冬の戦
戦が始まった。
その報せは、どこか現実味の欠けた空虚なもののように春馨の耳に響いた。
大規模な衝突ではない。だが、小規模な騒乱があちらこちらで頻発している。
「手が足りない」
荘稀がぼそりとぼやいた。今回の反乱の性質上、国は軍を集中して投入することができない。よって将も分散することになり、結果的に指揮官の数が足りない状態に陥っているらしい。
「大元を叩かねばなるまい。中心を探れ」
淡々とした声が、的確な指示を飛ばす。その傍らに妻として控えながら、春馨はそっと地図に目を走らせた。反乱は都にまで及び始めている。高官の屋敷が襲撃される事件も起こっているらしい。
「済まないが屋敷の警備に回すほどの人手が無い。万一の時はすぐに逃げなさい」
荘稀が報告書から目を離さないまま春馨に言う。はい、と答えながら、春馨は羽織の下に隠した短剣を撫でた。
結婚する前、春馨は伊達にお転婆だったわけではない。籍英とともに男の子に交じって剣を教わっては、それが露見して家の者にこっぴどく叱られたのはいい思い出である。
つまるところ、春馨は武術についても全くの門外漢というわけではない。万一の時に己の身を守る術くらいは、持っているつもりである。
厳しい表情で、荘稀が他の重臣達と合議しつつ都の警吏達を走らせる日々が続く。
そんな中で、ついに荘稀の屋敷を武装した集団が取り囲んだのは、冬の近づく日の夜半のことだった。
「慌てずに、男手は武器を持ちなさい。あなたは外の者達の様子を探って」
夜半ではあるが、ここのところ特に多忙な荘稀は帰宅していない。春馨は家人達に指示を出し、自ら剣を腰に佩びた。武術をかじっているといっても、多数相手の戦闘となれば専門外である。それでも、彼女がここで弱さを見せれば屋敷の者達にそれが伝染するであろうことは、上に立つ側の人間として暮らしてきた彼女にはよくわかっていた。
春馨の落ち着きが伝わったのか、家人達も騒がずに防衛の準備を整え始める。侍女に動きやすい男物の服を用意させて着替えた春馨のもとに、外へ物見にやった使用人が戻ってきた。
「数は二百ほど、隙無く囲まれています。どうやらこの反乱、貴族の子弟達も巻き込んでいるようで、ここを囲んでいる連中の指揮を執っているのは下大夫の籍氏の庶子のようです」
がん、と頭を殴られたような心地がした。
「籍氏の、庶子……?」
心臓が早鐘を打つ。その響きには、嫌というほど聞き覚えがあった。
「はい、確か、名を籍英と」
使用人の口から出たその名に、春馨は眩暈を覚える。
今も春馨の心の中にいる、たった一人の恋人。大切な、想いの相手。
その名が今、敵として春馨の前に突き付けられたのだ。
だが見ようによっては、これは好機かもしれない。
いっそ、籍英と手を取り合って、逃げてしまおうか。
それとも、籍英の情に訴えて、兵を退いてもらうか。
ふ、と春馨は気づく。
今、彼女は、どちらも選べるのだ。
籍英との恋を選ぶことも、荘稀の妻としてこの家を守ることも。
そして同時に、どちらかを選ばなければならないのだ。
選ぶことを拒否して家に籠っていたとしても、籍英は彼女がここに居ることを承知しているに違いない。必ず、引きずり出しに来る。
彼女は片方を選ばなければならない。
籍英か、荘稀か。
恋か、愛か。
長いこと、春馨は口を噤んでいた。周囲の者達は、彼女が家を守るための方法を模索していると思っただろう。だが彼女の中に渦巻いていたのは、たった一つの重たい二択であった。
やがて、春馨は口を開く。
「頭巾を用意して」
自らの選択に向かい、歩き出す。
「籍英に会って話をします。内密に」
侍女が慌てて危険です、と押し留めようとするのに手を振って、春馨は長い髪を纏めた。
「心配いらない」
ほんの少し目元を緩めて、微笑んでみせる。
「選んだ結果には、責任を持つから」
夜明けと競い合うように、春馨は屋敷の裏手に出た。使用人が使いとして敵陣に走り、春馨からの呼び出しを伝える。
東の空がほんのりと白む頃。
懐かしい姿が、春馨の視界に現れた。
「春馨」
「籍英」
小さく名前を呼ぶと同時に、きつく抱き締められる。久方ぶりに触れた体温に、朝の冷気にさらされて固くなっていた体がじわりとほどけた。
「会いたかった」
「私も」
暫く、そのまま抱き合って互いの鼓動を感じあう。やがてその体勢のまま、籍英がぼそりと春馨の耳に言葉を落とした。
「俺に会いに来てくれたのか、それとも――相国の為に、撤兵を訴えに来た?」
春馨はふう、と息を吐いた。彼女の選択が、その薄い舌の上に載せられる。
「――後者よ」
籍英が体を離して、春馨の顔を覗き込んだ。その表情は、朝日のせいで逆光になってよく見えない。
「春馨……あの男に心を移したのか」
春馨は首を振った。横に、である。
「心は移っていない。今も私の恋人はあなただけ」
真っ直ぐに籍英を見上げ、言い放つ。籍英が少し身じろいだ。
「だったら、俺と一緒に来い。二人で遠くへ逃げよう。今の俺なら、その力を持っている」
二年前、籍英には春馨の結婚を止めるほどの力を持っていなかった。けれども今なら、彼女を攫って逃げることができるのだ。
だが、春馨は首を縦に振らない。
「ありがとう。あなたに心配をかけたことを、申し訳なくも思う」
二年前、この手を離すのは、本当に辛かった。彼も辛かったに違いない。だからこうして、迎えに来てくれた。
「でもこの手を取れば、私達の恋は私達の身を滅ぼすことになる」
恋の激情に駆られて身を滅ぼした例は、古今枚挙に暇がない。それでも人は、望んでその炎に身を焼かれるのかもしれないけれど。
「それでもいい」
籍英は言下に言った。春馨の手を掴む。
「お前とともに身を滅ぼすなら本望だ。お前を意に染まない男のもとで暮らさせるよりずっといい」
春馨はなおも首を横に振る。
「私のことは心配いらない。私はあの人を愛せるわ」
「心変わりするのか!」
籍英が唸る。春馨の答えはまたしても否。
「あなた以外に恋することはない。飽くまで私は、あの人を愛せるだけ」
愛と恋の違いは、と訊く者がいる。
「それは詭弁だ」
呻くように言う籍英の手を、春馨はそっと握り返した。
「詭弁ではないわ。愛と恋とは違うもの」
或る者は言う。愛は見返りを求めないもの。恋は相手にも同じ気持ちを求めるものだ、と。
そして春馨は、そこに一つ付け加える。
「恋は時に身を滅ぼすわ。愛は違う」
恋は盲目、と古人は言った。籍英は春馨への恋心一つで、反乱に身を投じた。
恋を選べば、春馨は籍英とともに滅びることになる。二人にとっては、それでもいいかもしれない。
しかし残された荘稀の家が、二人の家族が、どのような打撃を受けるか、彼女には想像もつかない。そうした種々の事情を考慮する余裕を奪ってしまうのが、まさに恋の身を滅ぼす所以なのであろう。
二年前なら、春馨は迷わず彼の手を取ったに違いない。けれども、二年間の荘稀との生活の中で、春馨はもう一つの想いの形を知った。
「私は、愛を選ぶわ」
凛とした声で言いきって、籍英の手を離す。俯いた彼に、静かに言った。
「兵を退きなさい。今ならまだ間に合う。取り返しのつかない罪状を、その身に加えてしまう前に」
今ならまだ、交戦の始まる前の今ならまだ、誰も身を滅ぼさずに事態を収拾することができる。そう諭す春馨の腕を、籍英が不意に掴んだ。
「納得できるものか!」
叫びが耳を打ち、抗う間もなく腕を引かれて背中を木の幹に打ち付けられる。呻く春馨の肩を、籍英は押さえつけた。
「俺は納得しない。何のためにここまで……!」
手加減もなく掴まれた肩が痛む。歯を食い縛って呻きを噛み殺した春馨は、初めてはっきりと籍英の表情を見た。絶望と憤怒のないまぜになった相貌が、春馨を睨んでいる。
その時、霜の降りた草を踏みしめる微かな音が、二人の間に割って入った。
「私の妻に乱暴はよしてもらおう」
木々の隙間から朝日の零れる中に、その男は立っていた。右手に提げた抜身の剣が不似合いなほど静かな佇まいは、まぎれもなく春馨の夫のものである。
その姿を認めた籍英は、春馨が逃げないように片腕で押さえつけたまま剣に手をかけた。
「これはこれは、相国ともあろうお方が単身お見えとは」
皮肉気に言って、片手で剣を構える。
「単身か。違うな。私はそれほど考えなしではない」
荘稀の言葉に呼応するかのように、屋敷を取り囲む反乱兵の陣から喧騒が伝わってきた。籍英がはっと目を見開く。
「まさか。都の兵は出払っている筈……」
「一口に出払っていると言っても、全くの空になるわけではない。無論、そうして残ったものを動かすには相応の手間と力量が必要ではあるがね」
まるで弟子に学問でも教えるかのような淡々とした口調に、籍英の表情が歪む。籍英の拘束から抜け出そうともがいている春馨を強めに押さえつけた。
「だがここへは単身で来た。そんなに彼女が惜しいのか」
「彼女が惜しいのは君の方だろう」
荘稀は軽く首を傾げて、一歩踏み出す。
「だが私が彼女を連れ戻しに来たことは否定しない」
「来るな!」
籍英が威嚇するように叫ぶ。手にした剣を、春馨の喉元に突き付けた。荘稀は足を止め、どこか不思議そうに籍英を見遣る。
「彼女を傷つけては本末転倒なのではないか」
「そうでもないさ」
籍英は春馨の肩を引き寄せ、その頬に剣刃を当てる。身動きできない春馨は、しかし不思議と恐怖を感じてはいなかった。
それは相手が籍英だからなのか、それともこの場に荘稀がいるからなのか。彼女にはよくわからない。
「春馨は俺と来ることを拒んだ。他の男に渡すくらいなら、いっそ――」
ぐっ、と剣を握る手に力を籠めた籍英に危険なものを感じたのか、荘稀が口を噤み、ゆっくりとした動きで右手の剣を左腰の鞘に収める。静かに二人を見据える瞳の奥では、打開策を練っているのだろう。
籍英は春馨を連れたまま、じりじりと後退を始める。このまま力づくででも連れて行こうとしているのがわかって、春馨は覚悟を決めた。
家を出るときに約束したのだ。選んだ結果には責任を持つと。
「ごめんなさい」
どちらにともなく謝って、春馨は籍英の腕を振り払った。
首筋の皮一枚、白刃に触れて血が溢れ出す。まさか春馨がそんな無茶をするとは思っていなかったのだろう、目を瞠った籍英の手の中から、春馨は抜け出すことに成功する。
しかし、一瞬の驚愕から醒めた籍英の動きは速かった。瞬時に距離を詰め、剣を構え直す。
その瞳に光が無いのを見て、春馨は彼が本気で彼女を殺す気でいることを悟った。
そして、自分に彼の剣を躱す術が無いことも。
鈍い音を立てて、剣が肉を貫く。
鮮血が霜に凍てつく草を濡らした。