猫、静かに消されかける
英雄が完成すると、余分なものは片付けられる。
それは悪意ではない。整理である。人間社会は、不要になった要素を「自然に」消す方法を、長い時間をかけて身につけてきた。
式典の翌朝、我輩は違和感で目を覚ました。
静かすぎる。
王都の朝は騒がしいはずだ。馬の音、人の声、遠くの鐘。それらが薄い。まるで、音そのものが抑えられているようだった。
目を開けると、部屋が違っていた。
昨日までいた宿ではない。窓は高く、柵があり、扉は重い。清潔ではあるが、居心地が悪い。ここは――隔離だ。
我輩は状況を理解した。
猫は、移動された。
レオンはいない。
彼の匂いも、声も、気配もない。代わりにあるのは、薬草と金属と、人の「管理」の匂いだ。
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは、白衣の男と兵士だった。白衣の男は我輩を見て、興味深そうに目を細めた。
「……確かに、妙だな」
妙、とは何に対してか。
「戦場で生き残り、魔法陣の暴走を止め、英雄のそばにいる猫」
彼は淡々と記録を読み上げる。
「偶然にしては、出来すぎている」
兵士は黙って立っている。彼らは考えない役目だ。
「魔物ではない。使い魔でもない。だが、ただの猫とも言い切れない」
白衣の男は近づき、我輩を観察した。
視線が、皮膚をなぞる。
これは危険だ。
猫は理解した。
理解しすぎた存在は、研究対象になる。
「処分するほどでもない」
男は言った。
「だが、放置もできない」
この言葉ほど、不吉なものはない。
「しばらく、ここで様子を見よう」
様子を見る、とは、逃げ道を塞ぐことだ。
扉が閉まり、再び静寂が戻った。
我輩は、窓の外を見た。王都の空は青い。何も変わらないように見える。だが、英雄の裏側で、不要物の整理が始まっている。
昼頃、別の足音がした。
今度は、軽い。
扉が開き、銀髪が覗いた。
「……やっぱり、ここでしたか」
セリアだった。
彼女は周囲を確認し、素早く中に入ると、扉を閉めた。
「時間がありません」
声は低い。
「あなた、目立ちすぎました」
我輩は彼女を見上げた。
彼女は苦笑した。
「猫に向かって言う言葉じゃないですね。でも……」
言葉を探す仕草。
「あなたは、英雄のそばにいすぎる」
それが、罪だ。
「英雄は“奇跡”で生き残らなければいけない。でもあなたがいると――」
奇跡の仕組みが、見えてしまう。
セリアは我輩の首輪を外した。いつの間にか、付けられていたものだ。管理の印である。
「今日の夜、警備が薄くなります」
彼女は小さな鍵を差し出した。
「ここを出て。王都を離れて」
なぜ、そこまでする。
その問いを、我輩は目で投げた。
「……私も、見たからです」
彼女は言った。
「事故じゃなかった。試験だった」
彼女の声は震えていた。
「あなたが爪を立てた魔法陣、報告書から消されてました」
やはり。
「英雄を守った存在が、猫だったなんて、都合が悪すぎる」
セリアは立ち上がった。
「レオンには、知らせないでください」
その言葉が、何より重かった。
「彼は、もう戻れない場所にいます」
扉が再び閉まり、我輩は一人になった。
鍵は小さく、軽い。
選択は、猫に委ねられた。
逃げれば、生き延びる。
残れば、消される。
だが――
英雄の足元から消えた猫は、
誰が覚えているだろうか。
我輩は、鍵を前に考えた。
傍観者に戻ることは、できない。
だが記録者でいるには、ここは危険すぎる。
猫は、狭い場所を抜ける生き物だ。
だが同時に、帰る場所を忘れない。
我輩は猫である。
そして今、世界から“不要”と判断された。
だが――
不要なものほど、
後で効いてくる。




