一年に一度だけ訪れる日
ぴこん、と脇に置いていたスマートフォンが音を鳴らした。ラインメッセージを受信したときの音だ。画面を覗くと、赤フレームの眼鏡アイコンが目に入り、奈津だとすぐにわかる。内容を読まずに脇に置きなおして、手に持っていた煙草を口に運んだ。パソコンでカレンダーを確認し、今日が土曜日であることを知る。世間一般の休みとは異なる勤務形態の奈津のスケジュールなどいちいち把握していないが、仕事ではないのか。あるいは休憩の合間にでも打ったのだろうか。
世の中の大半の人に比べたら随分自由な時間を持っている一至だが、たまには働くこともある。依頼された内容は明後日の月曜日が締切だ。目標は今日の一八時。あと四時間しかない。このままやれば問題なく間に合うが、何か邪魔が入れば雲行きが怪しくなる。
かたかたとパソコンに文章を打ち続けていると、いつの間にか煙草から灰が落ちそうになっていた。キーボードに落としては掃除が大変である。灰皿に押しつけて火を消し、もう一本吸おうかと煙草に手を伸ばしたがやめておく。もう一度スマートフォンがぴこん、と音を鳴らしたが、今度は見ることもしない。
文章が完成して校正も一通り終わったときには、一七時になろうとしていた。ふう、と息を吐いて、体を伸ばす。最後に一拍置いてもう一度読み直そう。そう思って立ち上がると、着信音が部屋に響き始めた。思わずびくりと体を震わせて手にすれば、奈津からの着信だ。震え続けるスマートフォンから面倒くささを察して切ってしまおうかと思ったが、そうするともっと面倒になるので仕方なく嘆息して応じる。
「せめて読めよ!」
ほうら面倒くさい。
煙草を一本取り出しながら、なにが? と問う。答えはわかっているが。
「ラインだよ。既読スルーは聞いたことあるけど、未読スルーなんて聞いたことないぞ」
「気づかなくってさあ」
「嘘つけ」
電話口から奈津の息遣いが聞こえてくる。早歩きか、ともすれば走っているのか、はあはあと若干荒い。何をそんなに急いでいるのだか。答えがわかっているので、こちらは問わなかった。
くわえた煙草に火をつけて、煙を吐き出す。今のうちに先ほど書きあげた文章を印刷してしまおう、と操作を完了すると、その瞬間にピンポーン、と呼び鈴が鳴った。考えていた以上にはやかったので、思わず眉根を寄せる。はあー、と煙ではなく溜息を吐き出して、軽く灰を落としてから玄関に向かった。
なんとなく癪なのでチェーンをかけてから、少しだけ顔を出す。
「どちらさまでしょうか」
「お前チェーンいまかけただろ」
案の定そこには奈津が立っていて、ドアの隙間から煙を吹きかけるとげほげほとせき込んだ。
「一至、入れて」
訪ねてきたにも関わらず受けた手ひどい仕打ちにもめげず、案外あっさりとそう申し出てきたので、大きく舌打ちをしたあと、チェーンを外して招き入れてやる。肩には大きい荷物をかけていて、仕事帰りであることが窺えた。一度家に置いてくればいいのに、と思ったが言わないでおく。家に荷物を置かないと相手の家に行ってはいけない、というのは互いが子どもだったころの話だ。いまは言いつけてくる親が傍にはいない。
「あのさ」
言いながら振り返ったら、突然抱きすくめられた。ドアが閉まってからの行動でなければ殴るところだ。しかし残念ながら殴るための手も体ごと奈津の腕のなかにある。思わず腰を引いて離れようとするが、動けば動くほど力が増してきたので抵抗をやめてされるがままにした。頬に手を添えられたところで、足を踏んづける。
「いってえ!」
「聞けよ、俺の話を」
あのさ、という呼びかけが聞こえなかったとは言わせない。仮に聞こえていなかったとしても認めない。いまの動きで灰が床に落ちてしまった。
「今日は仕事してんだよ。あと少しで終わるから、それまでおとなしく待ってろ」
うずくまりながら「はい……」としおらしく返事するのを聞いて、ずれた眼鏡を持ち上げる。奈津のラインアイコンにもなっている赤フレーム。
どんな様子で奈津がここまで来たのかは容易に想像がつく。仕事道具を持っていることから仕事終わりに(これから仕事とは考えにくい)、家にも帰らず直接ここに直行し、かつ、電話から呼び鈴までの時間の短さを考えたら、階段を使ったのだろう。エレベーターだと電波が悪くて電話が切れてしまうから。五階までよく上ったものだな、と感心する。一至なら絶対にエレベーターだ。
つまり急くような気持ちで一至に会いに来たということ。
「コーヒー。あといまので床に灰が落ちたから拭いといて」
「任せろ」
犬に待て、と言っているような心地を覚えながら、リビングへと戻れば、印刷は当然のように終わっていた。赤ペンを片手でくるくる回しながら読みなおす。この作業がもっとも退屈で、もっとも重要だ。そのうえ相当な時間を喰う。
最後の校正のつもりだったこともあり、誤字脱字や加筆修正は見当たらず、パソコンの前に戻る。保存して依頼主のもとへ送付すれば、仕事はひとまず終わりだ。
かち、と送信ボタンをクリックして、奈津のほうを見やれば、爛々と目を輝かせてこちらを眺めていた。
「なに、今日テンション高いね……」
「終わったか?」
赤と青のマグカップに入れたコーヒーを台所から持ってきて、奈津は言った。コートも荷物も見当たらないので、おそらく玄関に置いてきたのだろう。終わったよ、とうなずきながら青のカップを受けとる。互いの昔からの「担当色」だ。
そういえば結局ラインは何だったんだ、とスマートフォンを覗くと、「仕事思ってたよりはやく終わったから会わない?」「とりあえず行くわ」の二言が入っていた。あと、走っているうさぎのスタンプも。三回目の通知音は聞いた記憶がないので、集中していたらしい。今日何度目か、煙草を灰皿に押しつける。
パソコンの前に座っていたところ手を引かれ、二人でベッドに腰を下ろす。コーヒーのいい匂いをかげば、ほっと緊張の糸が緩むのを感じた。何口か飲んでカップを奈津に戻し、毛布をかぶっていた文左衛門――シャチのぬいぐるみで、通称文ちゃん――を膝に乗せる。ぎゅうぎゅうと抱きしめると、よろこんで笑ってくれているように見えた。
なでたり抱きしめたり頬をすり寄せたり、一通り戯れて満足したところで、奈津がいることを思い出す。カップも持たせたままだ。
「あ、コーヒーさんきゅ。忘れてた」
案の定眉根を寄せて恨みがましく文左衛門を見ていた奈津から、再びカップを受けとる。垂れた目尻と凛々しい眉の、男女ともに人気のある整った顔をそんな風に歪めているところを見ると、一至はついにんまりとしてしまう。奈津のこんな表情、他の奴らには見せられねーよなあ、とどきどきする。
カップを傾けると、黒い液体が咽喉を通っていった。仲間内では「緑」の諒治がいちばんコーヒーを淹れるのがうまいのだが(なにせ趣味が高じて豆を売っているくらいだ)、それに比べると奈津が淹れたコーヒーはなんというか、そう、ルーレットみたいなもので、おそろしくおいしいときもあれば、おそろしくまずいときもあり、ふり幅が広い。今日の分は評価するには微妙だった。若干雑味が目立つので、蒸らしがたりなかったのだろう。
わしゃわしゃわしゃ、と奈津はぞんざいに文左衛門をなでたあと、一至の頭に手をぽんと置いた。
「お疲れさん」
三十路の男同士がすることか、と頭の隅で思いながら、「……どうも」とだけ答える。先ほどとは打って変わり、明らかに甘さの含んだ表情に、それ以外の言葉が出てこなかった。
「今日さ、一日仕事の予定だったんだけど。一本目、おもしろいくらいロケがはやく終わってさ。二本目は東北がいま雪すごいらしくて、交通止めにタレントさんが巻き込まれて、今日はバラすことになったんだよね」
バラす、というのは解散や撤収の意味の業界用語だと、かつてメイクアップアーティストになったばかりの奈津に教えてもらった。ふうん、と言いながらコーヒーをすすっていると、こめかみに唇を落とされる。眼鏡が少しずれて、鼻に刺激が走った。痛い、と主張しようとしたらそのまま首筋に移動されて、思わず奈津の肩をがっと掴んでしまう。
「コーヒーこぼすだろうが」
黒いシミは目立つしなかなか落ちない。まして膝には文左衛門がいるのだから、黒い生地のところに落ちたならまだしも、白い生地に落ちたら大変である。
奈津はしぶしぶと離れ、自分もマグカップを傾ける。一至がすきなので淹れ方は知っているが、奈津自身は特に好んで飲む飲み物ではないのだ。
今日朋希はどうすると言っていたっけ、と隣の部屋に住む弟のことを考える。朝(というよりほとんど昼だったが)にベランダで寒い寒いと言いながら話して、そのあと一緒に一至にとっての朝ご飯、朋希にとっての昼ご飯を食べて、今日は仕事があるからと告げて――そうだ、買い物に行くと言っていた。
ごくん、とコーヒーを最後まで飲みきって、文左衛門を抱えたままマグカップをリビングの中央にあるテーブルへ置く。テーブルには庄之助――くらげのぬいぐるみで、通称庄ちゃん――が鎮座していた。去年朋希にもらった誕生日プレゼントだ。青というより水色のくらげで、顔は描かれていないがだらんとした足がかわいくて気に入っている。さわさわとなでてベッドに戻ると、奈津にぐいと腕を引かれ、ついに唇を重ねられた。そのままベッドに倒れこむ。
「奈津」
咎めるつもりで呼んだが、上ずって恰好がつかなかった。膝から下はベッドの外に放り出されたまま、またふさがれる。
知らない間にどこかに置いたのか、奈津の手にカップはなかった。
「俺にもかまってよ」
言いながら側頭部をなでられて、眉根を寄せてしまう。寄せてしまうが、顔が熱を持っているのが自分でもわかるくらいなので、何の意味もなさなかった。奈津のこういう顔は苦手だ。色気というものが目に見えたとしたら、いま一至はなす術なく完全に飲みこまれている。
舌打ちでもしそうになったところをついばまれて、抵抗が許されない。一至が奈津の言動を概ね把握できるように、奈津も一至の言動などお見通しなのだ。いらだちを募らせるなか、二人の間で文左衛門はのんきに一至に体を預けていた。
側頭部にあった奈津の右手がいつの間にか腰に移動していて、ぞくりとした感覚が背筋に走る。
「ここじゃ、やらねえぞ」
腰にある手の甲をつねって主張すると、奈津は痛みに顔をしかめながらうなずいた。さっきの顔より、こちらのほうが断然すきだ。
「わかってるよ」
買い物に行くと言っていたから、もしかしたらいまはいないのかもしれないが、隣は朋希の部屋なのである。一至のかわいい弟の部屋。奈津にとっても弟のような存在の。一至と朋希はお互い相手の了承なく部屋に出入りしていい約束になっているし(ノック代わりに呼び鈴は鳴らすが)、合鍵だって持っている。壁はそこまで薄くはないが、一至の倫理観において、ここではするのは許されない行為だ。
「つうか、奈津お前、明日仕事じゃねえの」
文左衛門のくちばしを奈津の顎に当てるように下から持ち上げる。思わず、といった様子で奈津はうまく避けて、一至から離れた。
「休みもぎとった」
にこおー、と相好を崩されて、あそう、とそっけない反応を返してしまう。こんな顔、至近距離で見たらたまらない。奈津は一至の反応など気にも留めていないようで、また一至に近づき、前髪の上から額に口づけた。
「今日は甘やかしてくれよ」
「ばかじゃねえの」
言いながらも、一至ははなからそのつもりだった。もともと夜には奈津の家に行く予定で、そのために仕事を終わらせたのだから。奈津がこんなにはやい時間に来たので予定が狂った。奈津は一至の家の合鍵を持っていないが、一至は奈津の家の合鍵を持っている。針が零時を回ってからの帰宅だったとしても、中で寝ながら待っているつもりだった。
なぜなら、明日は奈津の誕生日だ。
「なんで来たの、お前」
「はやく一至に会いたかったから」
傍から聞いていたらひどい物言いも、奈津は一至をわかっているので動じないし、むやみに傷ついたりもしない。別にこういう関係になる前から、一至と奈津は家族であり兄弟であり半身だった。少なくとも、近所で赤青コンビと有名になるくらいには。
「奈津の家なら、すぐそういうことになってもよかったのに」
かっ、と赤くなった奈津を見て、やっと一矢報いた、と溜飲を下げる。主導権を持たれるばかりはつまらない。
「どうする?」
「ほんっとに意地が悪い……」
この顔も、他の奴らには見せられねーよなあ。隠そうとうつむき気味になってはいるが意味はなく、にやけている口元が目に入る。文左衛門のくちばしを当てると、驚いたように「んっ?」と声があがった。
「奪っちゃった」
ぱたぱたと文左衛門のひれを動かしながら真顔で言い放ってやると、奈津は一至を仰向けにして、覆いかぶさるようにまた唇を押しつけてきた。うっかり蹴っ飛ばしそうになるのを堪える。間の文左衛門がつぶれるだろうが、という文句は飲みこまれてしまった。
一至自身、いわゆるスイッチが入るまでに時間がかかるという自覚はある。こういう関係になる前となったあとでいえば、すでになったあとのほうが年数を重ねているのにも関わらず、一至は奈津とじゃれ合うことに対する抵抗がぬぐえない。だいたい年数を重ねているとはいえ、一一年のただの幼馴染期間と、一四年の恋愛期間の、トータル二五年だ。一緒にいた記憶が多いだけにたかだか三年の違いなど、どんぐりの背比べでしかない。
その点は奈津は素直だ。普段から、一至の抵抗や自己嫌悪などばからしくなるくらい、まっすぐに示してくる。誰かが一緒だろうが二人きりだろうが関係ない。
「苦行!」
突然勢いよく離れ叫ぶものだから、一至はびくりと震えた。つぶれかけた文左衛門の体を気持ち戻してやる。
「びびらせんなよ。あと文ちゃんつぶすな」
「あ、うん、ごめん」
こういうところも素直だ。昔から。
謝罪のつもりなのか奈津は文左衛門をなで、ベッド脇に座った。カップは床に置いていたらしい。咽喉仏を上下させている様を見ながら、まずいだろうな、と思った。そもそもコーヒーというのは淹れてから三〇秒くらいがピークで、あとはもう劣化していくばかりと聞いたことがある。コーヒーでなくとも熱いうちは味がわかりづらいが、冷めると舌が反応しやすくなるのだから、なおさらだろう。あの雑味が出てしまったコーヒーでは。
「まずい」
案の定そう言うので、だろうな、と笑う。一至も上体を起こしてベッド脇に座り、奈津の唇をべろんと舐めた。
「舐めるくらいじゃわかんねえわ」
自分が抱える文左衛門と、奈津が持っているカップを交換するように押しつけ奪いとり、テーブルに置いた自分のカップとともに流しへ持っていく。
「苦行……」
「それ、はやってんの?」
二度目の言葉につっこみながら、サーバーやドリッパーも合わせて洗ってしまう。手を拭いて、肘近くに持ち上げていた袖を元に戻すと、リビングと台所の間にある台から車の鍵を手に取った。ついでに眼鏡も室内用の赤フレームから、外出用の青フレームにかけなおす。赤フレームでは度数が低すぎて、車は運転できない。
別部屋にあるクローゼットからマフラーとコートを取り出して、座ったままの奈津に声をかける。
「なにしてんの?」
車、買い物ならもしかしたら朋希が使ってるかなあ。そんなことを思いながら、パソコン横に置いていたスマートフォンをズボンのポケットにつっこむ。
状況が飲みこめていないらしい奈津に、言葉を重ねる。
「行かねえの?」
「行く」
かぶさるような返事に、うん、とうなずいて、奈津を待たずに玄関へと向かった。荷物を避けて靴を履く。後ろから慌てたようについてきた奈津が、荷物の上に置いていたコートを羽織り、ドアノブに手をかけようとしていた一至の腕を引っ張った。
ちゅ、と音を立てて口づけられて、反射的に頬をはたく。痛くはないはずなので謝らない。
「なにしてんだ、ばか」
「いや、最後に、つい」
「ほんとばーか」
いいからはやくしろよ、と急かす。まったく一四年間もよくやるものだと感心すらしてしまった。もっとも、それはお互い様なのだろうけれど。変な言い方にはなるが、人生のなかで記憶がないとき以外、ほとんどを一緒に過ごしてきたのだ。
「俺は、今日と明日、お前と過ごすために体あけたんだから」
奈津の口元を手で覆う。
「がっつくなよ」
暗に時間はたくさんある、と伝えてやると、手のひらをべろんと舐められた。背筋にぞわっと悪寒が走り、思わず「ひっ」と声をあげる。
「きんもちわっる……」
「ひっでえ」
服にごしごしとなすりつける。奈津は笑いながら肩に荷物をかけ、先を促した。
どちらが手綱を持つではなく、ここまで二人でやってきた。いつまで続くかわからないけれど、と思うのはきっと一至だけで、奈津はそんなこと考えもしていないし、言えば怒ることくらいはわかる。それが一至には救いだ。
マンションのエントランスで弟にばったり会ってしまい、ひどい顰め面をされるまであと三分。