それが恋でなくとも
死を覚悟した刹那の後、春馨が感じたのは、全身を包む暖かさと、そして脇腹に降りかかる熱だった。
「あ……」
恐る恐る、顔を上げる。
いつもの無表情に、少しだけ苦悶の色を混ぜた荘稀の顔が、そこにあった。
呆然とする春馨と同様、籍英もまさか荘稀が身を挺して春馨を庇うとは予想外であったのか、目を見開いて動きを止めている。
春馨を己の左胸に抱えるようにして右脇に籍英の刺突を受けた荘稀は、春馨に耳打ちするように少しだけ屈んだ。
「私は、お前の選択に応えよう」
苦しげな息の下から、微かに聞こえた言葉。
はっと我に返った春馨は、半ば反射的に、ちょうど右手の側にあった荘稀の佩剣を引き抜いた。
「春、馨……」
籍英が目を丸くしたまま、小さく呟く。
荘稀の左脇から、真っ直ぐに突き出された荘稀の剣。春馨が握り締めて突き出したその刃は、荘稀の後ろに留まっていた籍英の胸を貫いていた。
籍英がよろめく。彼が数歩下がったことで胸に刺さった刃が抜け、鮮血を散らした。力の抜けた彼の手が剣から離れ、荘稀が春馨に縋るように崩れ落ちる。荘稀の重みで地に座り込んだ春馨は、暫し呆然とその光景を眺めていた。
地に投げ出された籍英の体からは夥しい血が溢れ、その瞳は濁ってもはや何も映すことは無い。
涙は、流れなかった。
ただ空虚という名を与えるにはあまりにも寒々しい、凍えそうなほどの喪失感が彼女から思考を奪っていた。底の無い、常闇の風穴に際限もなく落ちてゆくようであった。
彼女をそこから拾い上げたのは、小さな呻き声だった。
それが彼女の肩に寄り掛かっている荘稀の喉から零れたものだと気付いた時、彼女は四肢の感覚を取り戻した。慌てて荘稀の体を横たえ、頭巾を解いて止血する。
「荘稀様、しっかり」
そう声をかけると、切れ長の目が僅かに見開かれた。そして、ゆるりと細められる。
「初めて、名を呼んだな」
こんな時なのに、荘稀はそんな暢気な指摘をする。困惑した春馨は、そういえば自分がいつも彼を相国という役名で呼んでいたことに気付いた。
「……あなたを、愛すると決めましたから」
小さな声でそう言って、それからふとした疑問を口に出したくなる。
こんな時に、とは思うが、荘稀もあんなことを言ったのだからお互い様だ。寧ろこんな時にこそ、言うべきことなのかもしれない。
「あなたは、私を愛してくださいますか」
彼女の問いに、彼は喉を鳴らすようにして笑った。声を上げて笑うのを見たのは初めてだな、と漠然と考える。
「愛しているとも」
血に濡れた手で、彼は彼女の手を握った。
「恐らく、恋ではないが」
春馨はそっと微笑んだ。
「十分です」
朝日の降り注ぐ中、二人は暫しそうして手を握り合っていた。
家の決めた結婚だった。けれどもそこに愛がうまれないと、一体だれが決めた。
彼女は愛を選び、自ら恋の息の根を止めた。
残された愛は、静かにその鼓動を繰り返し、二人を繋ぎ続ける。
たとえそれが、恋でなくとも。