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終点アプリ  作者: 憂姫


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1/1

予兆

つり革を握る佐藤の腕は、鉛のように重かった。


日付を跨いでようやく乗り込んだ最終電車。車内には、酒の匂いと、一日の戦いを終えて泥のように眠るサラリーマンたちの湿った疲労感が充満している。


佐藤はため息をつき、ポケットからスマートフォンを取り出した。


網膜を刺すような青白い光。特に用事があるわけではない。ただ、こうして光る板を眺めていなければ、そのまま意識が無の中に溶けてしまいそうだった。


「……ん? なんだこれ」


ホーム画面の端、普段は仕事用のツールをまとめているフォルダの隣に、見覚えのないアイコンが鎮座していた。


「また勝手にアップデートでもされたか。それとも、寝ぼけて広告でも踏んだか……」


佐藤は眉をひそめ、アイコンを長押しした。無駄なアプリはバッテリーを食う。即座に削除しようとしたが、指先に返ってきたのは、拒絶を示すような小刻みなバイブレーションだけだった。


[ システムエラー:このアプリを削除するには、管理者権限が必要です ]


「管理者権限? 」


苛立ちが募る。設定画面から強制終了を試みようとしたが、まるでスマホ自体がそのアプリを守っているかのように、画面がフリーズした。


数秒の沈黙の後、アプリは佐藤の操作を無視して勝手に起動した。


画面に現れたのは、あまりにも簡素な地図だった。


Googleマップのような親切なナビはない。ただ、モノクロの等高線と道が描かれた無機質な空間。


その中央に、自分の現在地を示す赤いドットが、脈動するように小さく点滅している。


そして画面下部、暗闇の中に浮かび上がる血のような赤文字で、デジタル時計が時を刻み始めた。


[ 02 : 14 : 55 ]


「あと2時間ちょっと? 何のカウントダウンだ、これ」


佐藤は鼻で笑った。新手のプロモーションか、あるいは質の悪いジョークアプリ。


『終点』という名前からして、おそらくは電車の終点、あるいは自宅までの到着時間を計算しているのだろう。そう自分に言い聞かせた。


だが、電車の窓に映る自分の顔を見た時、佐藤の心臓がわずかに跳ねた。


画面の中のカウントダウンは、正確に、1秒の狂いもなく、彼に残された何かの期限を削り取っているように見えたからだ。


ガタン、と電車が大きく揺れる。


車内アナウンスが「まもなく、終点です」と告げる。


佐藤はアプリを閉じようとしたが、電源ボタンすら反応しない。


スマホの画面は、彼がどれだけ指を滑らせても、[ 02 : 14 : 12 ]……[ 11 ]……[ 10 ]……と、冷酷なカウントを刻み続けていた。


終着駅のホームに降り立つと、夜の冷気が容赦なく佐藤の体温を奪っていった。


最終電車が吐き出した数少ない乗客たちは、申し合わせたように足早に改札へと消えていく。誰もが早く自分の城へ帰り、この冷たい深夜から逃れたいのだ。


佐藤もまた、重い足取りで歩き出した。


ポケットの中で、スマホがかすかに熱を帯びている。気になって取り出すと、画面には相変わらずあの漆黒のアプリ『終点』が開いたままだった。


[ 01 : 52 : 30 ]


「……まだ動いてるのか」


佐藤は歩きながら、画面に映るモノクロの地図を凝視した。


地図上の中央には赤いドット。彼が右足を踏み出すと、ドットもわずかに右へ動く。彼が立ち止まって自販機のコーヒーを買おうとすると、ドットもピタリとその場で停止した。


「……気持ち悪いな」


背筋に薄寒いものが走る。Googleマップよりも、どのナビアプリよりも、そのドットの動きは滑らかで正確すぎるのだ。まるで空の上から誰かが自分の頭頂部を指でなぞっているような、奇妙な感覚。


佐藤は試すように、突然歩調を速めてみた。


早歩きから、小走りへ。サラリーマンの革靴がアスファルトを叩く乾いた音が、無人の住宅街に響く。


スマホの中の赤いドットは、一切の遅延なく、佐藤の加速に追従してきた。


「じゃあ、これはどうだ」


佐藤は設定画面を呼び出し、GPS(位置情報)をオフにした。さらにダメ押しで、通信を完全に遮断する機内モードへ切り替える。


これで地図は止まるはずだ。どんなに高性能なアプリでも、衛星との通信が途絶えれば現在地は特定できない。


しかし。

「……嘘だろ」


画面の中の赤いドットは、何事もなかったかのように動き続けていた。


GPSを切っても、電波を断っても、地図上のドットは佐藤が角を曲がるたびに、その曲がり角を正確にトレースしていく。


それはもはや、デジタルな技術の範疇を超えていた。


スマホが自分の位置を知っているのではない。

このアプリが指し示す場所が、自分の居場所として決定されている。


そんな不気味な確信が、佐藤の脳裏をよぎった。


ふと、画面の隅に目をやると、カウントダウンの数字がさっきよりも早く減っているような気がした。


[ 01 : 20 : 05 ]


「家まで、あと15分……」


佐藤は震える手でスマホを握りしめた。

このカウントがゼロになった時、自分はどこにたどり着くのか。


『終点』という言葉の響きが、先ほどよりもずっと重く、不吉な意味を持って彼の心にのしかかっていた。


暗い夜道の先にある自分のマンションが、今は安全なシェルターではなく、獲物を待つ罠の入り口のように見えて仕方がなかった。


ようやく、見慣れたマンションの輪郭が見えてきた。


オレンジ色の街灯に照らされたエントランス。いつもなら安堵のため息をつく場所だが、今の佐藤にとっては、口を開けて獲物を待つ巨大な怪物の喉元のように見えた。


スマホの画面を確認する。

[ 01 : 12 : 44 ]

まだ1時間以上ある。このまま部屋に飛び込み、内側から鍵をかけ、朝が来るまで布団に潜り込んでいれば逃げ切れるはずだ。そうだ、これはただのたちの悪いゲームなのだ。


佐藤は自動ドアを抜け、無人のロビーを横切る。深夜の静寂が、自分の革靴の音を不自然なほど大きく響かせる。


エレベーターホールにたどり着き、上りボタンを押した。


「早く、早く来い……」


心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクと不快に脈打つ。


やがて、重苦しい金属音と共に扉が開いた。中には誰もいない。


佐藤は滑り込むように中に入り、自分の階である「12」のボタンを強く押し込んだ。


その時だった。

手元のスマホが、これまでにないほど激しく震えた。


あまりの振動に、佐藤は危うく端末を床に落としそうになる。慌てて画面を覗き込んだ彼は、その場に凍りついた。


[ 00 : 05 : 12 ]


「……は?」


1時間以上あったはずの数字が、一瞬にして5分へと跳ね飛んでいた。


バグか? いや、違う。


このアプリのカウントダウンは時間ではなく、対象との距離に依存しているのではないか。そんな嫌な予感が脳をよぎる。


エレベーターが上昇を始める。重力に逆らう独特の浮遊感。


それと同時に、カウントの減り方が異常に加速した。


[ 00 : 04 : 30 ]

[ 00 : 04 : 10 ]

[ 00 : 03 : 50 ]


1秒刻みではない。エレベーターが1フロア上がるごとに、数十秒単位で寿命が削られていく。

そして、佐藤は気づいてしまった。


密閉されたエレベーターの箱の中。自分以外に誰もいないはずの、わずか数平方メートルの空間。


なのに、背筋に冷たい気配がへばりついている。


空気の密度が変わった。


鼻をつく、古い土のような、あるいは湿った鉄のような、嗅ぎ慣れない臭い。


鏡張りになった背後のステンレス壁を振り返る勇気は、今の佐藤にはなかった。


(いる。後ろに、何かが乗っている)


「12」のランプが点灯し、扉が開く。佐藤は転げるように廊下へ飛び出した。


背後でエレベーターの扉が閉まる音を聞きながら、彼は狂ったように自室の鍵を探した。


「開け、頼む、開いてくれ……!」


震える手で鍵を差し込み、ドアを押し開ける。

部屋に滑り込み、すぐさまサムターンを回し、チェーンをかける。


荒い呼吸を整えながら、佐藤は再びスマホを見た。


[ 00 : 01 : 15 ]


数字は止まらない。

彼が安全な家に入ったにもかかわらず、死神の足音は確実に、佐藤のすぐそばまで迫っていた。


「はぁ、はぁ……っ、よし。大丈夫だ、これで入れるはずがない」


佐藤は玄関のドアに背中を預け、ずるずると床にへたり込む。二重ロックのボルトが噛み合うガチリという音と、ドアチェーンが鳴らすジャラリという金属音。それが今の彼にとって唯一の、そしてあまりに細い命綱だった。


ここは地上12階。ベランダ以外に侵入経路はない。そのベランダの窓も、先ほど確認して鍵を閉めたばかりだ。


佐藤は荒い息を吐きながら、リビングの明かりをすべて点けて回る。暗闇を消し去れば、恐怖も一緒に消えてくれるのではないかという、子供じみた期待。


しかし、手のひらの中のスマートフォンは、無情にも現実を突きつけてくる。


[ 00 : 00 : 58 ]


ついに、カウントは1分を切る。血のように赤い数字が、死の宣告のように明滅を繰り返している。


「何なんだよ……誰なんだよ、お前は!」


佐藤は叫んだが、返ってくるのは冷蔵庫の低い唸り音だけ。


ふと、スマホの画面に変化が現れた。モノクロの地図の上、佐藤を示す赤いドットの数センチ隣に、もう一つの点が浮かび上がったのだ。

それは、冷たく、澄んだ、青いドットだった。


「……!?」


指が震える。地図をピンチアウトして拡大する。


その青いドットは、マンションの外にいた。いや、いたというよりは、こちらに向かって移動を開始したのだ。

速度は人が歩くよりも少し速く、道路や建物の構造を完全に無視した、一直線の最短距離。


青いドットは、地図上の壁や隣のビルを透過するように突き進み、佐藤のいるマンションの敷地内へと侵入した。


「くる……」


佐藤は反射的に立ち上がり、部屋の隅にあるクローゼットへ駆け込もうとして、踏みとどまった。袋のネズミになるだけだ。


彼はキッチンから震える手で包丁を取り出し、玄関を凝視した。


モニター付きのインターホンを見る。誰も映っていない。玄関の向こう側の廊下は、静まり返っているはずだ。


だが、スマホの中の青いドットは、迷いなく建物の中へと入り込み、あろうことか垂直に上昇を始めた。


エレベーターを使っている様子はなく、それはまるで、重力に縛られない幽霊のように、あるいは地図の上を滑るインクのように、佐藤のいる12階を目指して、真下からせり上がってくる。


[ 00 : 00 : 35 ]


「来るな……来るな来るな来るな!」


佐藤は玄関から後退りし、リビングの中央で包丁を構えた。鉄壁の守り。内側から閉ざされた密室。


現代社会においてこれ以上の安全はないはずの場所が、今は逃げ場のない処刑場のように感じられた。


青いドットは、ついに12階の高さに到達した。

そして、地図上でゆっくりと、佐藤の部屋の玄関ドアの位置でピタリと止まった。


静寂。


耳が痛くなるほどの静まり返った空気の中で、佐藤は自分の荒い呼吸の音だけを聞いていた。


「……いない。誰もいないじゃないか」


インターホンのモニターは真っ暗なままだ。ドアの外の廊下にある人感センサーのライトが点いた気配もない。本来なら、誰かがドアの前に立てば、わずかな足音や衣擦れの音が聞こえるはずだ。ましてや、ここは防音性の高い分譲マンション。不審者がいればすぐにわかる。


だが、佐藤の手の中にある現実は、物理的な直感を真っ向から否定していた。


[ 00 : 00 : 25 ]


地図上の青いドットが、再び動き出した。それは玄関のドアという境界線を、まるで水面に指を沈めるかのように、何の抵抗もなく透過した。


「嘘だ……。入って、きてる……?」


佐藤は包丁を構えたまま、じりじりとリビングの奥へ後退りした。目の前の空間には、何もない。


磨き上げられたフローリング、見慣れたソファ、テレビの黒い画面。そこには自分以外、誰も、何者も存在しない。


しかし、スマホの地図の中では、青いドットが着実に室内を歩んでいた。


一歩、また一歩。

その速度は、まるで獲物を追い詰める歩幅を、楽しんでいるかのようだった。


「来るな、来るな! 誰だ、どこにいる!」


佐藤は狂ったように包丁を振り回した。虚空を切り裂く金属の音だけが空虚に響く。


スマホの画面に、ノイズが走り始める。デジタルな砂嵐が地図を覆い隠そうとするが、二つのドットだけは鮮明に映し出されている。


自分を示す赤。

侵入者を示す青。


青いドットはリビングの入り口を通り、ダイニングテーブルの脇を抜け、今、佐藤の数メートル先まで到達した。


[ 00 : 00 : 15 ]


不意に部屋の温度が急激に下がり、吐き出す息が冬の街頭のように白く染まる。エアコンは止まっているはずなのに、足元から這い上がってくるような刺すような冷気。


そして、スマホが再び震えた。


地図画面に、血のような一筋の線が引かれる。

青いドットから伸びたその線は、佐藤の赤いドットをターゲットとしてロックオンしたかのようだった。


「……あ」


佐藤は気づいてしまった。青いドットは、単に部屋に入ってきたのではない。


この部屋の物理的な座標ではなく、自分という存在の座標を追ってきているのだ。


逃げ場は、もうない。地図の上では青いドットが佐藤の目の前まで来ている。だが、佐藤の瞳が映し出すリビングには、相変わらず冷たい空気と静寂が広がっているだけだった。


[ 00 : 00 : 10 ]


カウントダウンが、最後の10秒を刻み始める。

佐藤は震える手でスマホを掲げ、目の前の空間を撮影するように構えた。


肉眼では見えない何かが、その液晶画面越しなら見えるのではないか。そんな、すがるような思いだった。


画面に映る、自分のリビング。

その中心に、一瞬だけ、歪んだ影が走る。


[ 00 : 00 : 09 ]


スマホを構える佐藤の指先が、痙攣するように震える。画面越しのリビングは、相変わらず静まり返っている。だが、液晶の中を泳ぐノイズは一層激しさを増し、まるで現実の皮を剥ぎ取ろうとしているかのようだった。


[ 00 : 00 : 07 ]


地図上の青いドットが、赤いドットに接触した。否、接触ではない。それは佐藤の赤いドットを飲み込むように、ゆっくりと、確実に同化し始めていた。


「来るな……! どこだ、どこにいるんだよ!!」


佐藤は包丁を滅茶苦茶に振り回した。目の前の空気、ソファのクッション、テレビの画面。何かに当たってくれ。実体があってくれ。


だが、刃先が捉えるのは虚しい手応えだけだ。


[ 00 : 00 : 05 ]


不意に、スマホの画面に映る地図が、佐藤の背後の視点に切り替わった。


まるで誰かが佐藤の肩越しに、スマホを覗き込んでいるかのようなアングル。


そこには、自分を示す赤い点の真後ろに、ピタリと重なり合う青い点があった。


「え……?」


佐藤の思考が停止する。階下から来たのではない。扉を破ったのでもない。


それは最初から、自分という存在のすぐ後ろを歩いていたのだ。


[ 00 : 00 : 03 ]


首筋に、氷のような冷たさが触れた。それは指の感触ですらなかった。ただの凍てつくような無が、じわりと皮膚を侵食していく感覚。


それと同時に、耳元でカサリと音がした。古びた紙を丸めるような、乾いた、それでいて粘り気のある、笑い声。


[ 00 : 00 : 02 ]


佐藤は恐る恐る、スマホの画面を鏡のように自分の顔の方へ向けた。真っ暗な画面に映り込んだのは、恐怖で引き攣った自分の顔。


そして、その右肩越しに。暗闇の中からせり出した、青白く、不自然に口角の吊り上がった何かの顔だった。


[ 00 : 00 : 01 ]


画面が、網膜を焼くような鮮烈な赤に染まり、文字が浮かび上がる。


『終点に到着しました。お疲れ様でした。』


「あ――」


声にならない悲鳴を上げた瞬間、佐藤の視界は漆黒に塗りつぶされた。包丁がフローリングに落ち、乾いた金属音を響かせる。


しかし、その音を聞く者は、もうその部屋には誰もいなかった。


[ 00 : 00 : 00 ]


翌朝、静まり返った部屋。二重ロックも、チェーンも、窓の鍵も、すべてが完璧に閉ざされたまま。


ただ一つ、床に落ちたスマホの画面だけが、奇妙な熱を持って再起動を始めていた。そこには、新しい名前が表示されている。


佐藤の連絡先のリスト、その一番上にあった名前。


「高橋」


地図上の青いドットが、新たな獲物を指してゆっくりと動き出した。


高橋さん逃げて!!

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