始まりのとき
俺は息を切らしながら全力で走った。
この先を左に曲がらなければならないことはわかっていた。だが見ず知らずの路地だ。一体その先に何があるというのか?
やがて俺の視界に人通りの多い交差点が飛び込んできた。ここはどこだ?
すると突然、頭の中で声がした。
「人生とはこの交差点のようなものだ。行き交う人は互いを知らない。だが突然に誰かが自分の人生に重なる。それまでは関わりさえなかった誰かが。そして時には死さえももたらす」
一体誰だ? 俺を誘い出したのはこの声か? だが聞いたことのない声だ。いやそうであり、またそうではないかも知れない。
あんたは誰だ?
「私は私であり、またお前である」
驚いたことに返事が返ってきた。こんな事、全く初めてのことだ。今まで声は聞こえても、その声と対話をしたことなどない。
声の印象は、かなり高齢のように思えた。だがそれきり反応は無くなった。
だから俺はまた目の前に見えている交差点に意識を向けた。そして午後の雑踏の中に足を踏み入れることにした。
すると答えの出ない問答を繰り返すように、その声は続けた。
「死は絶望であり、また希望である」
尻上がりに音量をあげていくその声は、頭の中に轟き渡り、耳の奥に痛みすら覚える。俺は思わずこめかみの辺りに手を当てた。
息が上がり、次第に呼吸が苦しくなる。ジリジリと照りつける夏の日差しのように俺を焦がし続ける。ついに耐えきれなくなった俺は、全身の感覚さえもどこかへ押しやろうとした。
そして俺は……。
「おい、人が倒れたぞ!」
「誰か、救急車を呼んで下さい!」
俺は夢をみているのだろうか?
生まれ育った懐かしい田舎道を左に曲がると、朽ちかけた鳥居が見えてくる。その朱色は色褪せ、ひび割れたところからは木の地肌がのぞき、ささくれている。
俺は鳥居を避けて、古木や下草で地面を埋め尽くされた横道を注意深く歩いた。
(その鳥居はくぐってはならぬ)
そう教えられた言葉を、俺は幼い時分から上京する年までずっと守っていた。
突き当たりにある小さな祠に手を合わせ、その横にある母屋へと、記憶の中の足取りを辿る。
ここには来たことがある。素性も生い立ちもわからない祈祷師が住むと言われていた場所だ。だが今となってはそれも定かではない。
入り口の引き戸を横に引いてみる。戸は音もなく戸袋に引き込まれ、中に人型の影が見える。
「また来たか」
その影に記憶はなかった。あるいは記憶の底でただの影になってしまったか。
「己れの運命を受け入れられぬか」
「どういうことだ?」
影は光を吸収し、吐き出す。そして次第にその陰影を浮かび上がらせ始めた。
(この人物には会ったことがある……)
記憶が紐解かれ、影が実体を得た。それは女だった。
「ワシは忠告したはずだ。この運命を受け入れるか、と。受け入れるならば避けられぬ地獄を見ることになると。だが幼いお前ははっきりと言った。受け入れる、と」
俺は少しづつ思い出した。俺の記憶に刻みつけたものを。
俺はこの能力に嬉々として喜んだ。誰にもない能力を。それは人の心の内が読み取れるとういう能力だった。
今ならば俺の答えは違っていただろう。だがその時はまだ幼くて、人の心の汚れというものを知らなかった。
俺には人の考えていることが読み取れる。その人物がほんの少しだけ思い浮かべた心情が読み取れる。
今にして思えば何の取り柄もないように思える能力が、計り知れない強大な力であると思っていたあの頃……。そして今は自分を考えるときに、この能力を語らずに俺を語ることは出来ない。
「目が覚めた?」
意識を取り戻した俺は、ここが病室であるとすぐに理解した。最初に声をかけてくれたのは恋人の山本友紀だ。
「驚いたわ。大輝が救急車で運ばれたと聞いた時は。でも先生の話だと骨折や外傷はないそうよ。意識が戻ったらまた検査をするそうだから、先生に知らせてくるわ」
俺は友紀の手をそっと掴んだ。
「もう検査は必要ない。いつもの発作だ」
友紀は心配げな表情を変えなかった。
「でも外で意識を失うなんて初めてよ?」
「ああ、確かにいつもとは違った。今回は離れた場所にいる人物と意識が繋がったんだ。きっとそれで疲れたんだろう」
俺には奇妙な力がある。
それは他人の心が読めてしまうというものだ。それは他人の心をのぞき見するようなものだ。
だから心を覗いた相手とまるでテレパシーを使ったかのような会話を交わすことはなかった。
これまでは。
(交差点……か)
夢の中で聞かされた言葉が頭をよぎる。
(ワシは忠告したはずだ。この運命を受け入れるか、と。受け入れるならば避けられぬ地獄を見ることになると。だが幼いお前ははっきりと言った。受け入れる、と)
そうだ。俺は受け入れたのだ。避けられない何かが始まりを告げているのかも知れない。
続く