桃源郷の遠吠え
ようこそおいでくださいました。ここは山水画の被写体として有名な中国の断崖絶壁、湖南省は武陵山脈、その真ん中にある湖でございます。しかし、クルージングにはあいにくの天気なので伝え話をいたしましょう。
その昔、私のご先祖も滅多に踏み入れることのない秘境に狼の群がありました。その群の中にしなやかな銀の毛に覆われた年頃のメス狼がいました。その名をリンリンと言います。その群は単独行動を禁止していましたが、リンリンには耐えられないほど退屈でしたので、その日もいつものように群を離れて湖へ向かおうとすると、同じ群にいた三匹のオス狼たちは、誰かがこっそり彼女にちょっかいを出すのではないか、と抜け駆けを心配してお互いを見張り合いながら、リンリンの後をついて行きました。
三匹のオス狼のうち始めにリンリンに声をかけたのは顔と背中に縦縞がある狼でした。
「完璧だ、リンリン、君は相思鳥よりも美しく、白虎よりも力強い。いつ僕と結婚してくれるんだい?」
リンリンは慣れたように言いました、
「よくもあたしにそんなこと言えるわね。自分の顔をそこの湖でよく見てご覧になって。あなたの歯は栗鼠みたいに小さいわ」
(ひどいや、僕はこの歯でどんな獲物でも噛みきれるのに・・・・・・)
「おい!」それを見ていた豚鼻の狼が言いました「誰に許しを得てリンリンに声をかけた? リンリンと結婚するのはこの俺様だ、どうだ見ろよ、俺様の切れ味鋭い立派な牙を!」
リンリンはこれにも慣れたように言い返しました、
「冗談も休み休み言ってくださる。あなたのその潰れた鼻。そんな女々しい鼻では人間が火縄銃を持って来ても気づかないでしょうね」
(何を! 俺様が皆に危険を知らせてやったことだってあるんだぞ)
「ああ、良かった」それを見ていた金色の狼が言いました、「リンリンが彼らを相手にはしないってことはわかっていたけどね。さあ、一緒に行こう、リンリン」
リンリンは少し考えて言いました、
「あなたと行くともまだ言っていません、女性に時間をくださらないの?」
「私は群の長の息子だぞ、私に足りない物なんてあるものか!」
これにはリンリンも腹が立ちました、
「あたし、あなたたちのそういうところが一番嫌いなの」
リンリンを取り囲んだ三匹のオス狼たちは、誰が彼女に相応しいか決めよう、と勝手に言い、その方法を巡って言い争いを始めました、
「僕は『じゃんけん』がいいと思う」と縦縞の狼は主張しました、「運はこれまでの行いによって決まるから誰にとっても公平なんだよ」
「それはどうだか。とっとと『力比べ』で決めちまおうぜ」と豚鼻の狼は主張しました、「自然界では強いやつが生き残るんだから女にとってもそれが一番いいんだ」
「『選挙』って言葉を知っているかい?」と金色の狼が主張しました。「大事なことはこれまでもずっと群の多数決で決められているのさ」
いつの間にかリンリンは抜け出して、湖の縁で一人、水面に写る自分の姿を見つめていました。
(あたしはこの群の伝統的な美貌を全て兼ね備えてしまったわ、大きな牙に尖った耳、銀の毛も全て、全てあたしのもの)
リンリンが自分の美しさに満足して、そこを離れようとした、その時です。近くの洞穴から不気味な遠吠えが聞こえました。それは森の誰もが聞いたことがないほど大きくて醜い声でしたので、狼たちは自分たちよりも何倍も大きくて醜い獣を想像して身震いしました。
リンリンが後ろに目をやるとすでに三匹のオス狼は逃げ去っていました。
それから三日が経ちました。群のオス狼達は謎の遠吠えのことなんかすっかり忘れて、リンリンの芳しい匂いがなくなっていることが気になっていました。
始めのうちは、病気でもしているのかな、と心配していましたが、日に日に大きくなるお腹を見て、誰かがリンリンが妊娠したと言い出しました。
新しい命が一目瞭然になってもまだ夫が名乗り出ないので、オス達は、ひどい奴に騙されたんだ自分を選べば良かったのに、と各々怒りを募らせました。
しばらくしてリンリンは無事に元気な男の子を生みました。赤ちゃんを抱き上げた群の長は、こんな立派な子供は見たことがない、と感激して宴の支度をするように命令しました。
その夜、群の狼達は和になってご馳走を取り囲み、ヨダレを地面まで垂らしながら、長の乾杯を待っていました。
長は見上げた夜空にいくつもの流れ星を確認して言いました、
「星降る夜に産まれた赤子はやがてこの森を司る大神となる、と言い伝えにある。我らが祖先は平和を愛し、戦を逃げ延び、偶然にもこの桃源郷を見つけることができた。しかし、ここが他の狼たちに見つかるのももはや時間の問題。今朝も侵入者を見つけ、生け捕りにした。今夜の丸焼きは、そいつじゃ。もう一刻の猶予も残されていまい、きっと、この子が打開策を見つけてくれるはずだ。リンリン、うちの倅の子供を産んでくれてどうもありがとう、さあ皆の衆、お食べなさい」
腹ぺこの狼達は号令だけをちゃんと聞いていっせいにご馳走にかぶりつきました。しかし、食べる気になれない狼が一匹だけいました、リンリンです。リンリンは長の元まで静かに行き、意を決して言いました、
「長様の孫ではございません。あたし一人で育ててみせます」
そして宴の主役は返事を待たずに群を離れ夜の森に消えていきました。
それから半年程が経ちました。
湖で水遊びをしていた若狼は、そのとても逞しい体を濡らしたまま、洞穴に入って言いました、
「ねえ、母さん、反対岸に狼達がいるよ。遊びに行っても良い?」
母狼は恐い顔して言いました、
「何度言ったらわかるの! 絶対に彼らに近づいちゃだめ! 彼らは群の仲間以外を皆殺しにして食べてしまうわ、母さんはあそこで育ったからよく知っているの、彼らの飢えは満たされることがないのよ」
「そうかなあ。母さんにはわからないかもしれないけど、僕は誰とでも友達になれるんだ。飛蝗は道を教えてくれるし、朱鷺も挨拶してくれる。嘘だと思うかも知れないけど、さっきの水鳥さんは、あなた様の肉となるなら喜んで、って言ったんだ。僕はお腹が空いてなかったから、今は食べないよって答えたよ。嘘じゃないよ」
「はいはい、わかったから、お母さんの言うことをちゃんと聞いてちょうだい」
ある日、母狼が狩りを終え、住処にしている湖の脇にある小さな洞窟に着くと、そこら中血の臭いで一杯になっていました。何事かと慌てて中には入ると、そこにいたのは、以前群で一緒に生活していた狼のうち、熱心にリンリンを口説いていた三匹のオス狼でした。
金色の毛の狼が言いました、
「おかえり、急に群を出て行ったと思ったら、こんな辺鄙な所に住んでいたんだ」
縦縞の狼は拾った小枝を楊枝の代わりにしながら言いました、
「なあ見てくれよ僕のこの牙、もう栗鼠だなんて言えないだろう? ねえ」
豚鼻の狼は威張って会話を遮りました、
「見つけだしたのは俺様さ、この鼻のおかげだぜ」
金色の狼は澄まし顔で言いました、
「君たちは全くわかってないね、この計画をまとめ上げた私が一番賢いのさ、そうだろ? リンリン」
三匹は言い争いを始めましたが、リンリンが口を開けると黙りました。
「あなた方の子供を一匹ずつ必ず産みます。だから先に群に帰ってください」
三匹は誰の子供を始めに作るかじゃんけんで決めようと言いながら洞穴から出て行きました。リンリンは息子の噛み千切られた遺体を、宴の残滓から持ち帰ったお父さんと思しき骨の隣に並べて、狼とは思えないほど大きくて醜い遠吠えを上げました。それから外に出て目の前の湖に身を沈めました。
「お静かに……」屋形船の上で、前開きで裾がお尻の所まである民族衣装を着た男が、両手を掲げて乗客たちに静かにするように促しました。しかしそんなものは無用、なぜなら乗客は一人残らず男の話に聞き入っていたからです。雨音が際立ちました。船の外は霞んでよく見えません。
「……聞えましたでしょうか? 武陵狼は絶滅してしまいましたが、今日のような日には得体のしれない遠吠えが聞えるのです」
おしまい。