『涼をもとめて』 ~自由投稿:陽一様の作品『涼をもとめて』~
蝉時雨の陽炎にゆらぐ長い坂道。
登る。
足が重い。
襲い来る暑さと疲労で、僕の顔は怒っているかもしれない。
山の斜面に張り付くように並ぶ墓石の群の中で足を止めた。
墓参りに訪れた父親の故郷。
気力が続かずとうとう立ち止まった茹だる暑さの真夏の坂道で、今まで登って来た道のりを振り返る。
すると、不思議な角度の街並みが広がる。
『坂の街』と称されるこの街。
急斜面にあるのは墓石だけではなく、人々の生活の全てが山肌に張り付いていた。
斜面に張り付くように建ち並ぶ住宅の屋根が魚の鱗のように重なり合って視界を埋める。
車の通るような道路は無く、家々の間を縫うように坂道か石段が走っている。
今、登って来た坂道も、そんな小路のひとつ。
独特な街並みだった。
人々の暮らしの景色は山裾へ一度降りて、そこからまた対面の山へ登る。
平坦な都会暮らしの『僕』にはとても物珍しい景色だった。
その珍しい景色の全てが陽炎の中で揺らいでいた。
僕の父がこの街の出身だった。
雪国出身の母は夏の日差しが厳しいこの街をあまり好んでおらず、母の影響で僕も父の故郷へ足を向ける事は無かった。
十六歳の僕が今までにこの街へ訪れたのは冬休みに二回ほど。
今年は夏休みに訪れ、初めて父の育った故郷の夏を体験する事になった。
母が何故父の故郷へ行く事を好まなかったのか、坂道で茹だっている今なら解る。
とにかく、暑い。
逃げ様の無い暑さ。
むっとむせ返るような高い湿度と、そして耳を塞ぎたくなるような蝉時雨。
軽く眩暈を起こしそうになる僕へ、先に父と二人で坂道を達者に上がって行く祖母が振り返った。
「亘、なんしよっとね?もうちかっとあがればウチがたの墓たい、きばらんね。」
遅れを取った孫へ優しい言葉を掛けてくれているらしいのだが、言語が判らない。
言いたいのはおそらく、
『遅れているがどうかしたのか?もう少しで当家の墓に着く』
・・・あと、何?きばらんね?何だそれは?誰か翻訳してくれ。
解らないが、
「大丈夫だよ、おばあちゃん。景色を見てただけだから。」
にっこり笑って答えれば、おそらくコレで大丈夫なはず。
少し耳の遠い祖母は隣の父へ訊ね、
「亘は何てね?」
「景色ばながめよるだけやけんが、気にせんちゃよかと、すぐ来っけん先に行っとけて。」
父が知らない言語で話していた。
恐るべし、ネイティブ。
ここは外国か?
アウェイ感に溜め息が出た。
諦めて足を進める。
登り始めると見える景色は坂道の白っぽいコンクリートだけになる。
登り路では視線は自然に数歩先の坂道へ落ちる。
上がる息を耳の中に感じながら、一歩一歩坂道を踏みしめた。
睨んでいた坂道の景色に、不意にそこに立つ足元を発見した。
誰かこちら向きに立ち止まっている。
慌てて顔を上げると、同じ年頃の制服姿の女の子が立っていた。
目が合い、ニコッと笑って「こんにちは」と僕に声を掛けた彼女に、ドキッとして顔が赤くなってしまった。
正直、好みの顔立ち。
清楚な雰囲気で、『田舎の可愛い女子高生』だった。
クラスの女子は同じオシャレに同じ喋り方に同じ空気感、みんな規格品のように同じ雰囲気で、はっきり言うと見分けがつけづらい。
そんな女子を見慣れていたせいで、目の前の彼女の新鮮な雰囲気に釘付けになった。
コレ、ひとめ惚れってヤツだろうと思う。
「こ、こんにちは。」
しどろもどろに挨拶を返してみると、彼女はふふっと笑ってくれた。
その笑った顔がまた・・・・。
見惚れた途端、近場の墓所に墓参りに来ていたと思われる家族が放り投げた爆竹の束がけたたましい音を発てて炸裂する。
ぱぱぱぱぱぱぱぱぱぱ!!!!!という破裂音が響き、僕は思わず耳を塞いだ。
何を考えて居るんだろう。
墓地で爆竹なんて。
眉を顰めて、破裂しながら地面で踊る爆竹の束を目で追っていると、女の子がクスクス笑う大きな声で、
「この辺りはこういう風習なのよ。大きな音で邪気を払う為に爆竹を鳴らすの。」
僕のすぐ傍へ来て耳元へ告げた。
爆竹がおとなしくなった所で耳元から手を離し、ふと気が付いて、
「・・・標準語だ。」
女の子へ言葉を投げたが、僕の目はそんなにも露骨に丸くなっていたのか、
「親戚の家にお世話になっているの。」
女の子はふふっと笑いながら、僕の疑問に答えてくれた。
そこへ件の爆竹を放り投げた墓所の家族が、
「ごめんねぇ、そこに居るとの気付かんやったとよ。爆竹は当たらんやったね?」
おじさんが小学生と思しき男の子の頭を下げさせながらこちらへ向かって言う。
どうやら爆竹を投げたのはその子らしい。
爆竹もどうかと思うが、さらに、小学生に爆竹を握らせるのもどうかと思う。
思うが、隣りで女の子がクスクス笑うので、僕は、
「大丈夫ですよ、気にしないでください。」
文句を言う気にもならなくて、苦笑いでばつが悪そうな小学生へ向かって声を掛けていた。
小学生がぺこりと頭を下げたところまで見届け、女の子へ視線を移すと、女の子は道脇にある墓所の方を見つめていた。
つられてそちらへ目を向けると、祖母よりも年配と見えるおじいさんと、その娘と思しきおばさんが墓参りの仕度をしているところだった。
新聞に包まれていた墓へ供える花を広げて、花を整えていた。
ふと、おじいさんがこちらを向いてぽつりと、
「水の無かったねぇ。」
すると、新聞紙の中の花を分けていたおばさんは、
「若っかモンが取りに行くけん、座っとかんね。」
と、視線を落としたままおじいさんに答えた。
女の子の顔がおばさんの言葉に微かに苦笑いを浮かべ、
「お水がある所に行かなきゃ。」
小さな溜め息交じりにぽつっと溢す。
溜め息の意味がここまでの上り坂だと僕は思い付いて、
「下へ降りるの?」
女の子に訊いてみる。
「降りなくちゃお水がある場所って無いの。」
「降りるって事は、またこんな坂道を登って来るワケ?」
女の子は困ったように薄くふふっと笑っただけ。
自分がそんなに積極的な人間だと思いもしなかったが、
「一緒にっ」
思わず口から言葉が出た。
「え?」
「一緒に手伝おうか?」
小首を傾げた女の子に水運びの手伝いを申し出ていた。
あれほど苦労してここまで上がって来た坂道だったけれど、彼女とここで縁が切れるのが、嫌だった。
女の子の顔がふわっと笑んで、
「お墓参りはいいの?」
「なんか、日没まで居なきゃいけないって言われてて退屈だしさ。」
そのまま答える。
墓参りより、女の子と過ごしたい。
と、罰当たりな下心ももはや否定はしないが。
女の子はそんな僕の事情など知る由もなく、
「送りの日ですものね。みんな夜遅くまで帰らないから。」
言って、女の子は顔を上げて斜面の墓所のいたる所で長丁場の墓参りに来ている家族連れの景色を見渡した。
楽しそうに眺めている。
僕の目に映った同じ景色にも、そこかしこの墓所で久しぶりに揃う家族団欒の様子が判る。
きっと、お盆休みで帰省した家族と過ごして居るのだろう。
しかし、せっかく帰って来てるのに、遅くまで墓所で過ごすとは。
「この辺のお墓ってみんなそうなの?」
疑問が口からこぼれる。
「明日の八月十六日は地獄の釜の蓋が閉まっちゃうから、今夜はご先祖様達のお見送りの為に生者も死者もみんなでお墓で過ごす、って事みたいね。」
頷いた女の子が答えてくれた。
斜面のどこかでまた爆竹の音がする。
先程から思い出したようにどこかしらの墓所で爆竹が鳴る。
そういう風習の土地柄なのだろうが、どうにも馴染めない。
僕が顔を顰めると、女の子はまたクスクス笑って、
「夜になるともっとすごいの。あちこちのお墓で子供達が花火をして、すごく綺麗なのよ。」
「ふ・・・ん。」
頷きながら、僕の妄想は女の子とその『すごく綺麗な』花火を一緒に眺めていた。
顔はニヤけていたかも知れない。
女の子はするりと僕の横をすり抜け、坂道を降り始めた。
慌てて後ろに続く。
二人で並んで歩くには少し道幅が狭くて、前後に並んで坂道を下る。
下り始めて、
「僕はサトシ。君は?」
「私は〝美弥〟。下るのつきあってくれてありがとう。」
「いいさ、ヒマなんだし。」
美弥ちゃんの背中と会話する。
微かに後ろを振り返った美弥ちゃんは、
「ふふ。サトシくん、お墓参りは真面目にやらないと駄目よ?ご先祖様だって会いたがってると思うわ。」
ちらりとこちらへ視線を送って来る美弥ちゃんの眼元が笑っていた。
「お墓ねぇ。僕が生まれた頃にはお祖父さん亡くなってて会った事無いし。」
「だからお墓参りに行くんじゃない?お祖父さんは会いたかったと思うわ。」
「そうかな。」
「きっとそうよ。」
美弥ちゃんはふふっと笑って正面を向き、坂道を降りて行く。
肩に掛かる髪が楽しげに揺れた。
あれほど時間を掛けてのろのろと上がって行った上り坂も、下りの道のりはあっけなく進む。
墓所から昔ながらの木造の住宅地を抜け、細道から車の行き交う少し大きな通りに出る。
小さな電気店や生活用品を扱う小店がぽつぽつと並ぶ片道1車線の道路沿いの街並みになった。
建物の種類が二階建てや三階建てのコンクリートの建物に変わっている。
美弥ちゃんの隣で肩を並べて歩きながら、見知らぬ土地の景色をキョロキョロと見まわしていると、
「サトシ君は兄弟は居ないの?」
隣を迷いなく歩いていく美弥ちゃんがにこっと笑って訊いて来た。
「妹が居るんだ。」
「一緒に居なかったみたいだけど。」
「母さんが九州には来たがらなくて、一緒に家に残ってるんだ。」
「こっちの夏は暑いものね。」
理由にピンと来たらしい美弥ちゃんは気の毒そうに言う。
九州が暑いのは美弥ちゃんのせいではない。
なので、「母親が北国出身で、ここの湿度が苦手なのだ」と思わず言い訳してしまった。
お互い、自分のせいではないのになぜ謝ったり言い訳したりしているのか判らなくなり、微妙な会話に二人でクスクス笑う。
不思議な空気感で、初対面の人間と居るような感じがしない。
美弥ちゃんと居ると僕も自然体で、居心地がいい・・・先程までの下心についてはすっかり忘れて居たりもする。
話を戻して、
「美弥ちゃんは?兄弟居るの?」
「小さい弟が居るの。泣き虫で甘えん坊で、私が見えなくなるとすぐ泣くの。」
「さっきのお墓の所には居なかったみたいだけど。」
「弟は 」
首を振った美弥ちゃんが言い掛けたところで、すぐ目の前の交差点で爆竹の音が響いた。
墓所で聞いた爆竹の音とは比較にもならない程、大量かつ断続的に破裂音が鳴り響く。
片道一車線の道路から片道三車線の大きな六車線道路へ接続する交差点で、交通整理をするお巡りさんの姿があった。
よく見ると交差点の信号も赤で点滅表示になっていて、今まで自分たちが歩いて来た道のりは交差点へ出ようとする車が大渋滞している。
事故でもあったのか?と、首を傾げた瞬間、美弥ちゃんが僕の手を引いて交差点へ向かって小走りに走り出した。
「ね、精霊舟が来るわ。」
僕を引っ張っていく美弥ちゃんの髪がまた揺れる。
ドキッとする。
坂道を下り始めた時もそうだった。
彼女の後姿を見ていると、ドキドキする。
さらに、手を引かれている今、多分、僕の顔は赤いと思う。
コレ、きっと・・・
と、ぼやっとした感情を頭の中で単語に変えようとした途端、交差点を横切って行くモノに目を奪われた。
観光バス並の大きさの舟が道路を進んで行く所だった。
提灯や花で飾られ、金銀の装飾を施した木造船。
飾り立て過ぎてて、舟の上には人の乗るスペースなど見当たらなかった。
その舟を、法被姿で足袋を履いた男衆十数人掛かりで、押す。
緩やかに上り下る道行きで、さすがにそれを舟そのままが移動して行けるわけもなく、船底にタイヤが着けてはある。
それでも、大きな船を人力で押しながらどこかへ向かっているところだった。
大きな道路をさも当然のように舟が進んでいた。
男衆は舟の牽き手だけではなく、舟の前後で絶え間なく爆竹を放っている伴走者も居た。
一見華やかで騒々しいパレードだが、賑やかな中にも一行は粛々と進んで行く。
舟の前に、年配の喪服の女性が家紋入りの提灯を持って先導する。
見ると、舟は一隻ではなく、見える限りの道のりに何隻も連なり続いていた。
精霊流し。
また、爆竹の音が鳴り響く。
「すごい・・・初めて見た。」
騒音の中で、僕の口は押し寄せる言い表せない感動をぽつりと溢していた。
美弥ちゃんはじっと美しい舟を見つめ、
「今年初盆を迎える人の魂を送る舟なの。死者になって初めて家族の元に帰った人がなかなか向こうに戻ってくれないから、お祭り騒ぎして送り出すんだっていう人も居るわね。」
爆竹のけたたましい音を響かせながら、提灯を掲げた喪主に先導され牽かれて行く精霊舟が、僕たちの目の前を通り過ぎて行く。
傾きかけた夏の日差しを受けてキラキラと光を反射させる舟の飾りを、眩しそうに見つめていた美弥ちゃんの視線がふと僕の顔へ向き、
「舟の飾りって、〝ありがとう、大好きでした〟っていう亡くなった人への大切な気持ちを込めて飾ってあるの。溢れてる舟の飾りは残された人達の心の浄化なの。」
「心の浄化って?」
「〝あなたが居なくなってさみしい〟って悲しい気持ちで飾っちゃうと、初盆の人達は帰りたくなくなっちゃうから。」
「たしかに心配で帰れなくなる、かな。」
納得して頷いた僕へ、美弥ちゃんも〝でしょ?〟と頷いて、
「生きてる人達が死者への別れをきちんと自覚する為に飾りつけをしないといけないの。だって、生きてるんだもの。」
そう言うと、美弥ちゃんの視線は連なる精霊舟の列へ向けられた。
舟に込められている人と人の繋がる気持ちは自分達には関係の無い他人事で、それでも誰かの大事な気持ちを感じると、大切な〝お裾分け〟を貰った気がして切ない。
けれど温かい気持ちになる。
『気の持ちよう』とはすごいもので、墓地で聞いた時は腹が立つようなイライラさえ覚えた爆竹の音も、今居る場所では比較にならない程大量かつけたたましく鳴り続けているのに『うるさい』と思わなくなっていた。
時間が穏やかに流れている。
精霊流しを優しい視線でみつめる美弥ちゃんの横顔を、ほっとした気持ちで眺めてる今の時間が僕にはとても貴重なもののように感じて、僕は無言のまま美弥ちゃんにみとれていた。
が、美弥ちゃんがはっと気が付いたように慌てて掴んでいた僕の手を放し、
「ごめんなさいっ!私、夢中になっちゃってて!」
真っ赤になった顔で言う。
美弥ちゃんの慌てぶりに僕の目が丸くなってしまい、きょとんと見つめる僕の視線に美弥ちゃんがどんどん慌ててしまって、
「いつも一人で降りて来る坂道が寂しかったからサトシ君が降りて来るのに付き合ってくれてつい嬉しくなっちゃって、精霊流しを見せたくて、だから、あの、手を、ごめんなさいっ」
とうとう僕の顔が見れなくなった美弥ちゃんは、真っ赤な顔で俯いてしまった。
なんか、嬉しい。
知らない土地に居る旅行気分がそうさせたのかも知れないが、思いのほか僕は大胆になっていた。
美弥ちゃんがぱっと放した手を、今度は僕が繋いで、
「ちょっと散歩しよ。」
美弥ちゃんの手を引いて歩き出していた。
精霊舟が牽かれて行く沿道沿いには所々出店が出ていて、美羽ちゃんと手を繋いで歩く歩道には精霊流しの見物人が行き交う。
昼間のうちにアスファルトが溜め込んだ夏の熱気の中、人の流れを縫いながら、二人でゆっくり『散歩』した。
ぽつぽつと言葉を交わしはするが、二人でゆっくり歩く。
明確な目的地があるわけでは無いので、気の向くまま歩く。
川沿いの遊歩道へ降りる階段の傍を通り掛かった時、美弥ちゃんの口元がぽつりと、
「〝・・・・なものが一面に浮いていました〟」
「ん?何か言った?」
僕が美弥ちゃんの顔を見て聞き返すと、美弥ちゃんが困ったような顔をした。
表情の意味が判らなくて僕が首を傾げていると、整備された川縁で涼をもとめて水遊びをする小さな子供達の声が聞こえて、美弥ちゃんはそちらへ目線を向けクスッと笑った。
「降りよっか。」
美弥ちゃんは言って、繋いでいた手を解いて川辺へ降りる階段へ足を進めた。
陽が傾いて来た川沿いには、あちこちで浴衣姿の家族連れが水辺で涼んでいる。
よく見ると、家族連れは川へ流す精霊流しの提灯を携えていた。
土台の板の上に四角に組んだ木枠へ貼られた障子紙に、朝顔や思いを綴った文字が書かれている。
夜になればこの川にはおびただしい数の提灯が浮かび、精霊流しが行われる。
川は生きている人々の思いで埋め尽くされるのだ。
夜の景色を思い、ふと、僕の胸に切ないものが浮かぶ。
と、川縁で美弥ちゃんが靴を脱いだ。
脱いだ靴を両手に持って、美弥ちゃんは白い足を水に差し入れ、浅瀬に立つと振り向いて、
「子供達が遊んでるくらいだから、〝まだ〟大丈夫な時間よ。」
「〝まだ〟?」
「言ったでしょ?明日は地獄の窯の蓋が閉まるって。という事は、今は地獄の窯の蓋が開いたままになってるって事。」
「開いてるとどうなるの?」
「〝誰でも向こうへ行けちゃう〟の。」
美弥ちゃんは〝怖いでしょ?〟と、怖がらせるつもりも無いくせに悪戯っぽく笑ってそう言う。
冗談くらい判る。
なので、僕も靴を脱いで川の中へ入る。
思ったよりも川の水が冷たくて、涼を得た足先が夏の熱気に中てられた体の中の熱を下げてくれる。
「うわ・・・・気持ちいいね。」
「涼しいでしょ?」
「うん。」
僕が頷くと、美弥ちゃんもにっこり笑って頷いて、
「今日はありがとう。〝きちんと送って貰った事〟が無かったから、嬉しかった。」
川の中に佇んだまま、美弥ちゃんがそれを言う。
よく判らなくて、
「何の事?」
「初盆の精霊流しをしたくても出来なかったから、今でも弟が泣くの。」
「・・・・美弥ちゃん?」
表情の曇った美弥ちゃんの目線が落ちて、
「悲しいと思いながら流すと、流される方も・・・・辛いの。」
小さく溜め息を吐いた。
一瞬で美弥ちゃんの言葉の意味が全部判ったような気がして、全身ヒヤッとした汗が噴き出した。
けれど、美弥ちゃんが顔を上げ、静かに微笑みながら真っ直ぐに僕を見て、
「ありがとう、本当に嬉しかったの。」
あまりにも自然に言うので、これも冗談の続きじゃないのかと思ってしまった。
美弥ちゃんは見透かしたように、微笑んだまま首を振り、
「〝のどが渇いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました。〟」
「どういう意味?」
「喉が渇いて、お水が欲しくてこの川に来たの。」
「油なんか浮いてないよ?」
僕は冗談だと思いたくて、必死に川面を見回した。
見回して気が付く。
ゆるゆると流れる川の水面に、僕の影は映っていても、美弥ちゃんの影が映っていなかった。
僕の顔は一気に血の気が無くなって行ったと思う。
僕の顔色の変化に、美弥ちゃんの顔にあった微笑みが一瞬寂しそうに曇り掛けたけれど、持ち直してにっこりと笑った。
「もう、行くね。」
そう言った美弥ちゃんは、背を向けて対岸へ足を進めて行く。
対岸には本流に流れ込む支流の小川が見えた。
川の土手から真っ直ぐ本流に流れ込む支流は整備された川沿いの遊歩道にはそぐわない石垣造りの小川で、土手に開いた人が少し屈んで通れるくらいの小さな石垣積みのトンネルがある。
真っ暗なトンネル目指して美弥ちゃんは進んで行く。
美弥ちゃんの肩に掛かる髪が揺れる。
坂道を降りる時と同じように、美弥ちゃんの背中が楽しげに進む。
その暗いトンネルが何なのか、僕の推測は間違っていないと思う。
思わず、
「待って美弥ちゃん、まだ 」
引き留めようとしたが、美弥ちゃんは、
「サトシ君はここまで。」
足も止めず、振り向きもせず、答える。
美弥ちゃんの背中へ、
「美弥ちゃん、そこって・・・・。」
「ここから先はダメ、私だけで行かなきゃ。」
美弥ちゃんの背中が答えて、その声は坂道を降りている時と変わらない声だった。
向こう向きだから判らないけれど、多分、楽しそうな顔をしていると思う。
肩に掛かる髪が揺れていた。
持ち上げられた美弥ちゃんの手がひらひらと向こう向きに手を振り、
「ごめんなさい、戻るって決めたら振り返っちゃいけないルールだから、このまま行くね。私、弟が泣くから今日の内に帰るの。」
「弟?どこにいるの?」
「お墓の所に居るの。泣き虫なの。」
美弥ちゃんの背中がクスリと笑った。
微かに顔を横へ向けた美弥ちゃんの笑ってる頬が見えて、
「ありがとう、サトシ君。」
そう言ってふふっと笑った後、いきなり降り注いだ強い光に辺りの景色が真っ白に消し飛んだ。
眩しくて思わず両手で目を覆って屈みこんだけれど、指の隙間から入り込んだ光に目がくらむ。
目が痛い。
次の瞬間、轟音と共に襲ってきた爆風に体が吹き飛ばされていた。
どこか硬い物に体が叩き付けられ、風に舞う木の葉のようになす術も無く体が転がって行く。
あっけなく転がり、やっと止まったと思った時にはざぶりと川の中に体が投げ出されていた。
体中がバリバリと引き攣れて激痛が走る。
打ち身も痛かったが、引き攣れた腕が痛くてそこへ手をあててみると、何の抵抗も無くズルリとそこにあった皮が剥けた。
生皮を剥いだにも関わらず、その痛みに構って居られない程全身が痛い。
悲鳴を上げる余裕が無い。
それでも、呻きながら体を必死に起こして、周りを見た。
川の中から顔を上げ、そこに広がる景色に絶句する。
景色が別世界だった。
崩れ落ちた建物の並ぶ街は黒煙を空へ舞い上げながら燃える。
間違いなくさっきまで居た川の中だと思うが、さっきまでののどかな風景が一変して、そこら中に黒く焦げた人影が蠢いていた。
蠢く人たちは着ていた服も焼け焦げて、髪も皮膚も見た事も無い酷い火傷の仕方をしていた。
同じような容貌の人々が川縁にぎっしり押し掛け、焼け爛れた体を引き摺って次から次に川の中へ転がり落ちるように入ってくる。
川へ入り、折り重なるように次々と水へ体を沈めて行くのだ。
下敷きになった人の体が浮かんでくる様子は無いが、そんな事に構って居られる状態では無い。
悲惨な状況が目の前に展開されていた。
悲鳴も出ず、ずぶ濡れのまま呆然と目の前の景色を眺めていた僕はふと足元の川へ視線を落とす。
と、そこに、油の浮いた水が流れていた。
流れてくる水に浮く、夏の日差しにギラギラと虹色の光沢を纏った油が僕の足に絡みついた。
美弥ちゃんが呟いた声を思い出した。
のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
やっと、この街がどういう歴史のある所だか気が付いた。
さっき見た光は、その瞬間の光だったのだと判った途端、耳の中を爆竹のけたたましい破裂音が掻き回した。
あまりの五月蝿さに、顔を顰めて耳を塞ぐ。
一束分の爆竹が極至近距離で炸裂した後、耳鳴りのする耳から手を放して顔を上げると、見覚えのある原住民が少し高くなった塀の向こう側から見下ろしていた。
そして、
「ごめんねぇ、そこに居るとの気付かんやったとよ。爆竹は当たらんやったね?」
おじさんが小学生と思しき男の子の頭を下げさせながらこちらへ向かって言う。
この流れには覚えがある。
はっとして周りを見回すと、僕は墓所の長い坂道の途中に立っていた。
慌てて体のあちこちを手で探ってみるが、川の中で転がったはずなのに濡れても居ないし、火傷も怪我もしていない。
自分で生皮を剥いでしまった筈の腕も、なんとも無い。
あの激痛が嘘のように消え去っていた。
僕の挙動不審ぶりに塀の向こうのおじさんは、
「大丈夫ね?どがんかしたっちゃなかと?」
心配気に聞いて来るが、僕は必死に首を振って、
「何でもないです、大丈夫です。」
大丈夫ではないが言う。
混乱してその場から逃げ出そうと足を一歩前へ進めた途端、道の傍にある墓所の方から、
「水の無かったねぇ。」
おじいさんの呟くような声が聞こえ、また、覚えのある流れになった。
目を向けると、墓所でお墓に供えるための花を新聞紙の中で分けていたおばさんが、
「若っかモンが取りに行くけん、座っとかんね。」
と、視線を落としたままおじいさんに答えた。
さっきはここに美弥ちゃんが居た。
この流れと繋がりがなんとなく判ってどっと悲しくなった。
悲しくなったけれど、ちゃんと判るために聞こう、そう決心して、僕は坂道に突っ立ったまま、
「すみません、ここに居た僕と同じ年くらいの女の子、どこへ行きましたか?」
おばさんへ声を掛けた。
急に声を掛けられたおばさんは顔を上げて不思議そうな顔をする。
そりゃそうだろう、お墓には最初からおじいさんとおばさんの二人しか居なかったのだろうから。
おばさんは首を傾げて、
「え?」
短く訊き返すので、
「制服着てて髪が長い女の子です。名前は〝美弥〟さんで、さっき一緒に〝水汲み〟に行ったんです。」
違う、美弥ちゃんは水を飲みに行ったのだと思ったが、それをいきなり言っても判って貰えないと思う。
おじいさんが今にも泣きそうな顔で、
「・・・美弥はわしの姉さんたいね。」
美弥ちゃんが言った通り、〝泣き虫の弟〟は本当に今すぐ泣きそうだった。
ふるふると弱気に泣き出しそうな顔をする。
おじいさんは小刻みに震えながら、
「八月九日に浦上川で亡くなったと。」
ぽつりと言葉を溢す。
おじいさんにつられて泣きそうだ。
おばさんは「もう、父さんは姉ちゃんのことになるとすぐ泣くとやけん」と困ったように笑っておじいさんの首に掛かっていたタオルでお爺さんの顔の汗を拭ってやった。
汗と一緒に目から溢れたモノも。
おばさんが僕へ向けた顔にある、困ったような笑顔がどことなく美弥ちゃんに似ている。
美弥ちゃんの姪にあたるおばさんは、美弥ちゃんの面影のある顔から優しい眼差しを僕へ向けて、
「君が言う〝みや〟さんと同じ名前の伯母が居たのよ。父の姉の美弥は昭和二〇年の八月九日の原爆で亡くなったの。長崎市内で学徒動員されていて、そこで被爆してね。」
おばさんの話に続けておじいさんは、
「今日のごたる暑か日やったとよ。空のいちめん光ってそこら中がふっ飛ばされた後、姉さんば探しに浦上まで行ったとばってん、体の芯まで焼けただれた人たちの水ば水ばって言うて、川の中にどんどん入って行って死によらした。姉さんも多分、あそこで亡なってしまっとったとよ。」
自分で顔をタオルで拭いながら、悲しい声で言う。
ただ、申し訳ない事に僕には、
「・・・すみません、途中がよく判らないです。」
言語の壁が立ちはだかった。
おばさんが察してくれて、
「原爆が落ちた日、街に居た人たちは酷い火傷を負ってね、喉が渇いてお水が飲みたかったんだけど、そこら中が瓦礫の山になっていたから水なんか無かったの。だから、みんな浦上川へお水を飲みに向かったのだけど、そこで力尽きてたくさんの人が川で亡くなってたのよ。」
通訳してくれた。
さらりとおばさんは説明してくれたが、その恐ろしく悲しい光景は僕の頭に思い浮かべる事は簡単だった。
油の浮いた川へ、次々と人が押し寄せる様子は今見たばかりの事だったから。
ぞっとして、その時〝生皮が剥げた〟腕を手で押さえた。
当然、今はただの汗ばんだ自分の腕でしかない。
ぐっと僕の口元が引き結ばれた事を知ってか知らずか、おじいさんの口からまたぽつぽつと言葉が漏れ、
「戦争に行って帰って来んやった父ちゃんの精霊流しば十六日にせんばって言いよって、小さか舟ば美弥姉ちゃんと準備しとったとけど、舟も姉ちゃんも一瞬で無かごとなってしもうたと。」
そう言って、美弥ちゃんの泣き虫の弟はぽろぽろと泣いた。
蝉時雨の陽炎にゆらぐ長い坂道。
息を切らしながら登る道の途中で振り向いて景色を見た。
空は嫌味なほど青く、その日すべてを掻き消した光の事などまったく感じさせないのどかな青しかなかった。
溜め息が出た。
口から出た溜め息が、やるせなくて出たものなのか、坂道がきつくて出たものなのか、暑くて茹り掛けている今はどちらでも構わない。
耳の中いっぱいに広がる蝉時雨に促され、会った事の無い祖父の墓へ向かって僕は再び坂道を登り始めた。
◇◇◇平成27年8月9日
長崎市長 田上市長による長崎平和宣言
http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal/2015.html
◇◇◇平和公園にある「平和の泉」
http://nagasakipeace.jp/japanese/map/zone_negai/heiwa_izumi.html
のどが渇いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
※平和の泉にある石碑に刻まれた言葉を引用しました※