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夏の別れ

 物事は時に、この上なく不都合な時を狙ったように降りかかってくることがある。

 春馨にとって、その報せはまさにそういうものであった。


「お前の婚儀の準備を進めている」

 父が春馨に、そう告げたのである。それは娘の意思の確認でも、婚約者が決まったという報告ですらなかった。

 既に準備を進めている、と父は言うのである。春馨には心を決める暇すらなかった。

「お待ちください父上。私は何も伺っておりません」

 春馨は狼狽えた。ほんの数刻前に、籍英と心を通じ合わせ、唇を触れ合わせたばかりである。これから何とか家を説得する方法を考えようと相談を始めたところの二人にとって、この報せは早すぎた。

「うむ。お前には言っていなかったが、お前は(そう)氏に嫁ぐのだ」

「荘氏」

 父の口にした相手を復唱した春馨は、さっと思考を巡らせた。

 荘氏、という一族については、わざわざ思い出す必要もない。この国で最も権勢を誇る一族である。

 よって考えるべきは、その一族の中の誰が、春馨を娶ることになったのか。春馨は主要な人物の年齢と妻妾の有無を思い浮かべて答えを探り、そして絶句した。

「まさか……相国(しょうこく)様では」

 春馨が口にすると、父は満足げに頷く。

「その通りだ」

 春馨は二の句が継げなくなった。


 相国は、この国の人臣の最高位にして国政の責任者である。現在その任にある人物を、荘稀(そうき)という。まだ三十手前にも関わらず高い能力を評価されて相国の位にまで登った切れ者で、まだ結婚はしていない。その荘稀と春馨の結婚が決まっていると、父は言うのである。


「よいか、これは好機なのだ」

 春馨の肩に手を置き、諭すように父は言った。

「わが家は長く栄華を誇ってきたが、近頃やや不調であるのはお前もわかっているだろう。荘氏と姻戚になる、それも相国を務める男と縁を繋げるならば、これ以上のことは無い」

 震えが、春馨の指先から這い上がってきた。

 春馨はお転婆ではあるが愚かではない。この結婚が、父が並々ならぬ労力をかけて手に入れた起死回生の一手であることが、彼女には痛いほどわかったのである。


 でも、自分は籍英と。


 口を開こうとした春馨を押し留めるように肩を叩いて、父は一言、言った。

「野には、もう行ってはならぬ」

 びくり、と肩を震わせた春馨に気づかぬふりをして、父はそのまま立ち去ってゆく。

 春馨はへなへなとその場にへたり込んだ。


 知られていた。籍英との逢瀬。


 父は知っていて、黙認してくれていたのだ。恐らく、春馨がいずれ、自由を無くすことを知っていたから。今くらいは、と。


 もう行くなと言われた以上は、多分、もう家を抜け出すことはできないに違いない。

「籍英……」

 力なく呟く。家族を見捨て何もかも投げ出して彼とともに逃げる力も無謀さも持たない彼女には、もはやどうすることもできなかった。





 婚儀は秋。

 春に婚約の事実を知らされ、家から出してもらえないまま悩み続けた春馨は、夏のある日、意を決して父に頼み込んだ。

「籍英に会わせてください」

 どうせ父は以前から春馨と籍英の関係を知っていたのだ。今更面会相手をごまかす必要もなかった。

「会って、事情を話して、そして別れを言いたいのです。それが終われば、私はおとなしく相国様に嫁ぐと約束いたします」

 逆に言えば、籍英と会わせてくれなければ反抗する。そう匂わせて直談判に及ぶと、父は渋い顔で暫く黙りこんでから、溜息交じりに頷いた。

「お前は言いだしたら聞かぬからな……但し、(せつ)を連れて行きなさい」

 節、というのは、春馨の乳母の名である。春馨は父に礼を言うと、節を通じて籍英を都の外れに呼び出してもらった。



「春馨!」

 春馨が待ち合わせ場所に姿を現すと、既に来ていた籍英が駆け寄ってきた。節が付き添っていることに一瞬眉を寄せ、春馨の髪に触れる。

「どうしたんだ、急に連絡も取れなくなって……」

「籍英」

 春馨は声が震えないよう細心の注意を払いながら、彼の名を呼んだ。ここで泣いてはならない。

「私、結婚しなければならないの」

 ぴたり、と籍英が動きを止めた。何を言われたのかわからない、とでも言いたげな、丸く見開かれた目が春馨を見下ろす。

「ごめんなさい」

「……なんで」

 籍英の低い声が、春馨の耳朶を撃つ。

「なんで、そんなこと。約束しただろう、俺達」

「ごめんなさい」

 謝ることしかできなかった。痛いほどの力で、肩を掴まれる。

「なんで、俺に一言も無しに……あの日、約束した……あの日交わした想いは、嘘だったのか。お前にとって、その程度のものだったのか」

 籍英も混乱しているのだろう。言葉がきつくなる。


 春馨は頷こうとした。

 ここで頷いて、あの想いを嘘だったことにして、嫌われてしまえば、籍英を自分から解放できる。


 けれども、彼女の意思に反して、彼女の首は動かなかった。代わりに、目じりから涙が溢れる。

 ああ、泣かないと決めていたのに。

「嘘……なわけ、ない!」

 春馨は籍英の腕を掴み返した。半ば頭突きでもするように、その胸元に顔を埋める。

「私は今でもあなたが好き。きっとこれからも、あなたに恋する想いは変わらない」

 涙声でそう告げると、一拍の間をおいて、強く抱き締められた。

「逃げよう」

 籍英が囁く。

「俺と一緒に逃げよう。どこか、遠くへ」

「駄目よ」

 籍英の言う方法が不可能であることを、春馨は知っていた。春馨の父は一見温厚そうだが、ああ見えて数々の政争を泳ぎ切ってきている。十代の若者に出し抜けるほど甘い男ではない。

「あなたがそう言ってくれて嬉しい。それでも……」

 籍英の腕の中で、春馨はゆっくりと力を抜いていく。その声音に、諦念が滲んだ。

「それでも私は、家を、父を裏切れないの……」



 夏とは思えない冷涼な夜気の中で、恋する二人は手を離した。

「さようなら」

 別れの言葉が、濃紺の闇に溶けて行く。涙を拭って、春馨は踵を返した。


 ――さようなら、たった一つの、私の恋。


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