忠臣蔵外伝 後編・紀伊国屋淀五郎の巻
世の中には「下手の横好き」なんて申しまして。子供の頃か若い頃かに、何かの真似事をやってみたら意外にウケちゃったりして。お義理だかふざけてんだか知らないけど、お世辞をいう人なんかいてちょっと気持ちよかったもんで、ついついハマッてしまったりして。
やがてそれが嵩じて趣味になり、ついには、よせばいいのに「俺は本気でプロを目指す!」なんて野心を持ったりもします。
あちきもまぁそんな奴の一人でして。今でもたとえばこんなふうに素人小説を書いちゃあ人に読ませて、また褒めてくれる人が出たりしないもんかと四苦八苦してるわけで。
そんな奴はついには親が止めるのも聞かずに家を出てしまい修行を気取るんですが、これが2年もすると師匠から「いい気になりやがって、キサマには才能がないわ、家に帰れバカモン!」などと一喝食らい、ふらふらと帰ってくるなりそのまま働きもせず半年も引きこもってエロゲーばかりしていた……なんて悲喜劇が展開したりもします。こうなることが予想できたから親は止めようとしたわけでありますが。
でも、そんなやつでも何かの機会にその筋の関係者の知己を得れば、偶然だか運命だかで「ちょっと穴埋めが要るんだけど、やってみない、ん?」なんて言われて、本に名前が載った、なんてことだってあり得ます。あちきじゃあないが、中にはそういう機会を踏み台に、努力と運と才能とをフルスロットルにし、しまいにゃ会社も辞めて本当に専業のプロになっちゃって、今ではそれで妻子を食わしてる人だっていますから、人間、諦めないほうがよさそうですな。
そんな感じで、現場の周辺をもの欲しそうにうろうろして関係者に名前を憶えてもらってチャンスを掴もうっていう、若い頃のあちきのような了見の連中は、遠く200年前の江戸時代にもいたようで。その一人が、このお話の主人公・紀伊国屋淀五郎であります。
昔、木挽町の歌舞伎座に「三河屋段蔵」という役者がいました。ちょうど上がり調子で売れに売れ、一座を率いておりまして、まあこのころのスタアだった人です。
で、この段蔵が主役の忠臣蔵が舞台にかかることとなりまして。なんと、段蔵が大星由良之介(大石内蔵之介)と高師直(吉良上野介)の二役をやろうっていう出し物です。いくら人気スターといっても主役と敵のラスボスを一人で演じちゃおうってんですから、まあ大胆な企画ですね。実は人手が足りなくての苦肉の策だったのかもしれませんけども。
さて、その忠臣蔵の初日も迫ったある日のこと……。
「三河屋の旦那」
稽古前に支度部屋で、一座の差配の者がやってきまして段蔵に耳打ちします。
「ちょっと困ったことになりました」
「なんだ、一体?」
「実は……判官が急に病気になりやがったんで」
塩谷判官(浅野工匠頭)といえば忠臣蔵前半の重要人物です。そもそも忠臣蔵は、判官が師直に松の廊下で斬りつけなけりゃ話が始まりません。だからこの役を省略するわけにはいかない。
「誰か代役を立てるしかねえな」
「ところが……代わりをやれそうな奴が誰も」
「誰かいるだろ?」
「いや、いません。今回、人数ギリギリですから」
どうやら本当に人手不足だったようです。
「じゃ、しかたねえ……下っ端の若いのにやらせてみよう」
「下っ端ですか……でも素人みたいなのばっかですよ?」
「いいんだよ、たまには。若いのにはそういうのが薬になるんだ。素人みてえな奴でも一回修羅場をくぐると一皮むけるってことだってあるし。見込みの無え奴なら痛い目みて懲りて諦めちまうんだから。えーと、誰がいいかな……」
段蔵が考えこんでいますと、部屋に入ってきた一人の若者。
「お茶が入りました」
お茶を入れました、と自己主張をしないところが、日本語表現の奥ゆかしさであります。まあ責任の所在を暈かしてるという見方もできますが。
「おお、頼んだやつか、そこへ置いといてくれ」
言われた若者はちゃぶ台の隅に湯飲みを置きますと、基本の作法どおりに座り方を改めまして、
「何かほかに、ご用はございませんでしょうか?」
「ねえよ。ありがと」
一礼して出て行きます。って、別にこいつが気が利くってわけでも、特別に上品な野郎ってわけでもなく、先輩にお茶を持ってくるときの作法を型どおりにやっただけの話なんですがね。
「…………」
湯飲みのお茶をすすりながらその後姿を見ていた段蔵、ふと
「あいつ、何つったっけ?」
「へ? ……淀五郎が何か?」
「そうそう、淀五郎っていったな。どうだろ、あいつ……判官に」
「あーーーっ、いけません。あんなの、とてもとても、いけません」
差配はもう「と・ん・で・も・ないっ!」という顔をして手を振って見せます。
「あいつぁ、紀伊国屋っていう、どっかの大店と同じ屋号の引き手茶屋の倅なんですがね。趣味の素人芝居が嵩じて、あちこちの稽古場に入り浸って、やっと大部屋に入れるか入れないないかっていう、まあ、ただの役者気取りのバカです。うちでもまぁ、ときどき雑用なんか手伝わさせてますけど、でも、とてもあいつぁ、判官なんて大役、演れるようなタマじゃあ……」
「でもこの前、ちょっと使ったことあったろ?」
「使ったって言っても、天竺徳兵衛の蝦蟇じゃありませんか!」
主人公が巻物を口にくわえて印を結ぶと、ドロドロドロンと煙が出て巨大なガマガエルが現れる。あのカエルの張りぼての中で、舌の仕掛けをベロンベロンと動かしてたわけです。もちろん顔なんざぁお客には見えません。
「中村座でもほら、なんかやって……」
「馬の後ろ脚!」
これも顔なんか出ません。
「でも、挨拶の型はまあまあだ。身のこなしもそう悪かぁねえ。芝居の勉強も少しはやってるんじゃねえか?」
「やめといたほうが……」
「いーよ。相手役の俺がいいって言ってるんだ、あれにやらせてみようよ。なぁに、四段目で切腹して判官の出番は終わりだ、よしんば淀五郎がしくじったって、その後でなんとか埋め合わせはできらあ」
さあ~~~大変なことになりました。素人に毛の生えたような大部屋役者の淀五郎が、たまたまえらい人の目に留まって、大役を振られることになっちゃった。
ええ、芝居でも絵でも音楽でも文章でも政治でも、どんな世界でもあります、えらい人の周りをうろうろしてると、こういうことがたまに。
差配は手前の使ってる薄暗い小座敷に淀五郎を呼びまして、
「いいか、お前さんは急に名題になることになった。今日からは屋号をつけて『紀伊国屋淀五郎』とでも名乗んなさい。だけどこれは、大部屋やら人足やらに判官を演じさせるわけにはいかないからしかたなく、無理に名題に出世させるんだ。だからそのつもりで、抜擢してくれた三河屋の旦那に感謝して、一生懸命がんばらなきゃだめだよ?」
心配だから得々と教えを説きますが、淀五郎はもう最後のほうなんか聞いちゃいません。
当然でしょう……喩えれば、あちきみたいにウェブに素人小説を載せて遊んでた人が、携帯小説だの文庫本だのそういう途中のを全部すっ飛ばして、いきなりハリウッドで映画化って話が来たみたいなもんです。浮き足立つなという方が無理でしょう。
新しく名題になった役者のならわしに従いまして、淀五郎は大急ぎで屋号を染め抜いたしるしものの半纏やら手ぬぐいやらを作り、方々に配って挨拶まわりもいたしまして。もう一生懸命、稽古にも精を出し、いよいよ明日が初日ということになりました。
淀五郎、前の晩にはもう眠ることができません。
布団の中に入っても、まだぶつぶつと、松の廊下の
「武士の情け、お放しくだされ」
だの、判官切腹の
「遅かりし由良之介……ああっ、待ちかねた」
だのなんてセリフを口にして、ああ演じたらウケるか、こう演じた方がカッコいいか、そんなことを悶々と考えてしまう。そのうち、一睡もしないで世があけちまった。
さて、とうとう、初日となりました。
江戸時代の芝居は日が暮れてからはやりません。なにせ電気ってものがないから夜は真っ暗で、役者が何かやったとしても見えやしません。
夜芝居が始まったのは明治何年だかに電気が来てからでした。それ以前の芝居は朝、今でいう午前七時ごろに始まっておりました。
朝早いうちに役者はみんな楽屋へ入りまして、もちろん淀五郎も入りまして、やがて幕が開きます。
まず大序は、まぁ無難に終わることができまして。三段目の喧嘩場、俗に「刃傷松の廊下」のシーンも、まぁなんとかかんとか、大きな問題はなく演じきることができました。
さて、四段目の腹切り場となりました。ここは「出物止め」と申します。
昔の芝居は客席で飲んだり食ったりが自由で、外から出前をとったりなんてこともあったりましたが、この四段目になりますとそれができない。何しろ前半のクライマックスでございます、頼んだって食い物なんか持ってきちゃくれないんです。そのかわり、五段目が「弁当幕」と言って食事時間となるわけです。その辺の事情は前編にも書いたから、お時間があれば見てやってください。
淀五郎の演じる塩谷判官はと申しますと……ここは、江戸ではなく鎌倉という設定の、判官の屋敷。白装束に身を固めまして、前には白木の四宝(木製で脚部の四方に穴のある台)、その上には白鞘の九寸五分(短刀)が置かれています。周りには検死の役人や家臣やらが囲み、辞世の歌のひとつも詠んだというところ。
史実としては江戸時代の切腹の正装は浅葱色の裃だったそうですが、舞台やTVでは白装束の方が映えるので、昔からそういうことになっております。
さて判官は切腹を前に、覚悟はとっくに出来ていますが、ただひとつ心に残るのは、最後に城代家老の大星由良之介に会って遺言を伝えたいってこと。でもその大星が現れません。
「力弥、力弥」
「はっ」
「由良之介は?」
舞台の端を大星力弥……由良之介の息子ですな。こいつが覗きに行きまして、帰ってくると
「いまだ、参上……」
鳴り物が、ボーン。
「……仕りませ~ん~」
検死の役人も暇じゃありませんから、いつまでも待ってるわけにはいかない。判官は四宝を押し頂きまして、白装束を肩肌を脱ぎます。そして九寸五分に手を伸ばす……。
「力弥、力弥ッ!」
「はっ」
「由良之介は?」
ふたたび舞台の端へ行き、
「(何やってんだよ親父ぃ。殿様、死んじまうじゃねえか。早く来てくれよ、もう~~~っ!!)」
という気持ちの演技を見せてから、
「いまだ、参上…」
ボーン。
「…仕りませ~ん~」
判官も、もう由良之介との対面を諦めまして、
「無念! と申し伝えよ。では御検死、お見届け下、さ、れ~……」
右手めてに持ったる九寸五分。ギラッと引き抜き……己が腹に当てますと……
ぶすっ!
デデン、デンデン! デデン、デンデンデン!
……と、そこへ飛び込んできました大星由良之介! 隅のほうでバッとうずくまって頭を下げる。
すぐに殿様に駆け寄りたいが、検死の役人の方が偉いから許可なく近づいてはいけないわけです。封建時代はツライですなあ。
けれど検死の役人、石堂右馬之丞って人は情けがあったから、声を張り上げて
「城代家老・大星由良之介とはそのほうか!? 許す許す! 近う近う、近うッ!」
「ははぁーっ!」
ってことで由良之介は頭を上げましたが……。
………………………………………………………………。
「…………」
「許す! 近う!」
石堂がいくら許しても、由良之介は不満そうな顔でそこに座ったままで、近くに来ません。
「?」
「…………」
「近う! ……?」
しかし、段蔵の由良之介はいつまでも近くに寄らず、ついにはそこに座ったままでセリフを語りだしました。
困ったのは判官を演じる淀五郎です。こういうアドリブには慣れてません。
「(ど、どうしんだ一体……由良之介が近くに来てくんなきゃ、こっちが芝居できないじゃないか……ほら、お客さんだってざわざわざわって……)」
そしてはたと気がつきました。
「(そうか……三河屋は、俺の切腹の演技が気に入らねえんだ! だから意地悪して、こっちに来ないんだな!!)」
もう判官が「ああっ、待ちかねた!」なんて名セリフを吐いたってぜんぜん格好つきません。淀五郎は半泣きになってしまい。
「(ううっ……こんなことなら名題になんかなるんじゃなかった。わざわざ恥をかくために出てきたようなもんだ……)」
さて、その日の芝居が終わりまして。
「ありがとうございました」「ありがとうございました」
楽屋に挨拶の声が連呼します。
淀五郎も、意気消沈しながら、楽屋で化粧を落としていた段蔵に挨拶に来ました。すると段蔵、白い襦袢姿で胸をはだけたまま
「おう。どうしたい、判官さん。……やりにくかったかい?」
淀五郎は泣きそうな顔を上げまして、一生懸命に息を整えます。
「ちょっ……ちょっとお伺いしたいことがありまして……」
「なんでえ?」
「えーと、稽古のときは、えーと、由良之介さんは、判官のそばへ来ましたが、えーと、今日はそばへ来ませんでしたが、えーと、あれは、えーと、えーと、あれは別な方なのでしょうか?」
上下の厳しい体育会系の世界では、後輩が先輩に質問すること自体が失礼でして、どうしてもそれが必要なときも失礼を最小限にできるよう最大限に気を使わなければなりませんでした。「なんであんなことを?」なんてストレートには尋いちゃいけないわけです。
「別な方じゃねえよ。由良之介は、判官のそばへ行くのが当たり前なんだよ」
段蔵は背中を向け、化粧おとしを続けました。
「いいか、紀伊国屋。由良之介はな。瀬戸内の播州赤穂から、主君が切腹するって聞いて、早馬を飛ばして東海道を、夜に日を継いで、そりゃあ必死の思いで駆けつけてきたんだ。何があっても主君の死に目に会いたいと思うから、疲れた体に鞭打って鎌倉のお屋敷に伺候した。そして出迎えの者に
『殿は!?』
「と尋ねたら、
『今、お腹を召されたところにございます』
「忠義無類の侍がそんなことを聞いたんだ、『アーーッ!』と驚いて、あわててお庭に飛び込んだ。それがあの、幕から由良之介が出てきたところなんだよ。由良之介は早馬に乗ってきて、着物は埃まみれ、髪も乱れてる。そんな姿で検死の役人の前へ出ては失礼、家老が醜態をさらしては殿にも恥。……ってことで、すぐにも駆け寄りたいけれど、我慢して離れたところで土下座してるわけだ。それを、石堂右馬之丞って侍が情けを知ってるから、
『許す、近う近う!』
『ああーっ、あり難い、早く殿にお目にかかりたい、亡くなる前にご遺言も聞きたい!』
「と、顔を上げた…………するとそこに、殿がいなかったら、どうする?」
「はい?」
段蔵はそこで淀五郎を見て、
「判官の殿様じゃなく、淀五郎の若旦那が腹ぁ切ってやがったら?」
淀五郎はきょとん。
「若旦那んとこに何しに行くんだよ、由良之介がよ。由良之介はな、五万三千石の殿様んとこに行きてえんだ。若旦那に用なんかねえ。だから行かなかったんだよ」
「…………」
つまり、殿様らしい貫禄のある腹の切り方をしていない、ということでしょう。
「では……」
「んん?」
「どのように切ったら、よろしいでしょうか?」
「…………」
伝統芸能の世界でこういう質問は許されません。技は見て盗むもの。ですからこういう質問が芸人の口から出るのは、もう相当に追い詰められてる。悲鳴と言っても過言ではありません。
「……本当に切れよ」
「は?」
「本当に腹、切るんだよ」
「でも……本当に切ったら死んじまいますけど?」
「……死ななきゃダメだ、お前は」
段蔵は冷たく言い放つと、また後ろを向いてしまいました。
さて淀五郎。ショックを受けまして、ふらふらと家へ帰ります。食欲が出ずに晩メシもろくに食うことが出来ず、布団を被ってしまいました。
とにかく明日こそは何とかしなければ、明日こそは……。
翌日。徹夜で考えた工夫で、どうだッ、とばかりに腹を切って見せますが、やはり段蔵の由良之介はそばへ来ない。
三日目もまたダメ。
ありますね、こういうこと。なんかの偶然で運良くいきなり出世したけれど、環境の変化に適応できなくて、早々と挫折してしまう。
仲間内では実力のあるほうで褒められ慣れてきたアマチュアが、スカウトの目に止まってちょっとプロの仕事をしたりしますと……お客さんてのは基本、無責任ですし、先輩ってのは情け容赦ない上に下手したら将来は商売敵ですから、そりゃもう心臓が潰れそうなほどの悪口を言ってきます。どんだけ苦心惨憺、努力を重ねていようと関係ありゃしません。ちょっとでも不満を感じれば、本人の存在価値を否定して「生きてる価値なし、とっとと死ねや」くらいの罵倒を叩きつけてくるもので。
まあ、そこで潰れるようならそいつはそこまで。何とか奮起して見返してやれるようなやつだけが生き残る……と、どこの世界も厳しいものでありますなあ。
淀五郎、ぼっちゃん育ちの若旦那ながらも、そういうことを、ま、頭でくらいはわかってますから、二日目、そして三日目とがんばってみたんですが……やっぱりダメで。
もう江戸の町ではこの奇妙な舞台が噂になっちゃいました。芝居を見てない人まで紀伊国屋淀五郎の名前を、大根役者の代名詞みたいに嘲笑しはじめました。今ならさしずめ、ネットかツィッターで「学芸会杉」とか「逝ってよし」とか書きまくられ、個人の電話番号を晒され経歴や出身の捏造までされて馬鹿にされまくってるような感じでしょうか。ホントひどかったよなぁ、あれは……。
さて三日目。淀五郎が帰った後、楽屋で段蔵も肩を落としまして
「(こりゃ、見込み違いだったかなあ?)」
とため息をひとつ。
「(ま、しかたねえか。これで潰れるような奴なら、恥でもかいて、とっとと辞めちまったほうが幸せだ)」
淀五郎は憔悴しきった顔で、くやし涙を堪えながら午後の町を彷徨しておりました。
「死ななきゃダメだ、お前は」
その言葉だけが淀五郎の頭に響きます。
「この、鮒侍めぇ!」
段蔵扮する高師直の嘲笑するセリフがそのまま、段蔵本人から淀五郎への罵倒であるかのようにも感じられました。
こういうときはどんどんマイナス思考になっていくものです。橋や土手から川面を覗き込んだことも三度四度。
でもそのたびに
「この、鮒侍めぇ!」
という言葉がどこからか聞こえてきて、ムラムラと怒りが湧き上がってきます。飛び込んだら鮒侍どころか文字通り鮒の餌になっちまう。
「(待てよ? どうせ死ぬんなら……)」
何か思うことがあったのでしょう。今でいう秋葉原あたりの橋の上から神田川の水面を眺めていた淀五郎、青い顔で唇をかみ締め、きびすを返したのでありました。
江戸時代の人々の朝は早く、夜明け前にはもうごそごそ動き始めます。日が昇って明るくなる5時・6時には仕事が始まりまして、今でいう午後の2時・3時ってところでおしまい。あとは日が沈むまで、湯屋へ行くなり一杯ひっかけるなり、まぁ社交の時間でございます。何しろ電灯なんて便利なものはございませんし、行灯の油もふんだんに使えるのは金持ちだけ。だから生活サイクルが現代と3~4時間ズレとったわけです。
ってことですから、今でいうと午後4時ごろでしょうかね?
淀五郎は、思いつめた顔で住吉町のとある家の勝手口にあらわれました。
「ごめんください」
「はーい……って、あらや~だ、『紀伊国屋の旦那』じゃありませんか。ダメですよ、勝手口なんかに廻っちゃ、もう前みたいな『淀の字』じゃないんですから。玄関から堂々と入りなさいな」
気風のいいおかみさんにポンポンと言われまして、受け応えさえもろくに出来ず、ただぺこぺこと頭を下げただけで淀五郎は玄関に廻ります。
「よう、淀の字……と、もう『紀伊国屋』だったな。まあ、よく来た、上がれ上がれ」
火鉢の前に座り笑顔で招き入れたのは、中村座の境屋仲蔵。若い頃に忠臣蔵の芝居で大当たりしまして、現代にも伝説の舞台俳優としてその名が伝わっております。
四畳半の部屋で、その大先輩の前に淀五郎はちょこんと座りまして、出されたお茶には手もつけてません。
「その節にいろいろとお世話になりました」
丁寧に頭を下げました。
「なぁに、こっちも判官役者に馬の後ろ足なんか演やらせちゃってよ……まあ下積みは誰でもやるこった。あれも修行のうちと思って勘弁してくれ」
「へえ、いえ、感謝しております、たいへん勉強になりました」
などと世間話していますが、淀五郎はずっと沈んだ顔をしております。
ご存知の方もおありでしょうが、お客が着たらまずはお茶。次は菓子か漬物。漬物の場合は次にお銚子が出て、それからちょっとした肴。肴の次は本格的な食事となり、米のご飯かめん類が出たら酒はストップで、最後にまたお茶を入れ酔いを覚まして終わり、というのが、日本の家庭のおもてなしの伝統的な型であります。
出物は肴まで進んだものの、淀五郎は沈んだままで、たまに笑顔を見せても作り笑い、あきらかに目が死んでおります。
そのうち話は今の舞台のことになりました。
「噂は聞いたよ。三河屋の由良之介が、判官のそばに寄らねえんだって?」
「へえ……」
「あのオヤジ、いい役者なんだけど、たまに若いモンを苛めやがるんだよなあ」
湯飲みを片手に苦笑して見せます。
「でも、ただ苛めてんじゃねえぞ? 見込みのありそうな奴を試してるに違えねえ。おそらくお前さんもその一人だ、ここが正念場ってこったろうさ」
「へえ……」
仲蔵は明るく元気付けたつもりなんですが、淀五郎は下を向いたままで、ぜんぜん反応しません。
「俺もな、あの話を聞いて、ははあ、三河屋のオヤジめまた例の癖が出たな、って思ったんだ。……ところでお前、判官の切腹、どんな風に演ってんの? ちょっと見せてみな、そこで」
仲蔵は肴の皿をちょいと横へのけ、お盆を空にします。お盆を四宝に見立てたわけです。神様にお供えをするときに使うあの白木の膳の穴がひとつ多いやつ、のつもり。そのお盆に煙管を一本、横向きに置いた。この煙管が短刀のつもりです。
淀五郎は座り直しますと、神妙な面持ちで煙管に手を伸ばしました。
「あ、もういい」
「へ?」
「もういいよ、もうわかった。そりゃ確かにダメだ」
一を見て十を知る、と申します。経験を重ねた人の脳にはデータが蓄積されており、一部を見れば他のところもだいたいわかってしまう。仲蔵もそうだったのでしょうな。
しかし淀五郎にはわけがわかりません。
「あの……失礼ながら、どこが悪いかを教えていただけませんものでしょうか」
「……全部、悪い。一から十まで全部悪い」
淀五郎の表情が固まりました。そりゃそうです、何日も何日も一生懸命に稽古して、工夫してきたことが、ほんの一部を見ただけで「全部悪い」と完全否定されちゃったんですから。
仲蔵はお猪口の酒をくいっとあおってから、
「良いとこがありゃ、ここは良い、ここは悪い、って言ってやれるんだけどなぁ。でも良いとこがひとっつも無えから、どこが悪いって教えてやることもできねえ」
「そ、そう……ですか……」
くっ、と唇をかみ締め、肩を落とす淀五郎。
「お前、いったい誰の型で判官を演ってんの?」
「型?」
「型ってのは、今までの大勢の役者たちが血の出るような工夫をして作り上げてきたもんだろ? いくつかの試行錯誤をすっ飛ばしていきなり答えを貰える、ありがてえものだ。たしかに型を破って新しい工夫をするのも大事だが、型を知らねえんじゃどこをどう破るかも出鱈目、結果は運任せだもんな。で、お前さんは、誰の型を学んで演ってんだい?」
「誰のって……そんなこと、考えたことも」
「誰の型でもないの? 型を無しでやってんの?」
しばらくぽかんと口をあけていました仲蔵、額を叩いて大笑い。
「それじゃ、カタナシになっちゃって当たり前だ!」
ひとしきり笑ってから、肴の煮物をつつき始めました。
「お前、あちこちの劇団に出入りして、いろんな役者の稽古を見てきたんだろうが。そのときに型を憶えて、盗んだりしてないのか?」
「もっと小さな役ならやってました。でも忠臣蔵の判官の役なんて……」
「そうか、それが原因だな。自分には関係ねえ、判官みたいな大役は当分、廻ってこねえ、なんて油断してたんだろ。それがダメだったんだ。お客に仕事を見せようってからには、目に入るものは全て学んどくくらいの心がけがなきゃあな」
仲蔵は煮物のこんにゃくや里芋を頬張りながら、
「で、三河屋はなんて言ってた、お前の芝居を?」
「判官じゃなく、若旦那の淀五郎が腹ぁ切ってやがる、と」
「なるほど……さっきのは確かにそうだった、上手いこと言うぜ。で、そんだけか?」
「それから、本当に腹を切れ、本当に死ななきゃだめだ、と」
「ははは、あのオヤジらしい言い草だ」
仲蔵は苦笑してます。淀五郎はというと、下を向いて拳を握り締めました。
「お前はあれだろ、見物衆に『よっ、紀伊国屋!』とか『日本一!』とか言って欲しくて、それで格好よく腹切ろうとしてるだろ? まぁ役者なら誰でも多かれ少なかれ褒められたいもんだが、お前の場合、白鞘に手を伸ばす所作だけでもそれが表に出ちまってた。切腹する殿様の覚悟じゃなく、さあ褒めてくださいっていう役者の気持ちの方が強く出てるから、判官じゃなくて淀五郎が切腹してる、なんて言われちまったんだ」
仲蔵は煮物と杯が進みますが、淀五郎は下を向いたままです。
「で、これからどうするつもりでえ。何か工夫でもあんのかい?」
「そこです。実は……今日はお別れのご挨拶に参りました。仲蔵さんには本当にお世話になりましたんで、最後にもう一度だけ会ってお礼を言いたいと思って」
「?」
「明日……三河屋の旦那に言われたとおり、本身の短刀を持ちこんで、舞台で本当に腹ぁ切ることにしました。でも自分だけ死ぬんじゃ口惜しいから、あっちが来ないならこっちから寄って行って、刺し殺します。三河屋の旦那を殺してから、私も腹切って死のうと。そう決めました。」
仲蔵、唖然となって、思わず箸から里芋が落っこちた。
しばらく淀五郎を見つめていましたが、ようやく
「……ちょっと待てよ、おい。判官が由良之介を刺し殺す忠臣蔵なんて、そんなの聞いたことも無えよ。工夫はわかるけど、ちょっと斬新すぎねえか、そりゃあ?」
畳の上をころがる里芋をいっしょうけんめいに箸で追いかけながら、
「第一、その後はどうすんだよ? 由良之介の役者が死んじまったら、討ち入りができねえぞ?」
「それは……」
自分は死ぬから後のことは知らない、と言いたいところではありますが、お客さんあっての芝居です。お客さんはクライマックスの討ち入りを見たくて劇場に来るわけですから、役者はそれに応えてあげなきゃいけません。
また下を向いて、着物の裾を握り締めながら唇を噛んでる淀五郎に、仲蔵はお銚子を手にとって。
「そこまでの覚悟があるんなら、俺もひとつだけ教えといてやる。三河屋の言い草と同しようなもんだけどな、教え方が違うから一応聞いとけ」
「?」
「まずは一杯呑んで、気ィ落ち着けて聞けや。ほら」
「へ、へい」
お猪口を差し出す淀五郎。先輩からの酌ですから両手で受けます。
「刃物ってのはな、刺さった最初は痛くねえ。なんだかわかんねえけど体ん中に変なもんが入ってきた、ってのがまずあって。それから、冷てえ、と来る。凍るみてえな鉄の感覚だ。その次は、燃えるほど熱い! ってのがあって。痛みを感じて思わず声が出るのはその後だ。一呼吸に満たない間にそういう所作を見せる……そのくらいは知ってるか?」
「へい」
「で、だな。切腹すると血が出るだろ? 血がたくさん出ると体全体が寒くなって、肌は真っ青になる。由良之介が来たとき、判官はもう切腹してるんだから、血もだいぶ出てるわけだ。そこで、セイタイを……」
セイタイとは化粧品の一種で、青い塗料のこと。現代でも時代劇でちょんまげ頭の月代に塗ったり、やせこけた役の時など頬に塗ったりもしてます。江戸時代から使われておりました。
「あれをだな。懐に隠しておくんだ。由良之介が舞台に出てくると見物衆はみんなそっちを見てる。判官を見てる人なんかいねえから、その間にこっそり、セイタイをくすり指につけてだな。唇と、それから顔のこの辺に……つっ、つー、と。こうやって素早く塗るわけだ。お客さんにわかんねえようにな」
「へ、へい」
淀五郎、唾を飲み込みながら目を見開いて聞き入っています。
「これで、死にかけの男、一丁できあがり。わかったか」
……コロンブスの卵という言葉がありますが、秘伝の技なんてのは得てして単純なもの。まさか舞台上で化粧するとは……淀五郎には目からウロコでした。
ひとしきり講釈を終えますと、仲蔵はお猪口を手に取ります。淀五郎は素早くお銚子を手にとり、模様を相手が見られるような角度で両手で捧げ持ってお酌いたしました。
「失礼いたします」
先輩の動きに合わせて作法どおりに酒を注ぐ、この呼吸も役者の修行なわけですな。
ある漫画に、応援団の後輩が先輩に対して、ラベルが見えない状態のビール瓶を上から片手で持って、もう片手に自分のコップを持ちあぐらをかいたまま横向きに「先輩、ま、一杯」なんて言ってるシーンがありましたが。上下関係の厳しい世界でそんな失礼なこと、実際には恐ろしくてととてもできやしません。あれは逆の先輩から後輩への注ぎかたであります。体育会系の飲み会を見たことのない作者さんだったのか、でなけりゃ滑ったギャグだったのでしょうな。
とまあ、こんな調子で杯のやり取りをしながら秘伝の伝授があったあとで、またたわいも無い雑談となっていきました。
こうして技をひとつ教わった淀五郎ですが、しかし、技はどこまでも技でしかありません。「心・技・体」なんて申しますように、ものごと、技だけではせいぜい1/3しか解決いたしません。
他にも必要なものがいろいろとありまして。ひとつひとつは不充分だけど、合わせるとすばらしいもんになったりもする。
さて末吉町からの帰り道。
せっかく仲蔵に習った技だから明日はやってみようと思うけども、それだけで段蔵に納得してもらえるとは、淀五郎にも思えません。
それに、こういう古い世界では、先輩が教えるにしても体系的に隅から隅まで教えるようなことはいたしません。ヒントになりそうな断片だけ教えて、あとは自分で考えさせるのが定石。芸人は実践屋であって理論屋じゃないから、理屈だけで説明するのは困難で、だからどうしてもそういう教え方になっちゃう。あちきも、お師匠様から謎かけみたいなことを言われて二十幾年、未だに答えのわからないことがひとつあったりしますが。
ともあれ、セイタイを使った早技をヒントに、仲蔵は何を伝えようとしたのか。残念ながら、それは淀五郎にわからなかった。経験の足りなさってのはこういうときに祟ります。
家に帰って、布団に入ってからも考え続けたけれど、やはりわからない。連日のあれで疲れ切ってたので眠ってしまいましたが、明けて目がさめても、結局のところ、演技開眼は出来ませんでした。
段蔵は本当に死ねという。仲蔵は死にかけの男の外見を作れという。同なしことだと言われたけれど、どう考えてもぜんぜん違っていて、どこがどう同なしなのかさえわかりません。
「(しかたない。男が一回決めたことだ、やっぱり本当に切腹しよう。どうせ生きていてもこれからずっと馬鹿にされるだけ……ならば今日は、仲蔵さんに教わった通りやってみてから、三河屋の旦那を刺し殺して、それから三河屋に教わったとおり、本当に腹ぁ切ろう。それしか無えや。殺してやらあ!)」
覚悟を決めると、先立つ不幸を親に謝った遺書を書いて仏壇の中に隠し、淀五郎はそっと家を出ました。
さて四日目の幕が開きまして……三段目の「松の廊下」のシーン。
段蔵の演じる高師直が嘲笑いながら、淀五郎の塩谷判官を足蹴にします。
「こぉの、鮒侍!」
すると、蹴られた判官、キッ! と怒りの目を向けた。
今日は芝居でなく本当に憎しみと殺意を抱いていますから、その目からあふれ出た殺気たるや……。あまりの気迫に師直役の段蔵、驚いて思わずあとじさった。演技ではなく本当に驚いて、本気で逃げ腰になった。
そこへ、キレた判官が脇差を抜きます。
二人の気迫に当てられたのか、判官を止める梶川殿の役者も、もう必死。
「殿中でごさるッ、殿中でござるッ!!」
「武士の情け、お放しくだされーっ!!」
「ひィィィィィィッ!!」
本当に殺意を抱いて斬りかかろうとする判官と、本当に恐がって逃げようとする師直……舞台には絶叫が飛び交い、見物衆からすれば鬼気せまる迫真の修羅場でございます。
割れんばかりの拍手と歓声の中、三段目・殿中松の廊下は終わりました。
袖に引っ込んだ段蔵は、急いで衣装を変えながら思わず冷や汗、息をつく。
「(あーっ驚えた、ホントに斬られるかと思った! なんだよ淀五郎の野郎? やりゃあできるじゃねえか、実にいい判官だった! 昨日までとは段違いだ。あの調子で四段目まで続けられりゃ、ひょっとすると……)」
そして四段目。
本物の短刀を懐に忍ばせまして、白装束の判官が座ります。
「(ああ、ここが俺の最期の場所……みんなが見ている前で本当に腹ぁ切る……よ~し、思い残すことのないよう、見事に死んでやるっ!)」
そんな覚悟で演じてる……本当に腹ぁ切る気になってる人が腹切る人を演じてるんですから、本人は気づいてないけど、もう迫真なんて言葉じゃ追っつきません。
見物衆も固唾を飲む中で、
「無念! と申し伝えよ。では御検死、お見届け下され……」
右手に持ったる九寸五分、こっちは芝居の小道具ですが、これをギラッと引き抜き、己が腹に当てますと……
ぶすっ!
デデン、デンデン! デデン、デンデンデン!
そこへ飛び込んできました大星由良之介。隅のほうでバッとうずくまって頭を下げる。
淀五郎は仲蔵に教わったように、その間に素早く、指につけたセイタイを唇に塗りました。
「城代家老・大星由良之介とはそのほうか!? 許す許す、近う近う!」
「ははぁーっ!」
大量出血で死にかけてる芝居をしながら、目をつぶっていた淀五郎。
「(いよいよだな。旦那を刺し殺して、俺も……ろくでもない一生だったけど、最後には判官という大役。いい思い出になった!)」
頭の中を駆け巡る走馬灯に覚悟を固め、まさに万感胸に迫るかすれ声で息も絶え絶えにゆっくりと
「……由・良・之・介・か?」
と問えば。
「ははッ!」
……あれ? なんだか、近くから段蔵の声が聞こえたじゃありませんか。
びっくりして目をあけると、悲しそうな顔をした由良之介がすぐそばまで来ていました。
客席はシー…ンと波を打ったように静まり返り、息を殺してこちらを見つめてる多くの視線だけが感じられます。
「(……そうか! そういうことだったのかッ!!)」
淀五郎は感極まり、思わず目からボロボロと涙がこぼれてしまいまして。
ようやく来てくれた大星由良之介へ、青い唇のまま心の底から嬉しそうに泣いて
「ああーーーっ……、待・ち・かねたァーーー!!!!!」
「よっ、紀伊国屋!」
「日本一ーッ!」
<後編・終わり / 完>