考えて仲間を見捨てられるようなクズだったのか、と。
自分は主人公になりたかったのではないのか、と。
「あ…あぁぁぁ…ッ!」
目の前から聞こえてきた呻き声にハッと現実に戻り、祥吾は考える。
逃げるのではなく、沙羅を助けるために何ができるのか、と。
祥吾の中に浮かび上がってきた選択肢は一つだけだった。
「グッ…アァァアァァ!」
痛みに声帯を震わせながらも沙羅は諦めたようにその目をふっと閉じる。
さっきの様子だと、祥吾は既に逃げたかもしれない。まあ、それでも良いだろう。自分の命で一人の他人を救えたのだから。もう満足だ。
そう思ってせめて最後くらいは笑おうと口を歪ませようとした沙羅の上から急に重さが消える。
「なん、で…」
目を開いた沙羅が見たのは、二、三メートル程飛ばされて体勢を整える魔物と、木の棒を構える祥吾だった。
「なあ、沢田さん。剣術チートって、知ってるか?」
「匂い」と「臭い」を書きわけましたが、これはミスではありません。
ちなみに、「匂い」は良いニオイを指して、「臭い」は嫌なニオイを指すようですよ。
地味に意気地なし系主人公。
こんなキャラで良いのか不安になってくるこここの頃。