『この令嬢は猫ですか、パンですか、それとも悪役ですか 』 ―見たものだけを信じた者たちの断罪―
この物語は、「見えたものを信じる」という行為そのものを、否定しません。人は暗い路地で鳴き声を聞けば猫だと思うし、白い塊を見ればパンだと思う。判断は、生きるために必要です。誤認は、誰にでも起こります。
けれど誤認のあと、私たちは何をするでしょう。
確かめるのか。問い直すのか。あるいは、最初に抱いた結論を守るために、理由を後付けしていくのか。
この短編は、後者の世界を描きます。
「猫かと思ったがパン、しかも一斤」――そんな滑稽さを笑いながら、私たちはいつのまにか、笑いの矛先を“人”に向けてしまう。そこから先は早い。猫は呪いになり、パンは罪になり、罪は断罪の口実になる。見たものだけを信じた者たちが、最も安心できる形を欲しがったとき、悪役は必要物になります。
では、悪役とは誰のことなのか。
悪役と呼ばれた者が悪いのか。
それとも、悪役を必要とした者たちが悪いのか。
この物語では、答えを一つに定めません。代わりに、問いだけを残します。
あなたが「最後の希望」だと認識しているものが、実は絶望かもしれない。
あなたが「孤独」だと認識しているものが、実はあたたかな午後の陽射しかもしれない。
見たものを信じるのは簡単です。
見なかったものを想像するのは、少しだけ難しい。
だからこそ、この一斤分の時間だけ、いっしょに確かめてみてください。
王都の冬は、噂が先に降る。雪より軽く、氷より刺さる。
それは火種ではなく、火の形をした“安心”だった。誰かが悪い、と決めるだけで胸の奥がほどける。複雑な事情も、数の足りない薬も、冷え切った配給所も、いったん忘れられる。
忘れた代償は、いつも別の誰かが払う。だがそれを見ないままでも、日々は回る。
リゼット・ヴァルグランが「悪役令嬢」と呼ばれるようになったのは、何かを壊したからではない。壊したことにされる物語が、先に完成してしまったからだ。
“高慢で冷酷。慈善を嫌い、平民を踏みつけ、王太子の婚約者の座を盾に好き放題する女。”
誰も、その物語の裏面を見ようとしなかった。見ようとしないことが楽だった。信じることより、決めつけることのほうが、群れには都合がいい。
そして冬のある日、噂は新しい衣装を着て王都を歩き回った。
――ヴァルグラン嬢は、猫を剥いで食べたらしい。
――いや、猫に見せかけた呪いのパンを抱いていた。
――いやいや、彼女は「猫でもパンでもない」何かを隠している。
言い方は違っても、結論は同じだった。
「彼女は異常だ」
「だから断罪されるべきだ」
事件の始まりは、あまりにも小さい。
裏通りの倉庫街。冬の夕暮れ。荷車の轍に泥が溜まり、冷えた空気が喉を刺す。
リゼットは一人で、外套の襟を立てて歩いていた。侍女も護衛も付けていない。そんなことをすればまた噂になると分かっていても、彼女には“今夜だけは”譲れない理由があった。
理由は、帳簿だった。
彼女の机には二種類の帳簿がある。ひとつは貴族として“見せるべき”帳簿。もうひとつは、見せれば潰される帳簿。
施療院への物資の流れ――薬剤、毛布、干し肉、小麦。そこに不自然な欠損が出始めた。欠損は“補助金遅延”という言葉で片づけられ、誰も問いを立てない。だが現場は遅延ではない。欠落だった。
欠落が続けば、冬は死者を増やす。
その数字だけは、貴族の都合では動かない。
今夜、北門の詰所を通るはずの荷車が止められている、という報せが入った。伝令の手紙は途中で消えた。代わりに、施療院の若い医師が、口を利ける裏の運び屋を通じて「合図」を送ると言った。
合図は、目立たない形で。誰の目にも「ただの偶然」に見える形で。
リゼットはその合図の場所に向かっていた。
曲がり角で、微かな鳴き声がした。
……猫だ、と彼女は思った。細い声で、助けを求めるような。
路地の隅に紙袋が落ちていた。袋の口が少し開いていて、何か白いものがのぞいている。
リゼットは膝をつき、袋の縁をそっと持ち上げた。
白い。丸い。柔らかそうで、少し温かい――気がした。
その温かさに、胸の奥がひゅっと締まる。冬の王都で、温かいものはそれだけで罪になりうる。奪う者がいるからだ。
「……猫、ではないわね」
袋の中に入っていたのは、白い食パンだった。しかも一斤。端はきれいに揃い、焼き色は淡く、売り物として上等な部類だ。
それなのに、なぜこんな場所に。
リゼットは周囲を見回した。人影はない。だが背中の奥がざわついた。
空腹の季節に、上等なパンが捨てられるはずがない。
彼女がパンを手に取ると、袋の底に、折り畳まれた紙片が貼り付いていた。蝋が押され、簡素な封がある。
封蝋の紋は見覚えがあった。王都の施療院――貧民のための診療所の紋章だ。
「……どういうこと」
紙片を開けば、短い文。急いで書いたように震える字。
――今夜、北門。運搬を止められています。
――“上”が動きました。
――見つかれば、皆が終わります。
――合図は一斤。受け取ったら、あなたの判断で。
喉が硬くなる。
終わる、という言葉の重みを彼女は知っていた。飢えた子どもが終わる。薬が尽きた老人が終わる。仕事を奪われた母親が終わる。
そして、それを見捨てた貴族が、何事もなかったように宴会を続ける。
これは食べ物ではない。合図だ。
“止められている”のはパンではない。薬と、毛布と、配給の小麦だ。
その瞬間、背後から声がした。
「おい、そこのお嬢さん」
低い、荒い声。路地の出口に、男が立っていた。外套の下から覗く腰のあたりが妙に重そうだった。
王都の裏を仕切る連中――そういう匂いがする。人を道具として扱う匂い。
男は目を細め、リゼットの腕の中を見た。
「猫、拾ったのかと思ったら……パンか」
笑いが混じる。だが目は笑っていない。
リゼットは立ち上がり、平静を装った。
「落ちていたので。捨てておくのは忍びませんから」
「へえ。貴族様が慈悲深い。しかも一斤だ」
男は一歩近づき、声を落とした。
「それ、どこで手に入れた。……いや、誰に頼まれた」
リゼットは言葉を選んだ。ここで真実を言えば、施療院の人間が潰される。
嘘をつけば、彼女の名にまた新しい罪が貼られる。
視線が絡み、空気が固まる。
そのとき、遠くで鐘が鳴った。北門のほうだ。運搬の合図の鐘。止められているなら鳴らないはずの鐘。
一度、二度、短く。切迫した音。
男の表情が変わった。苛立ちと焦り。
そして、その焦りは“捕まえるべき標的”を必要とする。
「……ちょうどいい。貴族様がここにいるのは都合がいい」
男は背後に向けて短く合図した。闇から二人、三人と影が現れる。
リゼットは理解した。これは偶然ではない。鐘も、パンも、封も――誰かが仕組んだ。
「そのパン、こっちに渡してもらおう。怪しいもんは全部、預かる決まりでな」
「誰の決まりですか」
「王都の決まりだよ」
嘘だ、と断定できる。だが、嘘は“言い切ったほう”が勝つ。
彼女が反論すれば、男たちはそれを“抵抗”にできる。抵抗は暴力の口実になる。
リゼットは一歩退いた。背中に冷気。
そして気づく。路地の反対側――逃げ道にも影が立っている。袋小路に誘い込まれた。
男が、優しく諭すように言った。
「なあ、お嬢さん。貴族様が一斤抱えて裏通りにいるなんて、変だろ。変なら、理由がある。理由があるなら、罪がある。俺たちも仕事なんだよ」
それは理屈の形をした脅迫だった。
理屈は、正しいことを言うための道具ではない。相手を動かすための道具になる。
リゼットはパンを抱き直した。
その動きだけは、譲れない。これを奪われれば、施療院の動線が潰される。合図が途切れれば、現場は沈黙を強いられる。
男が手を伸ばす。
同時に、別の声が割って入った。
「そのお嬢さん、手を出すと面倒だぞ」
路地の奥から、外套を羽織った青年が現れた。背は高く、顔立ちは薄いが目が冷静だった。
平民の服装だが、姿勢と声に“教育”がある。裏の人間ではない。
男が舌打ちした。
「誰だ、てめえ」
青年は肩をすくめ、淡々と言った。
「ただの通りすがりだ。だが、そのパンに手を出すと、北門の鐘の件と繋がる。繋がると困る人間がいる。困る人間は、君の首を平気で切る」
脅し返しではない。事実を述べる口調だった。
男の目が揺れる。裏の人間は、事実に敏感だ。嘘よりも、現実の危険を恐れる。
青年はリゼットに視線を移し、低く言った。
「今、走れ。北門へ。ここは俺が止める」
「あなたは――」
名を問う時間がない。
リゼットは一瞬だけ迷い、迷いを捨てた。迷っている間に、現場が死ぬ。
彼女は外套の裾を掴み、路地を駆けた。
背後で男の怒声が上がり、何かがぶつかる音がした。
だが振り返らない。振り返れば、噂の形が一つ増えるだけだ。
北門の詰所は、普段なら眠い空気が漂う。荷車の検査は形式的で、役人は手を抜く。冬の夜は冷え、仕事は面倒だ。
だが今夜は違った。灯りが多い。兵が多い。誰かが“真面目な顔”をしている。
リゼットは遠目に詰所を見て、足を止めた。
正面から近づけば捕まる。捕まれば、施療院の荷車は永遠に通らない。
彼女は脇道に回り、塀伝いに近づいた。
詰所の裏手に、施療院の荷車が止まっている。覆い布の下に箱。いつもより多い。薬だけではない。毛布も、小麦も入っているはずだ。
そして荷車の脇に、若い医師がいた。顔色が悪い。手が小さく震えている。
彼がリゼットを見つけると、安堵より先に恐怖が浮かんだ。
“来てしまった”という恐怖。来たからこそ、彼女を巻き込んでしまった恐怖。
医師は声を殺して言った。
「嬢……っ、来てはいけません。ここは……」
「止められているのね」
「止められています。命令書が来ました。王家の印章付きで。逆らえば、施療院そのものが潰れます」
「その命令書、見せて」
医師は躊躇し、それでも懐から紙を出した。
リゼットが目を落とす。印章は確かに王家のものに見える。だが紙質が粗い。文字の癖が、役所の書式と違う。
「偽造ね」
医師が息を呑む。
「でも……私たちはそれを証明できません。証明しようとした瞬間に、役所が“施療院を査察”と言い出す。査察が入れば、帳簿の穴を理由に閉鎖されます。穴は、私たちが作ったのではないのに」
穴。
欠落。
物資は途中で消える。帳簿は“それらしい理由”で埋められる。
誰かが、現場が抵抗できない形で絞り取っている。
詰所の正面で声がした。役人の怒鳴り声。兵の笑い声。
彼らは今夜、“正しい仕事”をしている自分たちに酔っている。
リゼットは低く言った。
「あなたがここで止められている間に、施療院には誰がいる?」
「看護師が数人と……子どもが十数人、寝ています。熱の子も」
「なら、荷車の中身を全部ここで奪われたら、終わるわね」
医師の目が揺れる。
終わる、という言葉は現場に現実の重みで落ちる。理念ではない。命の数だ。
リゼットは袋に入っていた封書を見せた。
医師は封蝋を見て顔を歪める。
「私の封蝋です……。なぜ、あなたが……」
「拾った。合図として置いたのは、あなた?」
医師は首を振った。
「私ではありません。私は誰にも頼んでいない。……頼めないんです。誰が味方か分からない。だから、私は封蝋だけを使って、“助けを求めたように見えるもの”を作るつもりでした。でも、その前に封蝋が盗まれた。施療院の封蝋は、鍵のかかった引き出しに……」
鍵のかかった引き出しから盗める者がいる。
内部。あるいは内部を脅せる者。
リゼットは視線を上げ、詰所を見た。
詰所の裏手にいる彼らは、今まさに“猫かパンか”の小さな誤認に誘導されている。目立つ合図を置き、噂の形にし、貴族令嬢を呼び出し、捕まえる。捕まえれば、施療院の動線は切れる。
切れた先で、誰が得をするか。
遠くで犬が吠えた。
兵が「うるせえな」と笑い、石を投げる音がした。
その瞬間、リゼットの中で、これまでの噂が一列に並ぶ。
“高慢で冷酷”
“慈善を嫌う”
“平民を踏みつける”
それらは、ただの悪口ではなく、彼女を動かしやすくするためのレールだった。
人々は最初から結論を欲している。
悪役令嬢が悪役であることを、証明したいのだ。
リゼットは医師に言った。
「荷車を、ここから動かす。正面ではなく、裏手から。詰所の兵は、今夜の“仕事”を失いたくない。正面で騒げば、あなた方が潰される。だから、静かに抜く」
医師が唇を噛む。
「そんなことを……。見つかれば」
「見つからない形にする」
形。
結局、形だ。
人は形しか見ない。なら、形を利用する。
リゼットは詰所の裏に回り、塀の陰で息を整えた。
塀の向こうに小さな水路がある。水は薄く凍り、ところどころに黒い殻が張り付いている。
川の貝――タニシだ。
冬でも生きる、鈍い生き物。
誰かが「寄生虫」と呼ぶかもしれない。だがそれはただ生きているだけだ。
生きているだけで、嫌われる。
悪役という役目は、それに似ている。
リゼットは塀の上に手をかけ、医師と二人で荷車の縄をほどいた。
覆い布を少しだけずらし、箱の角を確認する。薬箱の印。毛布の印。小麦袋の印。
これらは現場の命だ。これを奪う者が、正義の顔をしている。
彼女は医師に囁いた。
「あなたはここに残って。私が囮になる」
「無理です。あなたが捕まったら、終わる」
「捕まらない。捕まる“形”を作らせない」
そう言って、彼女は外套の前を開き、袖の内側から小さな札束のようなものを取り出した。
それは金ではない。紙片。役所の形式の写し。監査局で使われる“確認票”の偽造――ではなく、本物に近い形式のメモだ。
彼女が帳簿と共に集めた“抜け道”だった。
貴族は権力を持つ。だが貴族の権力は書類で動く。書類の匂いを、下の者は恐れる。
リゼットは詰所の正面へ歩き出した。
荷車の影から出て、兵の前に姿を晒す。
自分から見せる。見せた瞬間に、相手は“見たもの”に縛られる。
兵が驚き、次に顔を歪めた。
「ヴァルグラン嬢……? なんでここに」
「監査局の確認で来ました」
リゼットは淡々と言い、紙片を見せた。兵が読めるはずがない。だが、形式だけで十分だ。
兵は不安になる。不安になれば、上官を呼ぶ。
上官が出てきた。詰所の責任者。
責任者は「貴族令嬢が夜に来る」という異常さに緊張し、同時に「この令嬢は悪役」という噂を思い出し、顔を硬くする。
「あなたが、監査局? そんな話は聞いていない」
「あなたが聞いているかどうかは問題ではありません。監査は“聞かせるもの”ではない」
リゼットはわざと冷たく言った。
冷たく言えば噂に合致する。合致すれば相手は納得する。納得すれば、疑問を止める。
彼らは彼女を“悪役”として処理したい。なら、悪役らしく振る舞えば、思考が止まる。
「施療院の荷車が止められています。命令書を見せて」
責任者は命令書を出した。
リゼットは目を落とし、紙質と筆跡を確認し、そして短く言った。
「偽造です」
責任者が顔を赤くする。
「何を……王家の印章が――」
「印章は真似できます。書式は真似にくい。あなたは書式が分かりませんね。だから印章しか見ない。印章だけを見て“正しい”と決めた。……その態度が、現場を殺す」
責任者は言い返そうとして、言い返せない。
彼は書式が分からない。分からないと言うのは恥だ。恥は怒りになる。怒りはさらに無知を隠す。
「あなたはここで余計なことを言うな。私は命令に従っているだけだ」
「命令に従っているだけで、人は死にます」
その瞬間、責任者の背後で、誰かが小さく笑った。
詰所の奥から、よそ者の役人が出てきた。制服は同じだが、布が良い。顔が脂ぎっている。
彼はリゼットを値踏みするように見た。
「へえ。悪役令嬢が監査局ごっこか。面白い」
責任者がへつらう。
「こちらは……」
「知ってるよ。黙ってていい」
よそ者は、ゆっくりと口を開いた。
「あなたがここにいるということは、あの荷車を通したいということだろう。通したいなら、筋がある。筋があるなら……代金だ」
露骨だった。
彼はもう隠さない。隠す必要がないと思っている。
なぜなら、彼の背後に“上”がいるからだ。
リゼットは静かに言った。
「あなたは誰です」
「ただの役人だよ。だが、王都には猫もパンもいる。似てるけど違う。見分けないと食われる」
彼は笑い、さらに言う。
「あなたは猫か? パンか? それとも……寄生虫か?」
最後の言葉が、冬の空気より冷たかった。
寄生虫。タニシ。
社会にへばりつき、吸い取る存在。
悪役令嬢に貼られがちなレッテルの最終形。
リゼットは、その言葉を拒否しなかった。拒否すれば議論になる。議論は相手の土俵だ。
彼女は代わりに、問いを返した。
「寄生虫は誰です。荷車を止めて、物資を横領し、闇に流す者ですか。現場にへばりつき、命を吸う者ですか」
よそ者の目が細くなる。
彼は“言葉”で勝てると思っていた。だが、リゼットは言葉で戦わない。構造を提示してくる。
構造は、証拠に繋がる。
「証拠はあるのか」
「あります。帳簿に穴がある。穴の形が、あなた方の動きと一致する。……そして今夜、私をここへ呼び出した合図がある」
リゼットは抱えていた紙袋を持ち上げた。中身は空だ。パンはすでに医師に渡した。
だが紙袋の形だけが、彼らの目に刺さる。
よそ者は鼻で笑う。
「紙袋? 猫でも入ってたのか?」
「猫に見えたなら猫。パンに見えたならパン。あなたが見たいものが入っていたのでしょう」
その一言で、周囲の兵の顔が強張る。
彼らは今、見ている。
貴族令嬢が、詰所の前で、上等な口を利き、役人を追い詰めている。
この“形”は、噂の形と違う。
噂では、悪役令嬢は平民を踏みつける。
だが今見えているのは、悪役令嬢が役人を踏みつけている。
踏みつける対象が変わると、彼らの心は揺れる。噂は、対象が合わないと不安定になる。
よそ者が苛立った。
「調子に乗るな。ここは――」
その言葉が終わる前に、北門の鐘が鳴った。
今度は詰所の鐘ではない。門の外から聞こえる、別の鐘。
そして石畳を叩く車輪の音が近づいてくる。
監査局の馬車だ。
本物の監査局が動いた。
リゼットの胸の奥が一瞬だけ熱くなる。
誰かが、どこかで、帳簿の穴を“穴として”見た。
見たものだけを信じない誰かが、動いてくれた。
よそ者の役人の顔が引きつる。
「……馬鹿な。今夜は――」
言いかけて、口を噤む。
“今夜は”と言った瞬間に、彼自身が計画を知っていることになるからだ。
監査局の係官が降り立ち、短く命じた。
「詰所の責任者、命令書の提出。施療院荷車の停止の根拠。関係者全員、身分証の提示」
係官の声は低い。余計な言葉がない。
その声だけで、兵たちの姿勢が変わる。
書類の匂いは、本物だ。
よそ者は一歩退く。
退いた瞬間、兵の一人が彼の腕を掴んだ。兵自身も分かっていない。ただ“形”に従った。
監査局が来た。なら拘束する。
形が変われば、人は簡単に動く。
リゼットは医師のほうを見た。
塀の陰で、荷車が静かに動き出している。
今夜の物資は通る。少なくとも、今夜の命は守れる。
翌朝、王都は沸いた。
「ヴァルグラン嬢、裏通りで密会」
「北門詰所で騒動、監査局出動」
「猫を拾ったと見せかけ、禁制品の取引」
「しかも腕に抱えていたのは“猫に見える呪いのパン”」
猫に見える呪いのパン、という馬鹿げた言い回しが、なぜか一番広まった。
馬鹿げているからだ。人々は馬鹿げた噂を好む。笑いながら信じられるから。
笑えば、責任が薄まる。薄まれば、残酷になれる。
宮廷ではさらに上品な言い方に加工された。
「彼女は貧民街に“魔性”を撒いている」
「施療院を私物化し、王家の慈善を横取りしている」
「北門で役人を脅し、荷車を強引に通したという証言がある」
証言。――誰の? と問う者はいない。
問えば、噂の輪から弾かれる。だから誰も問わない。
その夜、リゼットは召喚状を受け取った。
王太子主催の“糾問”――実質の断罪裁判。
侍女が震える声で言った。
皆があなたを見ています、と。
見られることは名誉だと教え込まれてきたのに、今はそれが刑罰に聞こえる。
リゼットは静かに言った。
「見ているのは、私ではないわ。自分たちの安心よ」
侍女は意味を理解できず、ただ唇を噛んだ。
広間には、彼女が嫌いな者たちが揃っていた。
いや、正確には“彼女を嫌うことに価値を見出す者たち”が揃っていた。
王太子アドリアンは、輝くような正義の顔をしていた。
そして彼の隣には、庶民出の令嬢セシルがいる。慈愛の象徴として持ち上げられ、彼女自身もその役割を受け入れている。
リゼットは一礼し、中央に立った。
視線が刺さる。視線は刃物より痛い。刃物は肉を裂くだけだが、視線は物語を裂き、勝手に縫い合わせる。
アドリアンが口を開いた。
「リゼット・ヴァルグラン。君は昨夜、貧民街および北門詰所にて不審な行動をとった。説明してもらおう」
静かな声。だが最初から結論を含んでいる。
リゼットは平静を保った。
「不審とは、どの点でしょう」
「猫を抱えていたという証言がある。いや、猫に見せかけたものだとも。……それは禁制品か、呪具か、あるいは貧民を惑わす餌だ。君は施療院と繋がりが深い。施療院を使って何を企んでいる」
セシルが柔らかい声で続ける。
「リゼット様。もし困窮する方々を助けたいのなら、正規の手続きを踏めばいいのです。夜にこっそり動くから、皆が不安になるのです」
“不安”。その言葉が便利だった。
不安だから断罪する。
不安だから排除する。
不安だから、見ない。
リゼットは一呼吸置いた。
真実を言っても信じられないなら、言葉はただの餌になる。
だから彼女は、言葉ではなく、順序を示すことにした。
「昨夜、私が抱えていたのはパンです。一斤の食パン。猫ではありません」
広間がざわついた。
笑いが漏れる。嘲りの笑いだ。
「ほら、やはり。猫に見せかけたのだ」
「パン? 貴族の娘が? しかも一斤?」
「嘘にしても雑だな」
リゼットは淡々と続けた。
「そのパンには施療院の封蝋がありました。北門で運搬が止められているという報せです。私は北門へ行き、監査局の係官が到着するまでの間、現場を混乱させないように対処しました」
アドリアンの表情がわずかに固まる。
凍った水面にひびが入る程度の変化。
それでも、彼の背後に立つ者たちの空気が変わる。
一人の貴族が立ち上がった。リゼットの父の政敵だ。
「封蝋など捏造できる。施療院の紋章は簡単だ。君は昔から、目立つ慈善を演出して自分を飾ってきた。今も同じだ。貧民を使い、王家を貶め、自分を英雄にするつもりだろう」
英雄、という言葉が広間の反感を煽る。
貴族社会において、英雄は危険だ。特に、女が英雄になるのはなおさら。
女は“優しく支える”役割であるべきで、前に出るのは不敬だとされる。
セシルが小さく首を振り、悲しそうに言った。
「リゼット様……。誰もあなたが英雄になってほしいなんて望んでいません。皆、ただ、穏やかに暮らしたいだけです」
穏やか。
その穏やかは、誰の上に成り立っている?
施療院の列に並ぶ者の上だ。北門の荷車を押す者の上だ。凍えた手で薬瓶を洗う者の上だ。
だが、ここでその問いを投げても、答えは返らない。
彼らは見ないからだ。
アドリアンが宣言した。
「ヴァルグラン嬢。君の行動は王家の統治を乱す。施療院との不透明な関係、北門詰所での不正な介入、禁制品の疑い。……君を婚約者として置くことはできない」
そして彼は“正義の形式”を整える。
「明日、公開の場で裁きを行う」
それは裁きではない。
公開処刑の儀式だ。
皆が安心するための象徴の切り捨てだ。
リゼットは一礼し、顔を上げた。
目が乾いている。涙が出ない。
涙が出れば、彼らは“罪の告白”として消費する。
消費されるくらいなら、乾いたままのほうがいい。
広間を出る直前、リゼットはふと気配を感じた。
廊下の柱の影。昨夜の青年が立っていた。
彼は微かに頷き、短く囁いた。
「監査局の記録はある。だが公開の場では、記録より物語が勝つ」
「あなたは誰」
青年は答えず、ただ言った。
「猫を見たら猫だと思う者がいる。パンを見たらパンだと思う者がいる。……だが、見たものを疑う者もいる。その数を増やせ」
そう言って、彼は人波に紛れた。
翌日。中央広場。
壇上に立たされたリゼットは、群衆の顔を見回した。
怒り、好奇心、期待、嘲笑、そして安堵。
人々は、悪役が悪役として裁かれる光景を求めて集まっている。
司祭が罪状を読み上げる。
「貧民を惑わした罪」
「禁制品を流通させた罪」
「王家の慈善を貶めた罪」
罪はどれも曖昧だ。
だが曖昧であることが重要だった。曖昧なら誰にでも当てはまる。だから群衆は自分の正しさを感じられる。
アドリアンが声を張った。
「君は、民の不安を煽り、秩序を乱した。秩序は、弱者を守るためにある。君はそれを踏みにじった」
秩序。
秩序は確かに必要だ。だが、その秩序が誰を守り、誰を切り捨てているのかを問わなければ、秩序はただの装置になる。
セシルが涙を浮かべ、優しく言った。
「リゼット様……。今ならまだ、悔い改められます。正しい道に戻ってください」
正しい道。
道は一本ではない。だが群衆は一本の道を欲しがる。
一本なら歩かなくていい。見ているだけでいい。正義の観客でいられる。
リゼットは処刑台の端で、静かに手を握った。
爪が掌に食い込む。痛みが、まだ生きていると教える。
そのとき、広場の外側がざわついた。
荷車の音。複数。車輪が石畳を叩く乾いた音が近づいてくる。
北門の方向から、施療院の荷車が入ってきた。
布で覆われ、縄で縛られた箱が積まれている。
その荷車の前に立っているのは王城の役人――監査局の係官だった。護衛もいる。
司祭が止まる。アドリアンが眉をひそめる。
群衆の視線が一斉に荷車へ移った。
係官が壇上へ上がり、紙を掲げた。
「王家監査局より通達。昨夜から今朝にかけて、施療院運搬停止命令の偽造が確認された。命令書の印章が偽造されている。関与者は拘束。なお、停止命令を装って物資を横領し、闇市へ流す計画があった疑いが濃厚」
広場がざわめき、ざわめきはすぐに混乱へ変わる。
人々が求めていた“分かりやすい悪役”の形が崩れる。
係官は続けた。
「偽造停止命令の伝達経路の途中で、ある貴族家の使用人が封蝋と書式の受け渡しに関わっていた記録がある。現在、捜査中。さらに、北門詰所のよそ者役人が関与していた。……今朝、同人は拘束された」
貴族家。
誰の家かは言われない。だが言われなくても分かる。
今朝まで“断罪の中心”にいた者たちが、突然、視線を逸らし始めた。
アドリアンが声を張る。
「それが事実としても、ヴァルグラン嬢が裏通りにいた理由は説明されていない!」
その言葉が滑稽なほど必死に聞こえた。
彼は今、正義ではなく体面を守っている。
リゼットは静かに口を開いた。
「理由なら、言いました。封蝋のついた合図を拾い、北門へ行った。……そして私はそこで、猫でもパンでもないものを見ました」
群衆が静まる。
“猫でもパンでもないもの”。
物語好きの耳が、その言葉に反応する。
リゼットは一歩、前へ出た。群衆の前へ。
震えは消えていない。だが声は揺れなかった。
「皆さんは、私が猫を抱えていたと信じた。次に、猫に見せかけたパンだと信じた。次に、呪いの品だと信じた。……そのたびに、“確かめる”という選択肢を捨てました」
誰かが叫ぶ。「だってお前は悪役だろう!」
その叫びが、広場の空気を象徴していた。結論が先。理由は後付け。
リゼットはその叫びを見つめた。
「私は悪役であるべきですか。そうでないと困りますか。悪役がいないと、誰があなた方の不安を引き受けますか」
沈黙。
人々は問いに慣れていない。問いは鏡だからだ。
鏡は、見たくないものを映す。
群衆の中で、誰かが小さく呟いた。
「……じゃあ、悪いのは誰だ」
その問いが出た瞬間、群衆の目が彷徨い始める。
火は燃料を探す。次の標的を探す。
リゼットは、そこで言葉を足した。
火を別の誰かへ移させるためではない。火そのものを弱めるために。
「悪い者を一人決めれば、安心できます。けれど安心は短い。次の冬に、また誰かが必要になる。……だから私は、悪い者を探すより先に、穴を塞ぎます。物資の流れを透明にし、帳簿を開き、誰が何を止めたのかを記録します」
記録。帳簿。数字。
群衆はそれを退屈だと思う。
だが退屈なものが、命を守る。派手な断罪より、地味な透明化のほうが効く。
係官が事務的に告げた。
「ヴァルグラン嬢の拘束は解除する。むしろ昨夜、封蝋の合図により北門へ向かったことで、偽造経路の一部が露見した。協力に感謝する」
司祭が言葉を失う。
群衆の“断罪の熱”が宙に浮く。
宙に浮いた熱は、次の燃料を探し始める。
そして――それが一番恐ろしい。
火は簡単には消えない。燃やす対象を変えるだけだ。
リゼットは、群衆の視線を受け止めながら、静かに言った。
「あなたが希望と認識している最後のものは、本当は絶望かもしれない。
あなたは目の前にあるものだけを信じ、その裏にある本質を見い出そうとしなかった。だから裏切られ、打ちひしがれているのだ」
彼女自身、今言った言葉が群衆に届くとは思っていない。
けれど言葉は、誰か一人に刺さればいい。
刺さった一人が、次に問いを立てる。
「猫は実はパンであり、パンは誰かの命であり、命は帳簿の穴で失われる。……私が見たのは、猫でもパンでもありません。穴です」
穴。
それは物語ではない。現実だ。
現実は退屈で、残酷で、そして変えられる。
釈放された直後、リゼットは施療院へ向かった。
物資が無事に届いたなら、今夜を越えられる命がある。
施療院の裏口で、彼女は年配の医師と向き合った。
医師は深く頭を下げた。リゼットは慌てて手を振った。
「やめてください。頭を下げるべきは私ではない。あなた方は毎日ここで人を救っている」
医師は苦笑し、疲れた目で言った。
「救っているのではありませんよ。救えない数のほうが多い。ただ、それでも……止めないだけです」
その言葉が胸に刺さる。
リゼットは昨夜の路地の鳴き声を思い出した。あれは猫の声だったのかもしれないし、風が作った音だったのかもしれない。
だが、彼女は“猫だと思った”自分を否定しない。誤認は起きる。問題は誤認のあとだ。
廊下を歩くと、子どもがリゼットを見て固まった。
次に、その子は小さく頭を下げた。
「……悪い人、じゃないの?」
直球の問い。
大人なら遠回しに言う。子どもは真っ直ぐに聞く。
リゼットは膝をつき、目線を合わせた。
「悪い人だと思った?」
子どもは頷く。
「みんなが言ってた。猫を食べたって」
喉の奥が痛くなる。
噂は食べ物のように消費される。栄養にはならないのに。
「私は猫は食べないわ。猫もパンも、誰かが生きるためにある。私は、それを奪いたくない」
子どもは首をかしげた。
「じゃあ、なんでみんな、怒ってたの?」
リゼットは少し考え、言った。
「怖かったのだと思う。怖いと、人は簡単な話を信じるの。悪い人がいて、その人を罰すれば安心できる、っていう話」
「……それ、ほんと?」
「本当ではないことが多い。でも、“安心したい”という気持ちは本当」
子どもは少し考えて、言った。
「じゃあ、また怒る?」
その問いが未来を指していた。
リゼットは答える。
「怒る人はいる。きっとまた、私を悪役にしたい人もいる。……でも、あなたが今日、私に聞いたでしょう。確かめたでしょう。それが増えれば、話は変わる」
子どもが小さく頷き、走っていった。
その背中が、雪の中の小さな火種に見えた。
火は燃やすためだけにあるのではない。温めるためにもある。
夜。リゼットは屋敷の書斎で、一通の手紙を開いた。
差出人は王家監査局。内容は端的だった。
――本日の騒動は一部収束したが、根は深い。
――施療院物資横領計画の背後に貴族派閥の争いがある可能性。
――ヴァルグラン家への牽制として“悪役令嬢”の印象操作が利用された疑い。
――あなたの安全は保証できない。
紙を置き、窓の外を見た。
王都の灯りが遠く揺れている。温かそうに見える。
だがその灯りの下にも、凍える者がいる。
机の端に小さな包みがあった。施療院から届いた礼だ。
包みを開くと、白いパンが一斤、丁寧に入っていた。
一斤。
まだ一斤もある。
それは食料でもあり、合図でもあり、希望でもある。
リゼットはパンの角に触れた。
白く、柔らかく、温かい。
この温かさは、誰かの手から来ている。
誰かの働きと、誰かの祈りと、誰かの諦めない意志から来ている。
窓の向こう、冬の夜空は暗い。
けれど闇だけではない。雲の切れ目に、月がある。
月光は冷たいのに、なぜか心を落ち着かせる。
人は目の前のものだけを信じたがる。
猫だと思えば猫になる。
パンだと思えばパンになる。
悪役だと思えば悪役になる。
寄生虫だと思えば、寄生虫になる。
――ならば。
彼女はゆっくり息を吐き、決めた。
“見られた姿”を否定するために戦うのではない。
“見ようとしない態度”そのものを、静かに突き崩していく。
噂を止めることはできない。
だが、確かめる者を増やすことはできる。
問いを投げ、答えを急がず、構造を示すことはできる。
明日、施療院へもう一度行く。
監査局と連携し、物資の流れを透明化する。
詰所の検査記録を、形式ではなく実態に変える。
帳簿を閉じた人間の顔を、数字で照らす。
そして、私を悪役にしたい者が最も嫌うことをする。
“静かに、役に立つ”のだ。
彼女は机に向かい、新しい帳簿を開いた。
ペン先が紙を滑り、線が引かれる。
線は誰かを斬る刃ではない。命を運ぶための道筋だ。
外で風が鳴った。
だが書斎の灯りは揺れなかった。
翌朝、王都の噂はまた走り始めた。
――悪役令嬢は処刑台から逃げた。
――監査局に取り入った。
――今度は施療院を完全に支配するつもりだ。
――いや、あいつは貴族の寄生虫だ。タニシだ。
タニシ。
水路の石にへばりつく黒い殻。
誰に迷惑をかけているわけでもないのに、嫌われる。
嫌うことで、人は自分が“清潔だ”と錯覚できるからだ。
リゼットは外套を羽織り、扉を開けた。
噂の音が遠くでざわつく。
けれど彼女の足取りは、昨日より少しだけ軽い。
見たものだけを信じた者たちの断罪は、まだ終わらない。
けれど断罪の炎が永遠に燃えるわけでもない。燃料が尽きれば、火は弱まる。
燃料とは、無関心だ。
確かめないことだ。
問いを捨てることだ。
ならば彼女は燃料を減らす。
“猫か、パンか、悪役か”という愚かな問いの裏に、
もっと重要な問いを置き続ける。
――誰が得をしている?
――誰が凍えている?
――誰が、見ないふりをしている?
――そして、何を記録から消した?
その問いを持つ者が増えるなら、
悪役令嬢は悪役である必要がなくなる。
そしていつか、噂ではなく事実が、先に降る日が来る。
冷たい冬の王都にも、
あたたかな午後の日差しが差し込む日が来る。
猫かと思ってよく見りゃパン。
しかし一斤、まだ、まだ一斤もあるじゃないか。
彼女はパンを抱えたまま、施療院へ向かった。
それは逃走ではなく、仕事だった。
物語ではなく、生活だった。
断罪ではなく、継続だった。
この物語は、特撮の楽曲「ケテルビー」から着想を得ています。
「猫かと思ったらパン、しかも一斤」というあまりにも馬鹿げたフレーズは、笑ってしまうほど不条理でありながら、同時にとても残酷です。なぜなら私たちは、その笑いの中で「見間違えたこと」ではなく、「見間違えた相手」を消費してしまうからです。
歌の中で繰り返される
「猫はパンで、パンは女で、女はタニシだった」
という連鎖は、認識が次々にずれていく可笑しさであると同時に、
「対象が何であれ、人は好きな形に決めつける」
という怖さを含んでいます。
この作品の悪役令嬢も同じです。
猫だと思われ、パンだと思われ、呪いだと思われ、悪役だと思われ、寄生虫だと思われる。
彼女自身は変わらなくても、見る側の認識だけが次々に形を変えていく。
それは彼女が悪だからではなく、「悪であってほしい」という欲求が周囲にあったからです。
「ケテルビー」が優れているのは、
最後にそれをただの絶望で終わらせないところだと思っています。
> まだ、まだ一斤もあるじゃないか。
この一文は、失ったように見えても、実はまだ“何かが残っている”という救済です。
この物語でリゼットがパンを抱え続けるのも、同じ意味を持っています。
それは食べ物であり、合図であり、仕事であり、そして希望です。
噂は止められません。
断罪も簡単には終わりません。
けれど、確かめようとする意思は残せる。
問いを投げ続けることはできる。
猫か、パンか、悪役か。
そのどれでもない「現実」が、確かに存在している。
「ケテルビー」はそれを、不条理な笑いで包みながら、静かに示している曲だと思います。
この短編は、その思想へのひとつの返歌です。




