No.10
「この部屋、妙な匂いがしないか?」
さあ帰るか、というところで不意にユーヤが言った。「この部屋」とはリラが虎の異種人と遭遇した部屋だ。
「におい?」
ミズキは言われたとおり部屋の匂いを嗅いでみたが、むせるほどの鉄錆臭以外は何も感じられない。
「妙な匂いとやらは感じないけど」
「イルはどうだ?」
ユーヤは狼に話題を振った。イヌ科の異種人は総じて嗅覚が鋭い。ユーヤがそれと同等以上に匂いに敏感なのは個体差というヤツだ。
イルは首を傾げ、床に就いた血を指先につけた。それを鼻の近くに持ってきて、慎重に確認する。
「……確かに。何の匂いかな」
イルは「妙な匂い」を感じたらしい。ユーヤ一人なら気のせいということも考えられるが、鼻が鋭い二人ともが言うのだから何かあると見ていいだろう。
「妙な匂い……薬物とかじゃなくて?」
アスが問うと、イルは考え込むように眉根を寄せた。
「薬物っぽい感じはする。でも既存のどのドラッグでもない匂いだ」
「新しいやつかもね。やだなぁ、また捜査しなきゃいけなくなる」
ミズキは顔を顰め、壁の血を指に付けて舐めてみた。
「……うん、薬物の類だね。僕もこれは知らない。依存性がある感じには思えないけど」
「ドーピングか?」
カイルが意見を挙げてみるが、判断のしようがない。専門家たちが判断できないのであれば、カイルやアスにはどうしようもない。嗅覚や味覚が彼らほどいいわけではないリラに至っては最早蚊帳の外だ。
リラは少し不機嫌そうに仲間たちに言った。
「ここで話してても仕方ないでしょ。サンプルだけ取ってさっさと帰りたい。いつまで怪我人待たせる気なの」
「あっ……」
馬鹿正直に「忘れてた」という顔をしたユーヤを見て、リラの機嫌の悪さは「少し」ではなくなった。
「帰って報告終わったら怒る。全員に正座してもらう」
「ご、ごめんなさい……」
ぐうの音も出なかった。
実際は帰還後もやることが山積みで、全員正座は自然と後回しになった。
アスが予想した通りリラの怪我は深く、何針か縫うことになった。普通の異種人なら一週間と待たず完治する程度だが、リラの場合は一ヶ月近く経たないとまともには動かせないだろうと診断された。しばらくの間、彼女は任務はお預けである。
持ち帰った「妙な匂いがする血液」は[S]本隊で調べられることになった。実際に妙だと感じたイルとユーヤ、ミズキはそちらに駆り出され、彼らもしばらく任務にはつけなくなってしまった。
そのあおりを食らったのがカイルとアスで、本来なら六人が分担してやるはずの任務をたった二人で片づける羽目になったらしい。そもそも候補生が任務で忙しくすること自体おかしいのだが、彼らの実力の高さが招いた不幸と言える。
仲間たちが多忙を極めた結果、六人揃うまでに一週間かかった。
夜になって部屋に戻ろうとしたとき、
「リラ! 会いたかった」
部屋のドアを開けた瞬間イルに抱きつかれ、リラは目を白黒させた。
「い、いつの間に……」
「帰ってきたのはついさっきだよ。いつものように鍵がかかってなかったから入って待ってたんだ」
「あ、そ……」
となると、他の面子もいるのだろう。
リラがイルを適当にあしらって部屋に入ると、案の定仲間たちが勢ぞろいしていた。カイルとアスに疲労の色が見える以外は、特に変わった様子はない。
「ミズキやユーヤ辺りは薬品実験に付き合わされてぐったりしてるかと思ったけど」
「いきなりなんだよ」
ソファでくつろぐユーヤが苦笑を零した。
「ぐったりしててほしかったのか?」
「六人揃うとさすがに五月蝿いし」
「五月蝿いとかゆーな」
むっとした様子のユーヤに笑い、ミズキが口を開いた。
「例の薬品については[S]のほうも苦戦してるんだ。僕らは仮釈放ってとこ」
「また捕まるんだ?」
「たぶんね。しばらく先になるとは思うよ。何せ謎の薬品だからね」
二人の会話をカイルが遮った。
「報告会は後だ。リラ、とりあえず座れ」
「ん」
リラがベッドに腰を下ろしたと同時にイルが部屋のドアに鍵をかける。彼が戻ってきてソファの背凭れに座ったのを確認すると、カイルは本題を切り出した。
「この間の任務で、リラ。お前は負傷したのを『うっかりしていた』と言った」
「言った」
「お前が任務で『うっかり』するはずがない―――あれは嘘だな?」
「うん」
リラは頷いた。
「半分くらいはほんとだけど、大体ウソ」
「実際は何があったのか教えてくれ」
「単純なことだよ」
彼女は足を組んだ。
「あのトラ、途中から暴走し始めたんだ」
「暴走……」
アスが首を傾げた。
「あの手の組織なら何かしらの訓練はやってるはずだから、不思議はないか」
「ううん、不思議なことがある」
「え?」
「途中まではどう見ても素人の動きだった」
「?」
話が読めずきょとんとするアスの隣で、ミズキが「成程」と呟いた。
「確かにそれは妙かも」
「妙って?」
「忘れたの? 暴走は訓練を受けた異種人が起こすものだよ」
「あ……!」
アスはミズキの言わんとしていることに気付き、目を瞠った。
「そっか……暴走の可能性がある異種人は軍事訓練を受けているはずだから、動きが素人なのは確かに妙だ」
「あの組織はほとんどが人間で構成されている。異種人を引き入れたのはつい最近のことで、どれも一般人だった。入ってから日も浅いから、訓練らしい訓練はまだ受けていなかった。素人な動きをしてたのはその所為だと思う」
ミズキが補足を入れる。
軍事訓練を受けた異種人が暴走するのは、闘争本能が抑圧されるからだ。素人が訓練を受けてまだ日が浅いうちは抑圧感よりも疲労が上回るため、暴走することはない。
あのトラの異種人はまさにその状態だった。暴走するのはおかしい。
「あのトラが変なのは分かったけどさ」
ユーヤがリラを見て言った。
「なんであのとき、すぐに言わなかったんだよ」
「勘、というか」
「勘ー?」
何だそれという顔をするユーヤとは対照的に、イルは考え込むように小さく唸った。
「んー……その勘、当たりだと思うよ」
「え?」
「以前読んだ本……SF系の推理物だったんだけど、そこに出てきたんだ。『暴走を誘発する薬』」
それを聞いて、ユーヤが眉を寄せる。
「俺もそれ、ドラマ化したヤツ見たけどさぁ……あれってフィクションじゃん。クローンのほうならともかく、暴走させる薬なんて作れないだろ」
暴走のメカニズムは解明されていないことのほうが多い。それは誰もが知ることだ。
しかしユーヤの真っ当な意見に対し、ミズキが笑って否を返した。
「あー、あれね。人工で作るのは今のところ無理なんだけど、手に入れることはできるんだよ」
「マジか!?」
「しかもやり方は超簡単」
ミズキは人差し指を立てた。
「暴走した異種人の血液を大量に採取する」
「……は?」
「暴走が引き起こされるメカニズムは解明されていないけど、異種人は暴走するとある物質が血液中に分泌される。アドレナリンの一種じゃないかって思われてたんだけど、最近になって別のものじゃないかって言われ始めたんだ。名前はまだついてないんだけど、まあ仮に物質Aとして」
立てた指を戻し、ミズキはぽかーんとしているユーヤに向かって解説を続けた。
「この物質Aを正常な異種人に大量に投与すると、その可能性はなくても暴走すると言われてる。ただし物質Aは人工的には作り出せない。だから入手するには暴走した異種人の血液を採取して、そこから取り出すしか手が無いってわけ」
「な、なるほどな」
「ちなみに必要な血液の量は、僕の見立てでは三リットル前後ってとこかな」
「三リットル!?」
と、叫んだのはカイル。
その声に驚いたユーヤはカイルのほうを勢いよく振り返った。
「な、何だよ急に」
「血液三リットルって言ったらとんでもない量だぞ。致死量を超えている可能性も十分にある」
「そんなに凄いのか?」
いまいち分かっていないユーヤのためにイルが具体的な数字を出した。
「体重四〇キロの女性、つまりリラみたいな感じの人だったら、血液の量はほぼ三リットルだと思うよ。致死量はその半分」
「な……」
その説明でユーヤもようやく『三リットル』という量の多さを理解した。
「そんな量摂ったら死ぬじゃん!」
「死ぬと思うよ」
ミズキはあっさり認めた。
「この研究が難航してる理由はそれ。そもそも暴走した異種人から血を摂ること自体危険なんだけど、研究そのものに必要な血液量も採取するには多すぎる。相手を殺してもいいっていうなら話は別なんだけど。人道とか倫理に反するっていうことで、この研究は基本的にはタブーなんだ」
「基本的には……ってことは、違法でやってるやつがいるってことか」
ユーヤは驚きから幾分立ち直り、努めて冷静に言った。違法な人体実験はよくある話だ。珍しいことでもない。
例のトラの異種人は、恐らくその『物質A』を投与されて暴走したのだろう。
(それなら素人が暴走したことも辻褄が合う)
ユーヤが納得しかけたとき、アスが「質問」と挙手をした。
「ミズキ先生、ミズキ先生。そもそも暴走した異種人から血を摂るって時点で無理がありませんか」
「お、いい着眼点。理由は?」
「暴走する異種人自体数が多いわけじゃないし、暴走する理由だって個人で違う。血を摂る以前に、そう都合よく暴走した異種人に出会えるとは思えないけど」
「ふむふむ、確かに」
ミズキは大げさに頷いて見せた。
「でもそれ、意外と可能なんだよね」
「どうやるの?」
「んー、これってホントは機密事項なんだけど」
機密事項をミズキは躊躇せず口にした。
「暴走したことがある異種人は各国政府のデータベースに記録されてるんだ。名前や住所、職業、暴走した理由、その他諸々、片っ端から全部ね。こういう情報は表向き厳重に保護されてるんだけど……」
「こないだ政府が馬鹿やったやつか」
もったいぶって言葉を切ったミズキのあとをリラが答えた。
「重要文書があんなに雑な扱いされてたんなら、異種人の情報が漏洩していても不思議はない。そういうこと?」
「そういうこと」
ミズキは頷いた。
「情報さえあれば使えそうな異種人を拉致するなり仲間にするなりして手に入れられる。意図的に暴走させることも可能だ。そうすれば血を摂ることは決して無理なことじゃないし、もしその犯人が研究を進めていたら、物質Aを人工的に作り出しているかもしれない」
「俺たちがあの時感じた妙な匂いは、その『人工的に作られた物質A』かもしれないね」
イルが言った。慣れない匂いと味から「薬品」と判断したが、未知の物質だとしたら合点がいく。
「何にせよ、このことについて調べる必要がある」
カイルの提案に仲間たちは頷いた。
「そうと決まれば、教官に許可をもらわないとな。誰が行く?」
「アスかカイルがいいんじゃないかな。教官にだいぶこき使われてたみたいだし」
イルにからかうように言われ、名前を出された二人は揃って顔を顰めた。
「そうだね……この際、貸しってことにして教官に掛け合ってみようか」
「ああ。散々働かされたからな」
「おつかれさま」
リラが覇気のない声で労う。怪我をして手伝えなかったことは棚上げだ。
「話が終わったんなら早く出てって」
いつもと同じ台詞に、仲間たちは苦笑するしかない。
しかし、それぞれが出ていこうとした時、
「……待って」
出ていくように言ったリラ本人が引き止めた。
「リラ?」
「ものすごく大事なこと思い出した」
リラはいつになく真剣な面持ちで、自然と緊張が走った。
アスが尋ねる。
「大事なことって……?」
「ほんとに重要なこと。忘れてたなんてありえない……」
リラは緩く首を振った後、顔を上げて仲間たちを見据えた。
「全員今すぐ正座して」
『ものすごく』腹を立てていたリラは、足が痺れたと半泣きで訴えても許してくれなかった。




